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六月と蒼い月  作者: 金時るるの
六月と赤い果実
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六月と赤い果実 1

 頭の包帯が取れる頃、休暇が終わり、帰省していた生徒達が一斉に学校へ戻ってきた。

 昨日まで閑散としていた校内では、今やあちらこちらで生徒達の輪が形成され、再会を喜ぶ声が聞こえる。

 その中にアルベルトの姿を見つけたので近寄ると、彼のほうもこちらに気付いて手を上げた。


「いいところに来たね。部屋まで訪ねる手間が省けたよ」


 何の事かと首を傾げると、アルベルトは荷物の中を手探り、無造作に瓶をひとつ取り出してこちらに差し出す。


「はい、お土産。自家製のコケモモのジャムなんだ。君の口にも合うといいんだけど」

「わあ、ありがとうございます。おいしそう」

「我が家のジャムは意外と皆に好評でね。休暇明けにはこれを楽しみにしてる奴もいるくらい。おかげで荷物が嵩張って仕方ない」


 そうは言うが、アルベルトはにこにこと笑っている。それはそうだろう。自分の家で作ったものを褒められて悪い気はしないはずだ。

 そんな事を思っているそばから、アルベルトは知り合いらしき生徒に声を掛けられ、同じようにジャムの瓶を取り出して渡している。そのまま親しげに話しこみ始めたので、邪魔をしないようにわたしは再度お礼を言ってその場から離れた。


 ガラス瓶に詰められた真紅のジャムは、陽の光にかざすと宝石みたいにきらきらと光った。

 どうやって食べようかとあれこれ考えながら歩いていると、不意に何かに躓き、盛大につんのめる。そのまま前方に投げ出され、身体を床に打ち付けてしまった。


「いたた……」


 一体なんだったのかと身体を起こす。と、手元にジャムの瓶がない事に気付く。

 あれ? 落とした? どこに?

 慌ててあたりを見回すと、前方に見覚えのある瓶が転がっていた。今の衝撃で手から離れてしまったみたいだ。幸いにも割れてはいない。

 その時、わたしの横を誰かが通り過ぎたかと思うと、さっと瓶を拾い上げた。 


「やあ、子猫ちゃん。ぼけっと歩いてると危ないよ」


 振り返ったその人物はイザークだった。彼は唇の端を吊り上げながらこちらを見下ろす。

 もしかして、彼に足を引っ掛けられた……? 


「休暇中はよく眠れた? まさか、寂しくて毎晩泣いてたんじゃないだろうね?」


 その言い方に悪意を感じたので、わたしも笑顔をつくってみせる。


「ご心配なく。毎日とってもよく眠れましたよ」


 強がりで言っているわけではないとわかったのか、イザークは一瞬つまらなそうな顔をした。

 わたしは膝についた埃を払いながら立ち上がる。


「あ、そういえば、あなたに貰ったレープクーヘン、とってもおいしかったです。ごちそうさまでした。でも、ひとつだけ塩辛いような妙な味のものが混ざってたんですよ。なんだったのかな……」

「ふうん。製造者が砂糖と塩を間違えたのかもね」

「しかも、箱の底に残った最後のひとつがそれだったんですよ。毎日少しずつ楽しみに食べてたのに、最後の最後がそれだったなんて……」

「それは災難だったね。でも、ま、そんな事もあるでしょ。ちょうどいいからこれで口直しでもしたら? 」


 イザークはジャムの瓶をわたしの手に押し付けると、手をひらひらと振って去っていった。

 なんだろう。微妙に慰められたような……

 瓶も拾ってくれたし、足を引っ掛けられたと思ったのも、こちらの勘違いだったのかも。

 そんな事を考えながら、手の中の瓶に目を落とす。

 口直しか……それもいいけれど、どうせなら……







 日曜日、わたしはアトリエのドアを叩く。

 少しして開かれたドアからヴェルナーさんがその姿を覗かせた。

 よかった。いつも通りだ。


「……もう、怪我は治ったのか? 」

「ええ、この通り、すっかりよくなりました。それよりヴェルナーさん、あの人はどうなったんですか?」


 「あの人」とはもちろんディルクの事だ。あの事件についてヴェルナーさんは警察に知らせたようだが、その後どうなったのかわたしはまだ知らない。


「それが、まだ逃亡しているらしい」

「そうですか……」


 あんな恐ろしい人間が、いまだどこかをうろつき回っているだなんて。あの日の事を思い出すと、なんとなく息苦しくなったような気がして、わたしはマフラーを引っ張って首元を少し緩める。

 それを察したかのようにヴェルナーさんが付け加える。


「だが、いつまでも逃げ回っていられるはずも無い。すぐに捕まるだろう」

「……そうですね。そう願ってます」

「それと」


 ヴェルナーさんは話題を変えるように切り出す。


「君の存在については、なんとか警察には知られずに済んだ、と思う」

「ほんとですか? よかった……無茶なお願いをしてしまってすみません」


 ヴェルナーさんは「気にするな」とでも言うかのように頷いた。

 ディルクの事については不安が残るものの、ヴェルナーさんの言う通り、明日にでも解決するかもしれない。それに、わたしの素性が公になる事だって防がれた。その事にとりあえず胸を撫で下ろすのだった。


 気を取り直してアトリエの中を見回すと、デッサン用のモチーフの周りにイーゼルがふたつ用意されているのに気がついた。

 ひとつはわたしが使うはずのものだが、もうひとつは……

 思わずヴェルナーさんのほうを振り向くと、彼は頷いた。


「この間言っただろう? 一緒にデッサンをしようって」

「それじゃあ……」


 わたしは言いかけて言葉に詰まる。

 この人は本当に立ち直ったのだ。そうして再び絵を描こうとしている。それは先日も彼自身により聞かされたことだが、こうして目の前に置かれた画材を実際に目にして、より実感が湧いてきた。

 胸が一杯になると同時に、早く彼の絵を見たいという思いがこみ上げる。


「ヴェルナーさん、早速デッサンを始めましょう」


 急かすようにして、構図決めもそこそこに、適当にイーゼルを配置する。

 そうして木炭を手に取り、デッサンを始めるが、どうしてもヴェルナーさんのほうが気になってしまう。

 彼はどんな絵を描くんだろう。いつか見た風景画も素晴らしかったけれど、デッサンとなればまた違う。

 わたしは適当にイーゼルの位置を決めた事を後悔した。ここからではヴェルナーさんの顔がかろうじて見える程度だ。どうせなら、彼の近くで絵が出来上がる過程を見てみたかった。

 それにしても――とわたしはヴェルナーさんの様子を伺いながら考える。

 以前に似顔絵を描いてもらった時も思ったけれど、この人が真剣に絵を描く姿はすごくかっこいい。勿論、普段だってかっこいいが、こうして絵を描いているときは、なんというか、周りを取り巻く空気が変わったような気がするのだ。

 いつの間にかその様子に見入ってしまっていたわたしは、考えを切り替えるように慌てて頭を振る。

 ……いけない。今はデッサンに集中しなければ。

 いつのまにか止まっていた右手を再び動かし始めた。


 やがてお昼になった。いつもならば休憩の頃合なのだが、ヴェルナーさんは気が付かないのか何も言い出さない。よほど集中しているらしく、その真剣な様子に声をかけるのも憚られる。


 どうしよう。お腹がへった……


 パンの耳に手を伸ばしかけて、寸前で思いとどまる。いや、だめだ。今日は我慢だ。

 でも、目の前に食べ物がある状態で空腹を我慢するというのは拷問に等しい。

 少しだけ食べてしまおうか? いやいや、やっぱりだめだ。

 そんな葛藤と戦っているうちに、わたしの腹部から蛙の鳴き声みたいな奇妙な音が漏れた。

 ヴェルナーさんがこちらに目を向ける。ばっちり聞かれてしまったみたいだ。

 慌てて腹部を押さえるわたしを見て、ヴェルナーさんは小さく笑ったかと思うと


「……気付かなくてすまない。そろそろ休憩にしようか」


 と言って木炭を置いた。

 うう……笑われてしまった。

 恥ずかしさを振り払うかのように、ヴェルナーさんの傍に近づくとイーゼルを覗き込む。彼のデッサンがどんなふうなのか知りたかったのだ。


「あれ? これってもう完成してるんじゃ……?」


 わたしが思わず声を上げると、ヴェルナーさんは首を横に振る。


「いや、まだ影を乗せただけだ。このままでは描き込みが足りない」


 うーん、そういうものなのか……

 素人目にはこれ以上加筆する必要があるように見えないのだが。今の時点で、わたしが時間をかけて描いたものよりもずっと上手だ。あたりまえかもしれないが。

 その時ふと、この人はかつてどんな肖像画を描いていたんだろうかという考えが頭をよぎった。以前に見た風景画も美しかったし、描きかけのデッサンだってこんなに上手だ。専門にしていた肖像画はさぞや見事だったのではないか。

 気になるけれど、もう描かない絵についてあれこれ尋ねるのも無神経であるし、ヴェルナーさんだっていい気はしないだろう。

 ――でも、ヴェルナーさんの描いた肖像画、見てみたいなあ……





 夕方、デッサンを終えて軽く講評を受けた後、パンの耳を集めてストーブで炙る。

 以前にヴェルナーさんが言っていた美味しいパンの耳の食べ方だ。お腹がへっても手を出すのを我慢していたのもこのためだったのだ。


「今日はジャムを持ってきたんですよ。パンの耳につけたら美味しいと思って」


 わたしはアルベルトから貰ったジャムの瓶を取り出した。

 スプーンを借りると、程よく焼けたパンの耳にたっぷりと真紅のジャムを乗せてヴェルナーさんに差し出す。


「どうぞ」

「……君が先に食べるといい」

「それだとわたしの手が塞がってジャムが塗れなくなります」

「……いや、自分の分は自分でできる」

「あ、ほら、そんな事言ってる間に他のパンの耳が焦げますよ。早く早く!」


 そう急かすとヴェルナーさんは躊躇いがちにわたしの手からパンの耳を受け取った。彼はそれを口元へと運び、一口齧る。

 かと思った次の瞬間、彼は口元を手で覆うと、背を丸め、激しく咳き込み始めた。

 その尋常でない様子にわたしは慌てた。


「だ、大丈夫ですか!?」


 おろおろしながらも声を掛けると、それに応えるようにヴェルナーさんが片手を上げる。

 暫く咳き込んだ後。やっと落ち着いたのか、彼は深く息を吐いて、齧りかけのパンの耳を見つめる。


「……このジャムは一体……」

「ジャム……?」


 彼の言葉を聞いたわたしはスプーンでジャムを掬うと、顔を近づけてまじまじと見つめる。見た目には特に変わったところは無い。

 もしかして傷んでいたとか……? だとしても、ヴェルナーさんのあの反応はよっぽどだ。

 暫くスプーンを見つめた後、今度は鼻を近づけてみる。

 うーん……よくわからない。

 隣でヴェルナーさんが何か言いかけたような気がしたが、それより早くわたしはスプーンを口に含んでいた。

 その途端、鼻に抜けるような刺激が走る。直後にじゃりじゃりとした食感と共に強烈な塩気とジャムの甘さ、それにスパイスのようなものが混ざった変な味が口の中に広がって、思わず吐き出しそうになる。

 それを堪えてなんとか飲み下したものの、わたしもまた激しく咳き込んでしまった。

 その様子を見たヴェルナーさんが水を持ってきてくれたので、受け取るとコップに口をつける。冷たい水と共に口の中に残った奇妙な味が洗い流されていって、わたしは大きく息を吐き出した。




「すみません、まさかあんなにひどい味だとは思わなくて……」


 謝りながらお皿に盛られたパンの耳をひとつ取って齧る。

 こうして炙られただけのものだっておいしくないわけではない。わけではないが、ジャムを楽しみにしていただけに残念な気持ちが勝る。


「気にする事はない。君だって知らなかったんだろう?」


 ヴェルナーさんはそう言ってくれるが、自分だけならともかく、彼にもあんな変なものを食べさせてしまったのだ。やっぱり申し訳ない。

 肩を落としていると、この家で飼われている白猫が足元に擦り寄ってきたので抱き上げる。

 ああ、ヤーデはかわいいなあ……

 まずいものを食べた後の嫌な気分を小動物を愛でることで癒されたい。そう思って撫で回していると、ヤーデは嫌がるように身体を捻らせてわたしの膝から逃げてしまった。

 やりすぎてしまったみたいだ。癒しであるはずの小動物にも逃げられ、このやるせない気持ちをどうしたらいいのか。思わず溜息が漏れる。


「……少し早いが今日はここまでにしようか。学校まで送ろう」


 ヴェルナーさんの言葉に我に返った。


「いえ、そんな、ひとりで帰れるので大丈夫です。もう頭の傷も治りましたし」


 そう言って断ろうとすると、ヴェルナーさんが何か考え込むように頬に手をあてる。


「いや、俺も寄りたい場所があって……すまないが少し付き合って貰えないか?」





 アトリエを出て、ヴェルナーさんに付いて行くと、食堂へ向かうときにいつも通る市場へと出た。昼時は賑やかな一帯も、この時間ともなればちらほらと店じまいの支度を始めている。

 ヴェルナーさんはその中を歩きながら、何かを探すように辺りを見回す。

 やがてある一点に目を留めたかと思うと


「少しここで待っていてくれ」


 絶対に動かないようにと言い置いて、ひとつの屋台に近づいていった。

 暫くして戻ってきた彼の両手には、ひとつずつ何かが握られている。


「まだ店が開いていてよかった」


 彼はそのうちのひとつをわたしに差し出す。

 それは夕日を反射して輝くリンゴ飴だった。


「……好きだろう? リンゴ飴」

「えっ?」

「以前にここではぐれた時に食べていたから」

「確かに好きですけど……あの、念のために言っておきますけど、あの時リンゴ飴を食べていたのは、長時間はぐれたままの可能性のために体力を温存しておこうと思ったからであって、食べたい気持ちをどうしても我慢できなかったとかいうわけじゃないですよ?」

「……そうなのか? 俺はてっきり……」

「ち、違いますから!」

「いや、冗談だ」


 ほんとに冗談なのかな……

 ともあれ、リンゴ飴はありがたく受け取る。

 手にしたそれを齧りながら二人並んで歩く。

 もしかして「寄りたい場所」ってここだったんだろうか……? そんなにあのジャムがますかった? だから口直しのつもりでリンゴ飴を……?

 でも、それだけの理由だったら、わざわざここに寄ってわたしの好物だと思うものを選んだりなんて面倒くさいことはしないはずだ。となると、彼がこんな事をした理由は……


「あの、ヴェルナーさん、わたし、そんなに落ち込んでるように見えました……?」


 ヴェルナーさんはリンゴ飴を一口齧る。


「……がっかりしているようには見えた」 


 やっぱり。あのジャムを食べた後のわたしの様子を見て、このリンゴ飴を買ってくれたのだ。

 うーん、気を遣わせてしまった……

 元はといえばあのジャムを持ってきたのはわたしであるし、むしろこちらこそ変なものを食べさせたお詫びとして、何かご馳走するべきだったのではなかろうか。

 そんな事を考えていると、ヴェルナーさんが何かを思い出したように口を開いた。


「そういえば、君は見つけられたんだろうか?」

「何をですか?」

「……リンゴの角」

「え? ええと、それは……」


 思わず言葉に詰まるが、誤魔化しても仕方がない。絵を描けばすぐにばれてしまうのだと思い正直に打ち明けることにする。


「実は、まだよくわからなくて……」

「そうか……」


 わたしは慌てて弁解する。


「あ、でも、ほら、角がわからないのはリンゴにも原因があると思うんですよ。意外と複雑な色合いだったりして陰影がわかりづらいし……」

「確かに、色のついているモチーフを白黒のデッサンに落とし込むのは、難しいと言えば難しいが……」

「そうですよね! たとえばリンゴが真っ白だったりすれば、わたしにも角がわかると思うんですよね。いやー、残念だなー。白いリンゴがあればなー」

「白いリンゴか……」


 ヴェルナーさんは呟くと、齧りかけのリンゴ飴を見つめながら、何かを考え込むように頬に手をあてた。

 まさか、ほんとにあるのかな。白いリンゴ……

 もしもそんなものが存在するとして「これで角がわかるだろう?」だとか言いながらヴェルナーさんがそれを持ってきたらどうしよう。あんな事を言った手前「やっぱり無理です」と口にするのは難しい。 

 いや、でも……とわたしは思い直す。

 実際に目にすれば、案外すんなりと角を見つけられる可能性だってあるじゃないか。

 それに、気になる事もある。白いリンゴは一体どんな味なのか。

 期待と不安の入り混じった気持ちで、わたしは目の前のリンゴ飴を齧った。

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