六月と瞳を開く肖像画 5
翌朝、目覚めたわたしが顔を洗おうと寝室を出ると、既に出掛ける用意を済ませたクルトが待っていた。
ロザリンデさんに逢いに行く日のクルトは相変わらず張り切っている。
挨拶をして部屋を出ようとしたところで
「おい、ちょっと待て」
と呼び止められた。
「その頭、どうしたんだ? ……血が付いてる」
ぎくりとして頭に手をやると、昨日ぶつけたあたりがじっとりと湿っている。眠っている間に傷口が開いてしまったみたいだ。
「ええと、これはその、昨日転んで頭を打った拍子に少し切ってしまって……」
わたしは咄嗟に嘘をついた。
「それで、ヴェルナーさんに病院に連れて行ってもらって手当てを受けたんですけど……」
「手当て? その割には昨日は包帯もなにもしてなかったじゃないか」
「夕方には血も止まってたし、包帯を外してもいいかなーと思って……」
それを聞いてクルトが呆れたように溜息をつく。
「お前はどうしてそう勝手な事をするんだ……そんなことしたら治るものも治らないだろう?」
その鋭い眼差しにわたしは思わず身をすくめる。
「だ、だって……」
「だって?」
問い詰められるような口調に視線を逸らす。
「その……クルトが怒ると思って……」
「はあ? 怒る? 俺が?」
「あ、ほら、今だって怒ってる! わたしが何かするたびにそうやって怒って……だから言いたくなかったんですよ……!」
「俺は怒ってなんか……!」
言い掛けてクルトは口を噤む。
恐る恐る様子を伺うと、クルトは腕組みして何か考える素振りをしていた。
かと思うとつかつかとわたしに近づき、腕を取ると強引に部屋から連れ出してしまった。
突然のことに何も言えず、腕を引かれながら廊下を歩く。クルトの顔を伺うと、彼の目がこちらを向いたので、わたしは思わず俯く。
「そんなにびくびくするなよ。保健室に向かってるだけだ。それに、俺は別に怒ってるわけじゃない」
「ほ、ほんとに……?」
「ああ。今までだってそうだ。けれど、そういうふうに感じさせていたなら謝る。俺はただ――お前を見てるとたまにイライラするというか……」
「そ、それってやっぱり怒ってるんじゃないですか……!」
「そういう意味じゃない」
それじゃあどういう意味だろう?
わたしがその言葉について考えていると、クルトが口を開く。
その口調は先ほどまでに比べると随分と穏やかな調子だった。
「なんて言ったらいいか、その……気がかりと言うほうが近いかもしれない。普段はどこか抜けているのに、ときどき驚くほど冴えていて、そのくせ信じられないくらい無防備だったりする。お前のその不安定さが危なっかしく見えるんだ」
クルトの意外な言葉にわたしはぽかんとしてしまった。
気がかり? わたしのことが? 怒ってたんじゃなくて?
「それで、お前がおかしなことをするたびに、つい干渉してしまう。思えばその時の言い方にきついところがあったかもしれない。けれど、それは決して怒っていたわけではなくて……って、なにニヤニヤしてるんだ?」
言われてわたしは口元に手をやる。クルトの話を聞いているうちにいつのまにか頬が緩んでいた。
「それってわたしのことが心配で心配で仕方ないって事ですか? 放っておけないって事ですか? やだなあ、それならそうと早く言ってくれたら良かったのに。いやー、クルトがそんな風に思ってたなんて知らなかったなー」
「……お前はそうやってすぐ調子に乗る。うざったい事この上ない」
じろりと睨まれるが、もう怖くない。
「気味の悪いニヤニヤ笑いはやめろ。ともかくさっさと手当てして貰うぞ」
そうしてニヤニヤしたままクルトに連れられ、保険室で再び包帯を巻かれることとなったが、頭にぐるぐると巻かれたそれも少しも煩わしいとは思わなかった。おかげで養護教諭には打ちどころが悪かったのではと心配されたが。
出血の割には傷の状態もたいした事はなかったので、そのままクルトと共に彼の別荘に行くつもりでいたのだが
「今日は一日大人しくしてろ」
と言われ、ひとりで留守番することになってしまった。
クルトの目が無いのを良いことにソファにごろりと寝転がる。
それにしてもクルトがあんなふうに考えているなんて意外だった。お姉さん以外の人間にはさほど興味がないのかと思っていたから。
でも、改めて思い返せば心当たりはある。今までもクルトは口ではあれこれ言いながらも世話を焼いてくれていた。性別がばれないように庇ってくれたし、体調が悪ければ薬を持ってきてくれた。この休暇中だって、彼は別荘には泊まらずに、わざわざ寮まで帰ってきてくれるではないか。ひとりきりのわたしが泣いてるのではと気にして。
それもすべてクルトの言うように、わたしのことが気がかりだったからなんだろうか。だとしたら自分はこれまで何度彼に迷惑をかけたかわからない。
それを申し訳ないと思いながらも再び口元が緩んできた。
自分の事を気にかけてくれる誰かがいる。それが嬉しくないわけがない。なんだか胸の辺りがじんわりと暖かくなったような気がした。
でも……とわたしはふと考える。それなら余計昨日の事は言えない。怒られるわけでは無いとわかったが、代わりに心配をかけてしまう事になる。
やっぱり怪我の本当の理由は黙っておこう……
暫くソファでごろごろしていたが、退屈に耐えられずわたしは部屋から抜け出した。
大人しくしていろとは言われたけど、少しくらいならいいよね……
そうして図書館に行って時間を潰した後、すぐには部屋に戻らずに外を散歩する事にした。
歩きながら空を見上げる。晴れているとはいえ冬の空気はやっぱり冷たい。手袋もしてくればよかったかな。
「その包帯、どうしたんだい?」
不意に声を掛けられ振り向くと、バケツを抱えたミエット先生が立っていた。
「あ、先生……これはその、ちょっと転んでぶつけてしまって……」
「大丈夫? 参ったな、ユーニがそんな怪我してるなんて知らなかったよ。養護の先生は特に何も言ってなかったし……」
担任として生徒の怪我を把握していなかった事を気にしているみたいだ。わたしは慌てて両手を振る。
「今朝保健室に行ったばっかりなんですよ。それに、こんなふうに包帯巻かれて大袈裟に見えますけど、傷自体はたいした事ないんです。今だってこうして歩き回っても平気なんですから」
「そう? それならいいんだけど……」
それでも先生の表情が曇ったままだったので、わたしは慌てて話題を変える。
「ええと、先生はこんなところで何をしてたんですか?」
「え? ああ。これから温室に行こうと思ってね」
持っていたバケツの中を見せてもらうと、中には園芸用品が入っていた。
「それなら、わたしも行って良いですか?」
「おや、とうとうユーニも植物に興味が湧いたの?」
「あ、いえ、その、外を歩いていたら冷えてしまって……」
「あはは、そっちが目当てか。確かにあそこは暖かいからね。いいよ、おいで」
「やった。ありがとうございます」
そうして先生と一緒に温室に足を踏み入れる。思ったとおり室内はガラス張りの天井から陽が差し込んで、ぽかぽかと暖かい。ところどころ花も咲いていて春の庭みたいだ。
先生は花壇の一角にバケツを置く。彼の足元には何本かの水仙が花を咲かせていた。
「これ、見てよ。一本だけ変なところに咲いちゃったんだ」
その示すほうに目をやると、確かに一本の水仙だけが他より一メートルほど離れたところにぽつんと咲いている。
「一箇所に咲くように球根を植えたはずなんだけどなぁ。誰かが掘り返して植え直したのかな?」
「そんな。何のために? どうしても水仙が欲しくて手折るならまだしも、わざわざ離れたところに植える意味なんてあるんですか?」
「それがわからないんだよねえ」
先生はシャベルを片手に首を捻る。
わたしはふと思いついたことを口にする。
「先生、この建物の中の地面って、外の地面とは繋がってるんですか? それとも四方とも地面の深くまで壁で遮られているんですか?」
「うん? 確か北側の一箇所は外と繋がってるはずだよ。大きな扉が付いてて、そこから植物を傷つけないよう搬入出できるようになってるんだ」
「それなら、水仙を動かしたのは、そこから入り込んだモグラの仕業ですね」
「へえ?」
「モグラが地中を移動する際に、球根のひとつに突き当たって、そのまま離れた場所まで動かしてしまったんです」
「ああ、そして移動した先で水仙が芽を出したってわけか。ふうん。なるほどねえ……」
先生は感心したように頷いている。その姿にわたしはなにか引っかかるものを感じた。
思い過ごしかもしれないとは考えながらもわたしは口を開いていた。
「でも、園芸のことに詳しい先生だったら、モグラの仕業だってわかっていたんじゃありませんか? もしかして、敢えて知らないふりをしていたとか……?」
そう問うと、一瞬の間をおいて先生は困ったような顔でくしゃくしゃと頭をかいた。
「あー……ばれちゃった?」
「どういう事ですか?」
わたしが眉をひそめると、先生は慌てたように弁解する。
「ごめんごめん。悪気があったわけじゃないんだ。この間の発表会の日の事、マリウスから聞いたんだよ。教室に撒かれたペンキの件をユーニが見事推理したって。それで、ちょっと確かめたくなってね」
「わたしのこと、試したんですか? どうして?」
「いやぁ、特に意味は無いよ。ただの好奇心で……でも、マリウスの言ったとおりだなぁ。ユーニにこんな才能があったなんて知らなかったよ。すごいすごい」
先生はぱちぱちと拍手する。
「褒められたって誤魔化されませんよ。先生がそんなふうに誰かを試すような事をする人だなんて思いませんでした。はっきりいって幻滅しました。もうフランス語すら勉強する気も起きないくらいに」
さすがにそれは言い過ぎだったが、試されて良い気はしないのも確かだ。少しくらい先生を困らせたって許されるんじゃないだろうか。
「気を悪くしたならごめんね? お詫びに後でとっておきのハーブティーをご馳走するからさ。機嫌を直してくれないかなあ?」
「そんなもので懐柔されませんから」
「あ、そうか。ユーニはハーブティーが苦手なんだっけ? それじゃあ普通の紅茶を用意するよ。ついでに隣町から取り寄せた美味しいお菓子も」
「わかりました。それで手を打ちます」
「よかった。交渉成立だね。あ、そうだ、おまけにこれもあげる」
先生は例の水仙を手折るとわたしに差し出した。
「いいんですか? せっかく先生が育てたのに……」
「うん、この場所では別の花を育てたいから抜くつもりでいたんだ。たぶんもう根が地中深くまで張ってるはずだから、他の水仙のそばに植え直すのも難しいと思うし。あ、でも、ユーニがいらないっていうなら無理には受け取らなくていいけど」
「いえ、そういうことなら貰います。ありがとうございます」
花は嫌いじゃない。わたしは水仙を受け取る。
白い花弁に鼻を近づけると爽やかな良い香りがした。
それから温室で先生の作業を手伝った後、お茶とお菓子をご馳走になった。
紅茶を飲みながら先生に
「ユーニ、少しは植物に興味持ってくれたかな? 」
と聞かれたが、曖昧に笑って誤魔化した。
自分で育てるのは野菜だけで懲りている。やっぱり眺めるだけが一番だ。
夕方になってクルトが帰ってきた。
「おかえりなさーい」
駆け寄って出迎えると、クルトは困惑した表情を浮かべた。
「ニヤニヤしながら纏わり付くなよ。鬱陶しい」
「ええー、冷たいなあ……あ、ねえねえクルト、お土産は?」
「なんなんだ、お前。図々しいぞ」
そう言いながらもクルトはひとつの包みを差し出してきた。
「ねえさまがお前に持っていけって。ケーキが入ってる。これをやるから少し落ち着け」
「わあ、ありがとうございます!」
早速包みを開けると、ベリーのたっぷり乗ったパイが姿を現した。一口齧ると、甘酸っぱさとクリームの甘さが口に広がる。
「はあ、おいしい……」
幸福感に浸っていると、向かい側のソファに座ったクルトが、コップに活けた水仙の花に目を留める。
「この花、どうしたんだ?」
「温室でミエット先生に貰ったんです」
言った後にしまったと思ったがもう遅い。案の定クルトは声を荒げる。
「お前、その怪我で出歩いたのか!? 大人しくしておけって言っただろう!?」
「ええと、その……すみません」
口調は荒いがクルトは怒っていない。今朝も聞いた通り、怒っているように見えるけれど、本当はそうではないのだ。
それを考えると、謝りながらもつい口元が緩みそうになってしまう。
「おい、ちゃんと話を聞いてるのか?」
わたしは慌てて俯いて顔を隠すと、神妙にしているふりをして何度も頷いた。




