六月と瞳を開く肖像画 4
次に気が付いたとき、わたしはベッドに横たわっていた。
清潔な白いシーツと同じような白い部屋。同じく真っ白なカーテンの隙間からは柔らかな光が差し込んでいる。消毒薬のようなにおいからして、どうやら病院の一室のようだ。
視線を巡らすと、ベッドの横にヴェルナーさんがいた。椅子に腰掛けてじっとこちらを見つめている。わたしが目を覚ました事もわからないみたいだ。病室にはわたしたちふたりの他には誰もいなかった。
「……ヴェルナーさん」
声を掛けると、ヴェルナーさんははっとしたように瞬きした。
「気が付いたか……俺の顔はわかるか?」
なんだか変な問いかけだと思ったが、わたしは素直に頷く。その途端、後頭部にずきりと痛みが走る。
反射的に頭に手をやると、包帯が巻かれているのがわかった。
「君はテーブルで頭を打って……その時に少し切ってしまったようだ。医者の話ではたいした事は無いそうだが……どこか痛いところは?」
「……少し頭が痛いですけど、でも大丈夫です」
答えながらゆっくりと身体を起こす。
そうだ、自分はあの時何かに頭をぶつけて気を失って……
そこまで考えてはっとする。
「ヴェルナーさん、あの人はどうなったんですか!? あの後、酷いことされませんでしたか!?」
「ああ……俺が君を介抱している間に、ディルクは絵を持ってどこかに行ってしまった」
ヴェルナーさんがあの人――ディルクから暴力を受ける事はなかったみたいだ。よかった。
「すまない。俺が彼をアトリエに招き入れたりしなければ……」
わたしは慌てて胸の前で両手を振る。
「いえ、元はといえば、わたしが余計な口を出したのがいけなかったんです。ヴェルナーさんだって、あの人の事、苦手だったみたいなのに……それに、わたしが何も考えずにあの人を逆上させるような事を言ったのも確かです。もっと言葉を選ぶべきでした」
「……あの絵が別人の描いたものだったとは。確かに、あの絵は俺が覚えている彼の絵とは大きく印象が違っていたが、それは彼が画風を変えたものかと思っていた」
「それだけじゃありません」
どういう事かというようにヴェルナーさんがこちらを見る。
「たぶん、あの絵は盗品です」
「……まさか」
「盗品だという事を誤魔化すためにも絵の一部だけを切り出す事はよくありますよね。あの人はこれまでにも何度か同じような事をしてきたんでしょう。それをわたしに気付かれたと思ってあんな事を……」
「あの時、君が言いかけたのはそれだったのか。だが、なぜ彼は盗品を自分が描いたものだと偽ったのか。サイズを変えるなんて細工までしたのならば、そのまま本来の画家の描いたものとして売れば良いだろうに」
「それは……ええと、わたしの知り合いのこどもの話なんですが……」
唐突に無関係に思える話をしだしたわたしに対して、ヴェルナーさんは口を挟むことなく見つめる。
「その子は――たとえば皆で工作なんかして、誰かが自分より出来のいいものを作ったとすると、それを取り上げて自分のものにしてしまうんです。自分が作ったんだって言い張って。優れたものを自分が作ったと言えば皆が褒めてくれる、そう思ってそんな事をするんです……ええと、何が言いたいかというと、あの人もその子と同じ、自己顕示欲や承認欲求が人一倍強いんじゃないかと思うんです。他人のものを自分のものだと偽ってまで、周囲の人に認められたい、賞賛を得たいと思っているんじゃないでしょうか」
孤児院にいたきょうだいのひとりとディルクの姿が重なった。
「でも、そんな事ばかりしていれば、そのうち自分では努力しなくなりますよね。どうせ誰かが良い物を作ってくれるんだからなんて考えて……あの人もたぶん、そうしているうちに、画力が落ちてしまったんじゃないかと思うんです。でなければ、わざわざここまであの絵を持ってきたりしないでしょう。だって、まがりなりにもあの人は画家なんですから、絵の中の女性の目が開いたとしても、その上から自分で修正すればいいはずです。おそらく、今のあの人の実力ではそれも難しいんでしょう」
そうまでしてしがみついているなんて、画家という職業がそんなにも魅力的なんだろうか?
ヴェルナーさんはわたしの話を聞き終えて、何か考え込むように頬に手をあてると
「自己顕示に承認欲求か……なるほど、納得がいくような気がする」
そう呟いて顔を上げた。
「俺が絵を描けなくなった理由を、君は知っているだろう?」
急にそんな話を始めたヴェルナーさんに戸惑いながらもわたしは頷く。
「ええ、確か事故で頭を打って……あ、でも表向きは利き腕を傷めたことになっているんですよね」
「そう、そういうことになっている。だが、事故というのは違う……これは今まで誰にも話した事はなかったんだが……俺は三年前、彼に――ディルクに高所から突き落とされたんだ」
わたしは唖然とする。
突き落とされた? あの人に?
ヴェルナーさんは言葉を補うように話を続ける。
「だが、確証はなかった。覚えているのは、あの時俺は誰かに背中を押され、傍にディルクがいたということだ。今思えば彼の嫉妬だったんだろう。あの頃、俺は仕事に恵まれていて、彼はそうではなかった」
「ど、どうして今まで黙っていたんですか?」
「目撃者もなく、突き落とされたという証拠がなかった。頭を打ってから俺はしばらくの間意識を失っていて……目覚めた後、ディルクが既に根回しをしていたのか、俺が自分で誤って落ちたという事になっていて……それに俺はそれどころではなかった。周りの人間の顔が認識できなくなっていて、まるで知らない場所にでも放り込まれたようだった。誰が味方で誰が敵なのかもわからずに、疑心暗鬼に陥ってしまって……気付けば俺のことは事故という事で処理されていたが、その頃にはどうでもよくなっていた。それよりも、俺にとっては絵が描けなくなるかもしれないという事のほうが重要だったんだ」
「そんな……」
「だが、さっきのディルクの言葉。君に掴みかかりながら、俺と同じようにしてやると言った。それはつまり、俺のように絵を描けないようにしてやる、という意味だろう。あの言葉で、あの出来事も彼の仕業だとはっきりわかった。それで、君まで俺のようになってしまうのではと思ったら、頭に血が上って……」
そうか。だから、わたしが目覚めたときに「顔はわかるか?」なんて言ったのだ。頭を打ったわたしがヴェルナーさんと同じように他人の顔が認識できなくなったのではと考えて……
彼が苦しむ原因となった男が目の前に現れたのだ。心穏やかでいられたはずが無い。何も知らなかったとはいえ、やすやすとあの男を受け入れてしまった自分を呪いたい気分だった。
それにしてもディルクという男はどうかしている。嫉妬でヴェルナーさんを突き落としておきながら、何食わぬ顔で再び彼の前に現れた。はっきり言って異常だ。
あのままヴェルナーさんが助けに入ってくれなければ自分はどうなっていたんだろう。絵が描けないように腕の一本でも折られていたのかもしれない。そう思うと寒気がした。
マフラーを引き上げようと首元に手をやった瞬間、わたしはぎくりとした。
マフラーがない。ベッドに寝かせられる際に外されてしまったんだろうか? 頭の痛みを堪えて辺りを見回すと、枕の傍に見覚えのある白いマフラーが置かれているのが目に入り、慌てて首に巻く。
「ヴェルナーさん、あの人の事、どうするつもりですか?」
「……そうだな。あの絵が盗品である疑いがある以上、警察に伝えるべきだろう。それに、君の怪我の事もある」
それを聞いて血の気が引いた。
気付けば頭の痛みも忘れ、身を乗り出していた。
「あ、あの、ヴェルナーさん、この件にわたしが関わっている事は、警察には伏せてもらえませんか? お願いします」
警察に話すとなれば、当然わたしも事情を聞かれるはずだ。その時に身元を調べられて、わたしの素性が明らかになってしまうかもしれない。性別や年齢が違えば言い逃れできるとクルトは言っていたが、はたして警察相手でもそれが通用するだろうか。
もしも、それが元で退学なんて事になったら、孤児院は、みんなはどうなってしまうのか。
それを考えると冷静ではいられなかった。
「勝手な事を言っている自覚はあります。でも、でもわたし、この事を警察に知られたくないんです」
縋りつくように懇願すると、その勢いに押されたのか、ヴェルナーさんが僅かに身を引く。
逃すまいと咄嗟に彼の上着の袖を掴むと、その瞳が戸惑ったように揺れる。
だが、わたしは引くわけにはいかなかった。孤児院の行く末が掛かっているのだ。必死にもなる。
「ヴェルナーさん、お願いします……! もしも、これが原因で退学になんてなったりしたら、わたし……!」
「……退学? 君は巻き込まれた、いわば被害者だというのに? それに、絵画の盗難を見抜いたのならば、咎められるどころか賞賛に値すると思うが」
「それは……」
言い訳が思い浮かばずにわたしは口を噤む。
「……君がそんなにもかたくなに警察を拒む理由は――」
そこまで言いかけて、ふとヴェルナーさんは逡巡するように黙り込み、じっとわたしをみつめる。少しの沈黙の後、彼は口を開く。
「……わかった。君の事は伏せて話をしてみよう。うまく誤魔化せるか保障はできないが……」
「ほ、ほんとですか?」
ヴェルナーさんは頷く。
「……君にも何か事情があるんだろう。俺が立ち入ることの出来ない事情が」
その言葉に罪悪感を覚えた。ヴェルナーさんはわたしの事情を知らずともこうして協力してくれる。でも、それは都合よく彼を利用していることにならないだろうか?
本当の事を話そうか。
一瞬そんな考えが浮かび、慌てて打ち消す。
一時的な感情に流されてはいけない。真実を話したとして、その後で彼が今までと同じように接してくれるとは限らないではないか。もしかすると、厄介ごとはごめんだとばかりに距離を置かれてしまうかもしれない。
そんな可能性について考えてしまう自分がどうしようもなく嫌だったが、だからと言ってそれが間違いであることを証明するために真実を話す勇気もない。
「ありがとうございます……」
ただ、俯いてそうお礼を言う事しかできなかった。
結局その日は絵を描くどころではなく「怪我人を一人で帰らせるわけにはいかない」と言うヴェルナーさんに学校まで送ってもらった。
大袈裟じゃないかとも思ったが、反面ありがたい気持ちもあった。あんな事があった後でひとりで帰るのは少し心細かったからだ。
校門のところでヴェルナーさんにお礼を言って、自宅へと帰る彼を見送る。
その背中が完全に見えなくなった後、わたしは頭に巻かれていた包帯をこっそり解いた。
まだ少し痛む頭に手をやる。既に血は止まっていたが、ぶつけたところが少し腫れて熱を持っていた。でも、この分ならヴェルナーさんから聞いた通り、たいした事はないみたいだ。
クルトには今日の事は黙っておこう。包帯なんて巻いている姿を見られたら、きっと理由を問い詰められて怒られるに違いないから。
わたしは証拠を隠滅するように、包帯を丸めてポケットに突っ込んだ。




