六月と瞳を開く肖像画 3
「本当か?」
勢い込んで訪ねるディルクさんに対し、わたしは頷く。
「たぶん……原因は顔料です」
「顔料?」
「ええ、ある種の顔料は乾性油と混ざる事によって、時間が経つと透明化することがあるんです」
わたしは絵を指差す。
「きっと、この絵の中の女性は元々目をあけていたんです。どんな事情があったのかはわかりませんが、後から目の部分だけを閉じているように描き直したんでしょう。その時修正に使用した顔料が、年月を経て透明化したために、下にあった目をあけている絵が浮き出てしまったんです。ディルクさんは独学で絵を学んだと言っていましたね。だから顔料の性質について把握していなかったんでしょう。それに、透明化するのには時間が掛かりますから、すぐには気付かないと思います」
「な……そんな単純なことで……?」
ディルクさんは呆然と呟く。
先ほどのヴェルナーさんの「冗談だろう?」という言葉。たぶんこの現象は、画家ならば当然知っているべき常識だったのではないか。だから彼はあんな反応をしたのだ。それをディルクさんは違う意味だと受け取ってしまったようだが。
「でも、おかしいですよね。あなたはさっき『最初から目は閉じていた』と言いました。それなら元の絵が浮き出るなんて事はありえません」
「だったら、やっぱり誰かが目を描き加えたんだろ?」
「いえ、わたしが思いついたのは別の可能性なんです」
「……一体何のことだ?」
「この絵を、あなた以外のだれかが描いたという可能性です」
その言葉にディルクさんの顔色が変わったような気がした。ヴェルナーさんも微かに眉を顰めてこちらを見る。
「あなたは、この絵の女性の目が元々開いていたという事を知らなかったんです。なぜなら、この絵はあなたが描いたものではなかったから。あなたは目を閉じている絵が本来のものだと思っていたんでしょう。そうでなければ、元々の絵が浮き出ただけなのに『目が開いた』なんて騒いだりしないはずです」
「なにを馬鹿な……」
ディルクさんが吐き捨てるように呟く。
「わたし、この絵を見たとき不思議に思ったことがあったんです。この女性は右手に何を持っているんだろうって」
「右手?」
それまで黙って聞いていたヴェルナーさんが口を開く。
「ええ、絵には描かれていませんが、この女性、右腕を肩のあたりまで上げて、まるで何かを持っているように見えませんか? それを見つめるように視線も右手のほうへと向いています。そして、左手で胸を押さえるような仕草をしている……」
「……もしかして、貞女ルクレティア?」
ヴェルナーさんの言葉にわたしは頷く。
「ローマ建国史に登場する、自らの胸を短剣で刺して命を絶った悲劇の女性、ルクレティア。しばしば絵のモチーフとしても好まれました。かつては貞淑の象徴として、結婚する花嫁にルクレティアの肖像画を贈る習慣もあったほどです。この絵も、そのルクレティアが自分の胸に刺した短剣を引き抜いた瞬間を描いたものなんじゃないかって思ったんです。そうだとしたら、本来この絵はもっと大きくて、右手の先の短剣まで描かれていたはず。それなら、この不自然に持ち上げられた右腕にも納得がいくし、視線の先に短剣があったんだろうという事も想像できます」
わたしはディルクさんの顔を見つめる。
「あなたは別人が描いた絵を自作だと偽って、ルクレティアを描いたものだとわからないように、絵の一部だけを切り出して架空の女性像として売ったんです。でも、ルクレティアの目が開いた事を、どうして他の画家や画商に相談せずに、わざわざこの家まで尋ねてきたんでしょうか? 絵画に詳しい人物ならば顔料が透明化したものだとすぐに気付いたはずなのに。もしかして、この絵を絵画の流通に明るい人物に見られたくなかったんじゃありませんか? だから、今は絵を描いていないと言われているヴェルナーさんに相談しようとしたんでしょう。おそらく、この絵は――」
わたしはそこではたと口を噤んだ。ディルクさんの瞳が冷たく光ったような気がしたからだ。なんとなく背中にぞくりとしたものを覚える。
「この絵が、なんだって?」
ディルクさんがやけにゆっくりとした口調で問う。
「い、いえ、その、なんでもありません。きっと、わたしの思い違いです」
慌てて首を振るが、ディルクさんは納得しないかのようにこちらに一歩近づく。
「思い違いでもいいさ。続きを聞かせてくれよ」
「で、でも、本当になんでもないんです」
「言え!」
不意にディルクさんが大きな声を上げたかと思うとわたしに掴みかかってきた。
「言え、言えよ! お前みたいなガキがなにを知ってるって言うんだ!」
「やめろ!」
ヴェルナーさんが引き剝がそうと割って入るが、ディルクさんは信じられないほどの力でわたしの胸倉を掴み上げた。その勢いは凄まじく、わたしの踵は地面から浮き上がる。
喉元を締め付けられ、苦しさにくぐもったうめき声が漏れた。必死でディルクさんの手を振り払おうとするがびくともしない。
「ディルク、今すぐその手を離すんだ!」
ヴェルナーさんの怒鳴り声が聞こえたが、手が緩む様子はなく、ディルクさんは殺気に満ちた恐ろしい目でわたしを睨んでいた。
「うるさい! このガキもお前と同じようにしてやる!」
次の瞬間、ヴェルナーさんがディルクさんを思い切り殴りつけた。
その身体は吹っ飛び、わたしの襟元から手が離れる。その衝撃でわたしの身体は放り出され、頭を何かに強く打ち付けた。
覚えているのはそこまでだった。視界に黒い幕が降りるように、わたしは自分の意識が薄れていくのを感じた。




