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六月と蒼い月  作者: 金時るるの
六月とクリスマス
36/84

六月とクリスマス 3

 食堂で昼食をとっていると、級長のマリウスが隣の席に座った。


「ユーニ、午後からなにか予定はある? 暇だったら大道具を作るのを手伝って欲しいんだけど。なに、難しいことじゃない。書き割りにペンキで色を塗ってくれればいいんだ」

「いいですよ。力仕事には自信ありませんけど、色を塗るくらいなら」


 体調はもうすっかり良くなって、食欲もいつも通りだ。どうせなら暇を持て余すより何かしたほうが建設的だ。


「助かるよ。昨日まで手伝ってくれてた裏方の連中が、みんな体調を崩しちゃってさ。たるんでるよ」


 言ったそばからマリウス自身がくしゃみをした。


「マリウスも具合が悪いんじゃないですか?」

「……いや、僕のは鼻風邪だから大した事ないよ。それじゃあ、午後から教室に来て。必要な道具は揃えておくから」


 そう言うと、マリウスは別の生徒に声をかけるために席を移動していった。






 昼食を終えたわたしが約束通り教室に行くと、ドアの前でマリウスと鉢合わせた。


「あ、ユーニ、ちょうど良かったね。さっそく始めようか」

「あれ? 他のみんなは……?」

「それが都合が悪いらしくて。どうやら僕たち二人だけで作業する事になりそうだよ。大丈夫、夕食までには終わるからさ」


 教室に入ったマリウスが、床に置いてあった木製のパネルを見て声を上げる。


「なんだこれ?」

「どうかしました?」

「いや、この書き割り、昨日ペンキで色を塗ったあと、乾かすためにそのままにして帰ったんだけど……見てよ」


 マリウスの指差す先を見ると、緑色に塗られた書き割りに足跡がひとつ、くっきりと残っていた。ペンキが完全に乾ききる前に踏んでしまったんだろう。指の一本一本まではっきりとわかる。


「これは幽霊の仕業かもしれないな」


 唐突にマリウスが言い出した。


「幽霊がこの教室を歩き回ったんだよ。この足跡がその証拠さ」


 本気で言ってるんだろうか? 真面目なマリウスはそんな事を信じないタイプに見えるけれど。

 なんと答えようか迷っていると、マリウスが苦笑した。


「冗談だよ。おおかた、ここに書き割りがあるのを知らなかったクラスの誰かが、夜中に忘れ物でも取りに来て、うっかり踏んだんだろうな。まったく、これじゃあ塗りなおしだ」


 言いながら近くに置いてあったペンキ缶の蓋を開けた。

 わたしも刷毛をひとつ貸してもらい、足跡を消すように二人で書き割りに色を塗っていく。


「さっきの話」


 塗りながら雑談の合間にマリウスが口を開いた。


「幽霊が出るって噂自体は実際にあるんだ。夜中になると誰もいないはずの教室から何者かの囁くような声が聞こえるって」

「それが幽霊の仕業なんですか?」

「そう言われてるのは確かだね。僕も自分の家族(ファミーユ)から聞いただけだから、真偽は不明なんだけど。その姿を見たものは呪われるとかなんとか。本当かな?」


 マリウスは首を傾げる。

 呪われる? 随分物騒な幽霊だ。


「呪いの逸話といえばシェイクスピアのお芝居にもあるよね。役者が舞台以外で『マクベス』って口に出すと良くない事が起こるっていう……」

「それはわたしも聞いたことがあります。今回は全然関係ないお芝居だからほっとしてます」

「あれ? ユーニは、呪いとか、そういう類の話、信じてるの?」

「そ、そういうわけじゃありませんけど……でも、やっぱり少し気味悪いと思いませんか?」

「それじゃあ来年の発表会はマクベスに挑戦するよう提案してみようか? 噂が本当かどうか確かめるチャンスだ」

「や、やめてください。呪いの件を差し引いても、クリスマスにふさわしい内容じゃありませんよ……」

「あ、やっぱり信じてる?」

「し、信じてません!」


 話しているうちに、なんだか気分が悪くなってきた。頭も少し痛い。

 まさか、マクベスの呪い……?

 いや、そんな事あるわけない。

 わたしは立ち上がると窓に近寄って、ガラス戸を開け放った。


「ユーニ、どうかした? 窓なんて開けたら寒いよ」


 入り込んできた冷たい風にマリウスが身震いする。


「マリウスは気付きませんでしたか?」

「何が?」

「においです。ペンキのにおい……あ、そうか。マリウスは鼻風邪をひいてたんでしたっけ」


 不思議そうな顔をするマリウスにわたしは説明する。


「ペンキに含まれているシンナーの臭いです。シンナーに含まれる成分を大量に吸引すれば人体に悪影響を及ぼしますけど、ペンキに含まれる程度ならそんなに心配する必要もないはずです。でも、シンナーはその臭いだけでも頭痛や不快感を引き起こす場合もあるんです。だから、換気をしようと思って。寒いですけど、少し我慢してもらえませんか?」

「それはいいけど……もしかして」


 マリウスがなにごとか考え込む。


「昨日まで一緒に作業してた連中が体調を崩したのって、それが原因……?」

「うーん、そうかもしれませんね。鼻風邪をひいていたマリウスにはにおいによる影響が無かったんでしょう」

「全然気付かなかった。参ったな……皆の事『たるんでる』なんて言ったけど、僕の監督不十分によるミスじゃないか。まだ作らなきゃならないものがあるっていうのに、発表会までに間に合わなかったらどうしよう」


 マリウスが憂鬱そうに呟いたので、わたしは慌てて胸の前で両手を振る。


「だ、大丈夫ですよ。まだ時間はありますし、わたしも出来る限り手伝いますから。とりあえずこれを仕上げましょう」


 そう告げると、刷毛を手に取り、勢いよくペンキ缶に浸す。その衝撃でペンキが跳ねた。


「あ、ユーニ、顔にペンキがついてるよ。ほら、ここ」


 マリウスが指し示したあたりを擦ると、手にぬるりとした感触があった。


「あーあ、広がって余計酷くなっちゃった。洗面所に行って鏡を見ておいでよ」


 そう言って笑うマリウスの髪の毛にもペンキがついていた。







 ペンキを塗り終え、夕食前に部屋に戻ると、クルトが既に帰って来ていた。

 「おかえりなさい」と声を掛ける前に、恐ろしい形相で詰め寄られた。


「お前、今までどこをほっつき歩いていたんだ! 病人は大人しく寝てろ!」


 今朝、あれだけ具合が悪いと騒いでいたのに、部屋に戻ってみればわたしがいなかった事に怒っているみたいだ。慌てて弁解する。


「いえ、もうすっかり体調は良くなったんです。クルトの貰ってきてくれた薬のおかげで。だからマリウスと一緒に、発表会に使う大道具を作っていて……」


 それを聞くとクルトは溜息をついた。


「どうしてお前はそうやっていつもいつも……いや、俺に言えた義理じゃないか……まあ、ほどほどにしておけよ」


 言いながら、袋を差し出してきた。


「なんですか? これ」

「前に約束しただろう? チョコレートを買ってくるって。これならケーキと違って日持ちもするし、腹痛で今日のうちに食べられなくても問題ないしな」

「わあ、ありがとうございます!」


 袋を開けると色々な種類のチョコレートがたくさん詰まっていた。


「……あの、これだけですか?」

「なんだ? 足りないのか?」

「いえ、そうじゃなくて……店番は女の人でしたか?」


 わたしが問うと、クルトは腕組みをして何かを思い出すように少し考える素振りをする。


「……そうだな。若い女だった。それがどうかしたのか?」

「それなら、他におまけとか貰ったりしませんでした?」


 クルトは首を横に振る。ヴェルナーさんみたいにキャンディを貰ったりという事はなかったみたいだ。

 あの店番の女性は年下に興味が無いんだろうか。

 しかし、クルトもおまけを貰えたのなら、今度からお菓子を買うのを頼もうと思っていたのに、これでは上手くいかないみたいだ。ちょっと残念……

 そんな事を考えながら、さっそくチョコレートを頂こうと袋に手を突っ込むと、クルトが呆れ顔で

 

「また腹を壊すぞ」


 と呟いた。






 それから暫くして、発表会の練習のため講堂が開放された。

 各クラスが順番で舞台を使用できるようになり、その日はわたし達のクラスが舞台で練習していた。みんな出来上がった舞台衣装を身につけ、本番さながらの練習風景だ。わたしも今は女性用のドレスを着ている。

 女の子らしい格好をするのは久しぶりだ。なんだか少し懐かしい。

 わたしはあれから少しだけ台詞が上達したような気がするが、それでも完璧というにはまだまだだった。

 その日も級長のマリウスに何度も台詞を注意された後、出番を終えたわたしはすごすごと舞台袖に引っ込む。

 みんなの足を引っ張らないようにとは思うのだが、うまくいかない。

 間違えた部分ををおさらいしようと、ひとりカーテンの陰に座り込み台本を開く。

 口の中でぶつぶつと台詞を呟いていると、背後から話し声が聞こえた。


「ねえ、クルト、君はどう思う? ユーニの事」


 急に自分の名前が聞こえてきたので、思わず黙り込んで聞き耳を立ててしまう。

 声の主はマリウスのようだ。そして相手はクルト。


「さすがにちょっと……ひどいと思わないかな。今の場面だって5回も台詞を間違えて……」

「5回じゃない、7回だ」

「余計悪い……あのさ、今からでも先生に言って、ユーニの役を他の誰かと交換したほうが良いんじゃないかと思うんだけど……クルトだって何度もフォローするのはきついだろ?」


 すぐ近くでそんな話をされて、カーテンの陰から出るに出られなくなってしまった。

 確かに今の自分は、みんなに迷惑をかけてばかりいる。マリウスの言うとおり代役を立ててもらったほうが上手くいくんじゃないかとも思う。

 でも、それなら今まで自分のやってきた事が無駄になってしまう。これでも頑張っているつもりなんだけれど。

 クルトはなんて答えるんだろう。やっぱり同意するのかな。わたしは台本の端っこをぎゅっと握り締める。


「俺は、その必要はないと思う」


 意外なクルトの言葉にわたしは顔を上げる。

 必要ない? ほんとに? わたしのせいで一番迷惑を被っているのはクルトのはずなのに。マリウスの言うとおり、わたしがヒロイン役から外れて、代わりにフランス語の流暢な者が演じる事になれば、彼だって幾分か楽になるはずだ。

 わたしの疑問に答えるようにクルトの声が続く。


「彼だって台詞を覚えようと毎日夜遅くまで練習しているんだ。確かに酷いものだが、以前に比べたら少しずつ改善されているし、俺の見立てでは本番までには何とかなるんじゃないかと思う。だからもう少し様子を見てくれないか? もしも本番に間に合わなかったとしても俺がフォローするから」

「でも、それじゃあ君に負担が掛かるじゃないか。それでも良いの?」

「それがプロンプターの仕事だ。それに、あの衣装だって彼以上に着こなせる人間はうちのクラスにはいないだろう?」

「それは確かに。彼はドレスを着るのも嫌がらないしね……わかった。君がそう言うのならもう少し様子を見る事にしようか。その代わり、フォローは頼んだから」

「ああ」


 クルトが返事をすると、足音が遠ざかっていった。

 もしかして、かばってくれた……? 部屋で練習しているときは、クルトはいつも怒ってるみたいだけれど、本当はわたしが台詞を覚えられると信じてくれているんだろうか。

 ちょっとやる気がでてきた。

 それにしても、日ごろから不思議に感じていたのだが、なぜかクルトは人望があるみたいなのだ。だから今みたいにマリウスが相談しにきたりする。確かにわたし以外の人間に対しては当たりが良いし、成績も良い。それに見た目だって良いし、育ちも良さそうではあるのだが。それにしたってみんな騙されすぎだ。


 改めて台本を捲りながらぶつぶつと呟いていると、暫くして誰かが近づいてくる足音がした。


「ああ、ユーニ、こんな所にいたのかい? きみの事探してたんだよ」


 見上げると、担任のミエット先生がカーテンの端から顔を覗かせていた。何事かと尋ねる前に


「ちょっとこっちにおいで」


 と、手招きしてすぐに顔を引っ込めてしまったので、慌てて追いかける。

 さっきの会話を盗み聞きしていたことがクルトにばれるかと思ったが、幸いにも近くに彼の姿はなかったので、ほっと胸を撫で下ろす。

 先生についていくと、半ば物置と化している小さな部屋に連れて行かれた。

 そのまま片隅に置いてある鏡台の前に座るよう促される。


「ユーニ、きみのその髪の毛、なんとかしないといけないと思ってたんだよねえ。せっかくのヒロイン役なのにそのままで舞台に上がるのはちょっと味気ないから。でも、本番直前にあれこれ弄るのは忙しないでしょ? だから今のうちに色々試させてもらえないかな?」

「え? それって、わたしだけですか? 他の人は?」

「だって、きみくらい髪の毛の長い生徒は他にいないからね。それとも本番までに短く切ってくる? それなら髪型も気にしなくて済むけど」

「ええと、切るのはちょっと……わかりました。先生にお任せします」


 わたしが鏡台に向いて座りなおすと、先生は髪を束ねているリボンをするりと解いた。


「でもユーニ、どうして髪の毛を切らないの? 短いほうが楽だと思うんだけどなあ。それに、校則でも短髪を推奨しているし。なんならぼくが切ってあげようか? 結構上手いんだよ」


 どこからか取り出したブラシで髪を梳かしながら先生が問う。


「いえ、それは……実はわたし、寝癖がひどいもので……」

「ああ、束ねてしまえば目立たないって事か。そんなに寝癖あるようには見えないけど……でも、それならぼくも伸ばしてみようかなあ」


 鏡越しにミエット先生の顔をちらりと見やる。確かに彼の髪は寝癖でいつも跳ねている。


「でも先生、伸びるまでが意外と辛いんですよ。束ねられないような中途半端な長さだと余計寝癖が目立ちますしね」

「えっ、そうなんだ? ……それならやめておくよ」


 先生は器用な手つきでわたしの髪をピンで留めたり、ああでもないこうでもないと髪を結ったり解いたりしている。

 先生にこんな特技があったなんて意外。自分の髪の毛には無頓着みたいなのに……


「そういえば、このお芝居を選んだのは先生なんですよね? どうしてヒロインのいる演目にしたんですか? 登場人物が全員男性の演目だってたくさんあると思いますけど」

「うーん……それはねえ、やっぱりヒロインがいるといないとじゃ、盛り上がりが違うんだよねえ」

「盛り上がり……」

「そう。去年お芝居をやったクラスで、ヒロイン役がとても似合っていた生徒がいてね。あまりの完成度の高さに発表会の話題を掻っ攫ってしまったんだよ。それを見て、ぼくのクラスも負けられないって思ってね」

「まさか、わたしをヒロイン役に推薦したのはそんな理由で……?」

「ユーニは一番ヒロイン役が似合いそうだと思って。実際に似合ってるしね。本番での皆の反応が楽しみだよ」


 だからわたしの髪型ひとつにもこんなに拘っているのかな。

眉をひそめるわたしに先生は続ける。


「でも、他にも理由はあるよ。ぼくはね、きみにもっとフランス語に触れて欲しかったんだ。ユーニはフランス語が苦手でしょ?」


 素直に頷くと先生が苦笑する。


「そうやって苦手意識を持ってるうちは上達しないからね。練習を見てると随分苦労してるみたいで、すまないことをしたとも思うけど、それでも徐々に上手くなってきてるし、ユーニはきっと少しずつフランス語を理解してきているんだろうね。だから、君を推薦したことは間違ってなかったと感じるよ」


 鏡越しににっこりと微笑まれた。

 そうだったのか……

 でも、それならそうと最初から言ってくれれば、やる気も違っていただろうに。

 いや、もしかして実際は言ったのかもしれない。ただ、わたしが居眠りしていて聞いてなかっただけで。

 一層気合を入れて練習しよう。先生のためにも、そしてクルトのためにも。

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