六月とクリスマス 1
あと一ヶ月ほどで今学期が終わる。このクラウス学園では、クリスマス前に全生徒の前で各クラスが歌や演劇なんかを発表する会があるらしい。それが終われば休暇が待っている。
わたし達のクラスはお芝居をする事になった。それはいいが、なぜかわたしは劇中唯一の女性であるヒロイン役に選ばれてしまっていた。
それってやっぱり、わたしが女性役を演じても違和感が無いくらい愛らしいっていう理由からかな? それなら選ばれても仕方が無いな。うん。
しかしひとつ問題があった。
「こ、こんなの絶対覚えられない……」
自室で台本とにらめっこしながら呟くと、同じように台本をぱらぱらとめくっていたクルトが顔を上げる。
「うちのメイドに告白したときは、あの痛々しい長台詞を覚えていたじゃないか。あれは本を参考にしたんだろう? どうしてそれができて、芝居の台本が覚えられないんだ」
「あれは公用語のドイツ語だったから覚えられたんです! でも、このお芝居はフランス語なんですよ!?」
そうなのだ。担任のミエット先生がフランス語教師だからか、さして反対する者も無くフランス語劇を上演するという方向で決まってしまった。わたしはフランス語なんて大の苦手だというのに。
「それならどうして辞退しなかったんだ? 代わりに台詞の少ない端役でも回してもらえばよかったじゃないか」
「それは……役を決めるときにちょっと、うつらうつらしていて、よく聞いていなかったというか……」
「……自業自得だ。あきらめろ」
「うう……そういえば、クルトは何の役なんですか?」
「それも聞いてなかったとか、お前どれだけ寝てたんだよ……」
クルトが呆れたように溜息をつく。
「俺は何の役でも無い。裏方だ」
へえ。なんだか意外。クルトなら背も高いし、見た目も良くて舞台栄えしそうなのに。
「いいなあ……あの、ものは相談なんですが、わたしの役と取替え……」
「絶対に嫌だ! 俺はドレスなんか着たくない」
言い捨てるとクルトは自分の台本に目を落とす。うーん、取り付く島も無い。
こうなったら意味はわからなくても台詞を丸暗記するしかないのかな。面倒くさいなあ……
ところが面倒くさいでは済みそうになかった。お芝居の練習がはじまって暫く経っても、わたしは台本の台詞をほとんど覚えることができていなかったのだ。
「違うよユーニ、その台詞は次の場面のだってば」
級長のマリウスが少しいらいらしたように声を荒げる。マリウスはこのお芝居のまとめ役で、クラスメイトたちは皆彼の指示によって動く。
今も教室の半分を使って練習しているのだが、先ほどからわたしが台詞を間違えてばかりでなかなか進まないのだ。
「す、すみません、すみません……」
もうずっと謝りっぱなしだ。周りのクラスメイトたちもなんだか呆れているように見える。担任のミエット先生だけはにこにこしながら練習風景を眺めていた。
居眠りしていて気付かなかったのだが、クルトによると、わたしをこの役に推薦したのはこのミエット先生らしいのだ。わたしのフランス語の成績が散々だと知っているはずなのにそんな事をするなんて……これを機にフランス語の勉強に力を入れろというメッセージなんだろうか。そう考えると、あの笑顔にも圧力を感じる。
「ユーニ、台詞! 次の台詞!」
マリウスに促されて我に返るが、また台詞を思い出すことができずに謝るはめになった。
練習が終わってから、申し訳なさそうな顔をしたマリウスが近づいてきた。
「ユーニ、さっきはうるさく言ってごめんね」
「わたしのほうこそすみません。全然台詞が覚えられなくて……一応自分の部屋でも練習してはいるんですが。このまま本番になっても覚えてなかったらどうしよう……」
「うーん、たしかに今のままだとちょっと不安だけど……でも、いざとなったらプロンプターがいるし、そんなに深刻にならなくても良いとは思うよ」
「プロンプターって?」
「あれ、役割を決めるときに説明したと思ったんだけど、覚えてない? 役者が台詞や動作を忘れたときに、舞台袖からこっそり教えてくれる人の事だよ。我がクラスのプロンプターは優秀だからね。もう台詞も全部覚えたって言ってたし」
「ええ!? すごい……」
そんな役割の人がいたのか……なんだ、それなら別に真剣に台詞を覚えなくても大丈夫なんじゃないか。マリウスの言う通り、いざとなったらそのプロンプターを頼れば良いはずだ。
そう考えると少しくらいさぼっても良いかなという気になってくる。
「もう台詞を覚えたのか?」
部屋で台本を放り出してお菓子を食べていたわたしに対して、クルトが不思議そうな顔を向けてくる。
いつものわたしなら、今頃台本を開いてぶつぶつと台詞を呟いているはずなのだから、彼が怪訝に思うのも無理は無い。
「その事ならもう大丈夫です。いざとなったらプロンプターがいるって判ったので」
「……まさかお前、全ての台詞をプロンプターに頼るつもりじゃないだろうな」
「さすがにそこまでは考えてませんけど……でも、プロンプターってその為にいるようなものだし、それに、うちのクラスのプロンプターはもう台詞も全部覚えてるって聞いたし、それくらい簡単だと思うんですけどね」
「……ちょっと待て、お前、知らないのか?」
なにが? とクルトの顔を見上げる。
「その様子じゃ本当に気付いてないんだな」
クルトは溜息と共に吐き出す。
「……うちのクラスのプロンプターは俺なんだが」
「えっ……」
まずい。本人の目の前で、思いっきりプロンプターを利用する気満々の発言をしてしまった。
案の定クルトは怒り出した。
「そうやって無駄に俺の負担を増やすのはやめろ!」
「で、でも、少しくらいなら良いじゃないですか」
「そうだ。少しくらいならまったく問題ない。それをフォローするのが俺の役目だからな。けれど、現時点でお前はほとんど台詞を覚えられていないじゃないか。いくら俺だって、お前だけに構っていられるわけじゃないんだ。それに、頻繁にプロンプターを頼っていたらその分本来の台詞が遅れがちになって芝居のテンポだって悪くなる」
「いやー、でも、わたしも台詞を覚えようと努力してるんですけどねー。なかなか難しくて」
だからもしもの時はお願いしますと暗に言ったつもりなのだが、クルトは顔を顰めて深々と溜息をつく。
「わかった。お前が本番までに台詞を完璧に覚えられるよう、今日から俺も練習に付き合う事にする」
「えっ? べ、べつにそこまでしてもらわなくても大丈夫です! 一人でできます!」
「信用できない。実際に本番で台詞がまったく出てこないとなれば、それをフォローするはめになる俺だって困る。だから、そうならないよう俺が毎日確認しようというんだ。まさか俺がいたら集中できないなんて事は無いだろう? 本番ではもっとたくさんの人に見られるんだから」
「そ、それはその通りかもしれませんけど……」
「それなら決まりだな。さっさと台本を開け」
「そ、そんな……」
すごくいやな予感がするが、クルトの言う事も間違っていないし、なんだか有無を言わせない雰囲気を纏っているので、わたしは渋々従う。
予想通りクルトの指導は厳しかった。要求するレベルが高いのだ。台詞の正確さだけでなく発音、抑揚にまで注文をつけてくる。
「お前、ちゃんと台詞の意味を理解してるのか? もしかして、意味もわからず暗記だけしようとしているんじゃないだろうな?」
「どうしてわかったんですか? すごーい」
「やっぱり……全体練習を見ているときも思ったが、お前、突然別の場面の台詞を言う事があっただろう? だから、意味を知らずになんとなく似たような台詞を言ってるんじゃないかと思ったんだ。そんなの覚えられなくて当然だ。まず意味を理解しろ」
「そんな事言われても……今から台本を全部訳しても発表会までに間に合うかどうか……」
「間に合わせるしかないだろう」
「そんなあ……」
これは暫く夜更かしだろうか……憂鬱だ。
クルトの指導から開放されて、一日でわたしはくたくたになってしまった。
もうだめ、お菓子でも食べないとやってられない。
ビスケットを頬張るわたしをよそに、クルトは台本に何か書き込んでいた。
熱心だなあ……わたしはできればもう逃げ出したい。
机に向かうクルトを横目で見ながら、明日からも続くであろう指導を回避する方法は無いかと模索していた。
翌日、クルトが自分の台本をわたしに差し出して
「お前の台本と交換してくれないか」
と言ってきた。聞けば表紙にインクをこぼして汚してしまったのが気に食わないとか。
確かに表紙の隅っこに黒い染みがあるが、気にする程でもないような……それともこの程度でもクルトの美意識が傷つくんだろうか?
わたしとしてはどちらでも良かったので、自分の台本と引き換えにクルトの台本を受け取る。
なにげなくページを捲ったわたしは、思わず
「あれ?」
と声を上げた。
台本にはフランス語に対しての訳文が書き込んであったのだ。確かめてみると全てのページに対してそれが行われていた。
これって、クルトが昨日書き込んでた……?
これが彼の暗記法なんだろうか? こうやって全ての台詞と役者の行動を記憶して、プロンプターとしての勤めを果たそうと……? あちらから持ちかけてきた交換とはいえ、こんなものを貰ってしまっていいんだろうか。
「あの、この台本、本当に交換してしまっていいんですか? こんなに細かく書き込んであるのに。表紙の汚れが気になるなら、上からきれいな紙を貼り付けるとかして誤魔化せばいいんじゃないかと……」
「そういうのはお前が自分でやってくれ。俺はこっちのほうが良いんだ」
そう言ってさっさと交換した台本を持っていってしまった。
わたしは手元に残された台本のページを捲る。少し見ただけでも相当な労力が掛かっているとわかる。何しろ全ページに対して訳文が書き込んであるのだ。一週間分の課題より多いかもしれない。
それを些細な理由で手放してしまうなんて……美意識とは人を狂わせる恐ろしい魔物だ。
わたしはやれやれと肩をすくめた。
日曜日。ヴェルナーさんのアトリエでわたしは何度目かの溜息をついた。気が付くと、手が止まりがちになり、静物を描いたはずのデッサンは、形や質感がどこかぼやけている。前よりは上達しているんだろうか。よくわからない。
「調子が上がらないのなら、今日はもうやめておこうか」
溜息が聞こえていたのか、ヴェルナーさんがわたしの隣に来る。
「あ、いえ、そうじゃないんです。ちょっとぼうっとしていて……すみません」
否定するように慌てて胸の前で両手を振ると、手の中から木炭がすっぽ抜けてしまった。
「どちらにしろ集中できていないようだ。ちょうどいい頃合だし、休憩がてら昼食にしよう」
木炭を拾い上げながらヴェルナーさんが言ったので、大人しく従うことにした。
アトリエから出た瞬間、冷たい風が吹き抜けるが、厚着した上にコートを羽織っていた為か、そんなに寒さは感じられなかった。
先日届けられたコートはありがたく使わせて貰っているが、見た目通り暖かくて重宝している。冬なのに外でもこんなに快適に過ごせるなんて、相当上等なものなんだろう。
賑やかな通りを暫く歩くと、クリスマスが迫っているからか、いつもと様子の違う露店が立ち並び、どの店も華やかに飾り付けされていた。道行く人々もなんだか浮かれているように見える。
「……あのう、マッチ、いりませんか?」
突然のか細い声に振り向くと、小さな女の子が立っていた。たくさんのマッチ箱の詰まった籠を持ち、その中のひとつをわたし達に差し出している。
この寒空の下、厚手のシャツにスカートだけという格好で、見ているだけで寒々しい。
わたしは孤児院にいた頃を思い出した。
今でこそこんな暖かな格好をしているが、去年までの自分は、この少女と同じように冬の寒さに身を縮めていたのだ。
ふと、幼い妹たちの面影と目の前の少女が重なり、わたしは反射的に「ひとつ、ください」と声を上げていた。
お金を払いマッチを受け取る。
するとヴェルナーさんも
「俺にも貰えないか」
そう言って硬貨を少女に渡した。
行きつけの食堂で、テーブルに付いてからも、ヴェルナーさんは手にしたマッチ箱を見つめていた。
どうしてそんなに熱心に眺めているんだろう? 何の変哲も無いマッチに見えるけれど……?
不思議そうにしているわたしの様子を感じ取ったのか、ヴェルナーさんが顔を上げる。
「俺も、昔似たような事をしていて……それを思い出していた」
「マッチを売ってたんですか?」
その問いにヴェルナーさんは首を振る。
「少し違うが……道行く人に片っ端から声を掛けていた時期があったんだ。『あなたの似顔絵を描かせてくれないか』って。あの頃はモデルを雇う余裕もなかったし、手っ取り早く人物画の練習をするにはその方法が一番だと思っていたんだ」
「そんな事してたんですか……でも、急に似顔絵を描かせてほしいと言われても、戸惑う人も多かったんじゃありませんか?」
「確かにそうだな。だが、大抵の人間がモデルになってくれる方法があった」
「え、すごい。一体どんな?」
「相手の容姿を誉めるんだ。目が印象的だとか、髪が綺麗だとか。それが駄目なら守護天使が良いとか、オーラが並じゃないとか何でもいい。ただ、人間とは不思議なもので、他人からすれば魅力的な部分も、本人にとってはそうでない場合がある。稀にそんな人間に出くわして、逆に相手を激怒させてしまう事もあったが……どうせ知らない人間だし、その場限りしか接点がないのなら、どんなに俺の印象が悪くなっても構わないだろうと思って」
なかなかすごい方法だ。彼にも画家として成功する前にはそんな苦労があったのか。
感心していると、マッチ箱をポケットに仕舞ったヴェルナーさんが、改まったように口を開く。
「ところで、絵を描いているあいだ上の空だったようだが、どこか具合でも悪いのか?」
彼の言うとおりだ。今日の自分は上の空だ。
理由はわかっていた。兄のことだ。
今日もアトリエを訪れた途端、兄のことを思い出して意識が散漫になってしまったのだ。でも、そんな事を正直に話せるわけも無かった。
ヴェルナーさんからはわたしの表情はわからないはずなのに、その金色の瞳で見つめられると、全てを見透かされているようで、つい目を逸らしてしまう。
「……ええと、実はクリスマスの発表会でお芝居をする予定なんですが、その台詞がさっぱり覚えられなくて、それを考えて少し憂鬱だったんです。そのお芝居、全部フランス語なんですよ。もうちんぷんかんぷんで」
わたしはとっさに嘘をついた。ある意味ではお芝居の件も憂鬱なのは事実だったが。
「……君なら簡単に覚えられるだろう? たとえ、フランス語だろうとも」
「そ、そんなことありませんよ! ヴェルナーさんはわたしにどんなイメージを抱いているんですか!」
もしかして、成績優秀だとか思われているんだろうか。いや、まさかね……
でも、もしもそうだとしたら、せっかくの知的なイメージを崩したくない。
「ま、まあ、本番までにはちゃんと覚えてみせますけど」
発表会は生徒と職員しか見ることができない。それをいい事に適当なことを言ってみた。
「あ、そうだ。ヴェルナーさん」
注文していた料理がテーブルに運ばれて来たので、わたしはパンを取り上げながら話題を変えた。
「午後からはデッサンじゃなくて、粘土で何か作らせてもらえませんか? なんだか今日は絵に集中できないみたいなので……」
「……そうだな。それも良いかもしれない。何か作りたいものは?」
「そうですね……ヤーデとかどうでしょう。かわいいし」
わたしはアトリエで眠っているはずの白猫の事を思い浮かべた。
ヴェルナーさんは何か考えるように頬に手を当てる。
「……初心者が作るには難易度が高い。最初はもっと単純なものの方が良いだろう」
「うう……やっぱりそうですか。それじゃあ、ヴェルナーさんは何が良いと思います?」
「……リンゴだ」
またリンゴだ。最初にデッサンしたときもリンゴだった。リンゴって初心者が必ず通る道なんだろうか?
「わかりました。お昼ご飯を食べ終わったらリンゴを買って帰りましょう……そうだ、ヴェルナーさんも一緒に作りませんか?」
いつも彼はわたしがデッサンしている様子を後ろから眺めている。それは、彼自身は絵を描く気が無いという意思の表れなのかもしれない。でも、絵ではなく彫刻なら。土でケーキを作ったように、粘土でなら、もしかして……
そう思ってさりげなく誘ったつもりなのだが、ヴェルナーさんはスプーンを持つ手を止めた。
「俺は……」
言いかけて言葉に詰まってしまったように黙り込む。その様子にわたしは焦ってしまった。
「ああ、いえ、無理にとは言いません! その……わたし、まだリンゴの角がよくわからなくて……お手本があると助かるなーと思っただけなので……」
慌ててそう言うも、ヴェルナーさんは目を伏せてしまった。
やっぱり、彼はもう自ら作品を作るつもりは無いんだろうか? 土で作ったケーキは、彼にとっては子供の遊びみたいなものだったんだろうか。
それとも、この人もおにいちゃんみたいに……
今日何度目かの溜息をつきそうになって、慌ててちぎったパンを口に放り込んだ。




