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六月と蒼い月  作者: 金時るるの
六月と八月
32/84

六月と八月 3

「――それから先の事は、正直今まで曖昧にしか思い出せなかった……いえ、思い出したくなかったのかもしれません。でも、今こうして話しているうちに、あの時の記憶が少しずつ戻ってきました」


 わたしは喉を潤すように紅茶を一口飲む。紅茶はもうすっかり冷めていた。

 クルトはじっとわたしの話に聞き入っていたが、ぽつりと口を開く。


「お前が前に言ってた『画家を目指していた兄』っていうのはもしかして――」


 わたしは頷く。


「ええ。その人の事です。わたし、その人に美術の事に関して色々教えてもらいました。小さい頃から仲が良くて、いろいろ面倒を見てもらって……それなのに、わたし、あんな事を――」


 胸の痛みを押し流すように紅茶を飲み干す。冷めた紅茶は少しだけ苦い。 

 クルトがおかわりを淹れてくれたので、立ちのぼる湯気を見つめながら話を続ける。


「その後、わたしはおにいちゃんに言ったんです――」






「わたしと勝負しておにいちゃんが勝ったら、おにいちゃんが満足するまでモデルを続けても良いよ」

「へえ、そりゃ面白い提案だな。で、一体どんなゲームをするんだ?」


 わたしはポケットから袋を取り出す。おにいちゃんから貰った癇癪玉とねずみ花火の入った袋だ。

 そこから癇癪玉をふたつ取り出すと、自分のてのひらに乗せて、おにいちゃんの目の前に突きつける。


「この赤と緑の二色の癇癪玉をお兄ちゃんに渡すから、どちらかひとつを手の中に握って隠してよ。その癇癪玉の色を見事わたしが当てたらわたしの勝ち。外れたらお兄ちゃんの勝ち。どう? 簡単でしょ?」


 お兄ちゃんはきょとんとしたように瞬きするが、わたしが促すように再び手を突き出すと、その勢いに呑まれたように頷いた。


「……いいぜ、貸せよ」


 わたしが後ろを向いている間に、背後でがさごそ動く気配がする。やがて「もういいぞ」という声が聞こえ、わたしはおにいちゃんに向き直る。


「さあ、どっちだ」


 わたしはお兄ちゃんの顔と、突き出された右手とを交互に眺めた後、静かに口を開く。


「……緑」

「緑で良いんだな? 後悔するなよ?」 


 おにいちゃんがゆっくりと開いた掌の中身を見て、わたしは告げる。


「……おにいちゃんの負け」

「マジか。くそっ、せっかく良いモデルに仕事延長してもらうチャンスだったのに……おまえって昔から妙に勘が鋭いよな」

「……勘じゃないよ。おにいちゃんが何色の癇癪玉を選ぶのか、わたしには最初からわかってたんだよ」

「どういうことだよ」


 おにいちゃんが不思議そうな顔を向ける。


「……だって、わたしは最初からふたつとも緑色の癇癪玉を渡したから。だからおにいちゃんがどちらを選んでも当たって当然。それなのに、おにいちゃんは気付かなかったの? 全く同じ色の癇癪玉を渡されて、おかしいと思わなかったの? おにいちゃんは、一体何を見て選んだの?」


 それを聞いたおにいちゃんの顔がさっと青ざめた。


「……おまえ、俺を嵌めたのか……?」

「ごめん……ごめんね。でも、今のでわかった」


 わたしは袋をぎゅっと握り締める。たぶん、これで全てが繋がった。


「おにいちゃん、おにいちゃんは――色の区別が付かないんだね……たぶん赤と緑だけじゃない。他の色も。でも、それを隠して、色の区別がつくような振りをしていたんでしょ? だからこのゲームにも乗った。下手に拒否して疑われてもまずいし、たとえ癇癪玉の色が当てられなくても、普通だったらそれで何事も無く終わるはず。わたしが普通に赤と緑の二色の癇癪玉を用意していたらの話だけど」


 おにいちゃんが息を呑んだ気配がした。

 わたしはおにいちゃんから貰った髪飾りを袋から取り出す。


「この髪飾り、土台は銀で、嵌め込んであるガラスは黄緑色だけど、おにいちゃんはこれをわたしの髪に当てて『全然目立たない』って言ったよね。それって、わたしの髪の色とガラスの色がほとんど同じに見えたからじゃないの?」


 小さい頃から孤児院で一緒に過ごしたおにいちゃん。彼についてのことなら大抵は知っているつもりだ。熟していないトマトを収穫してシスター・エレノアに怒られた事も。


「孤児院にいた頃、熟してないトマトやパプリカを収穫したのも、赤と緑の区別が付かなかったから。おにいちゃんの描いたあの風景画だって、紅葉しているみたいに木の葉が黄色いけど、おにいちゃんにはそう見えているからなんでしょ? そうでなかったら、空だけがあんなに青いのはおかしいよ。まるで夏の空みたいに青い。紅葉している木には不釣合いだよ。それって、お兄ちゃんには草や木の色があんなふうに見えてるって事なんだよね?」


 わたしはイーゼルに立てかけられたカンバスを指差す。さっきまでお兄ちゃんが描いていた不思議な色合いの風景画。でも、そんな独特な色合いが出せるのも、おにいちゃんの生まれつきの体質によるものだったのだ。


「おにいちゃんがアトリエをやめたのも、それが原因なんでしょ?」


 わたしは俯きがちに話を続ける。おにいちゃんと目を合わせるのが怖い。


「前に先生に怒られたって言ったよね? 『指示されたとおり色を塗っただけなのに』って。おにいちゃんは確かに同じ色を塗ったんだと思う。ただし、それはおにいちゃんから見れば同じ色だったけど、他の人から見れば違う色だった。だから、先生に怒られたんじゃないかな。その時、色の区別が付かないってことも先生にばれて、それでアトリエを辞めさせられたんじゃない? でも、それまではおにいちゃん自身も自分の体質に気付いてなかったはずだよ。孤児院にいた頃は自由に絵をかいていたし、先生のアトリエではデッサンばっかりだったんでしょ? 人から指示されたとおりに色を塗ってみて、そこで初めて、色覚異常だってわかったんだと思う。わたし、おにいちゃんが独特な色使いの絵を描くのは、おにいちゃんが他の人とは違う感性の持ち主だからだと思ってた。でも、そうじゃ無かったんだね……」


 おにいちゃんは黙ってわたしの顔を見つめていたが、やがて溜息と共に苦笑する。


「おまえってときどきそういう鋭いところがあるよな。その割には驚くほど鈍かったりするし。つくづく不思議だと思うよ」

「それじゃあ……」

「まさか、自分の見てる景色と他人から見た景色が全然違うだなんてさ、思いもよらなかったよ。おまえらもシスターも、俺の事誉めるから、すっかりその気になっちまって、えらい画家の先生に弟子入りまでしてさ……雑用の合間にデッサンして、やっと先生の手伝いをさせてもらえる事になったってのに……それが、こんな事――」


 おにいちゃんは一瞬目を伏せたが、すぐにわたしの顔を見据える。


「でも、それが障害になってるわけじゃない。昼間も言ったろ? 今の俺の絵を喜んで買ってくれる人がいるんだぜ? 少しくらい色がわからなくたって、俺はこうして画家としてやっていけてるんだよ」

「……その人たちって、本当におにいちゃんの描く絵だけが目当てなの?」

「……どういう意味だよ」


 険を含んだ声にわたしは一瞬怯むが、それでも勇気を振り絞って話を続ける。


「おにいちゃん、もしかして、絵の中に何か隠しているんじゃない? おにいちゃんの絵を買う人たちは、本当はそれが目当てで……」

「……何かって、なんだよ。適当なこと言うんじゃねえぞ」

「それは、たとえば――麻薬――とか」

「……はあ? いきなり何を言い出すんだよ。馬鹿馬鹿しい。おまえ、もう帰れよ。やる気なくなっちまった」

「聞いて、おにいちゃん、お願い」


 おにいちゃんに縋るように、わたしは続ける。


「前にね、孤児院のカブ畑が荒らされていた事があったんだ。その時はてっきりカラスの仕業かと思ったんだけど、もしかして、あれはおにいちゃんがやった事だったんじゃないの?」

「何を根拠にそんな……」

「あの前日、わたしたちが収穫後の麻を運んでいたのををおにいちゃんは見てる。そして、ずっと孤児院で暮らしてきたお兄ちゃんなら、作物を収穫した後、不要な葉を土に埋めるのも知ってるはず。だからあの日の夜、もしかしたら周りがうっすらと見える明け方頃にでも、麻の葉を手に入れるために土を掘り返したんじゃないかな。孤児院で育ててるインド麻の葉や花には陶酔成分が含まれてるから」

「待てよ。荒らされてたのはカブ畑なんだろ? 麻は関係無いじゃねえか」

「同じ場所で何年も同じ作物を育てると、だんだん発育が悪くなるのは知ってるよね? だから麻も何年かの周期で植える場所を変えていたけど……でも、孤児院から出ていたおにいちゃんは、今年から麻の場所が変わったのを知らなかった。だから、去年まで麻が植えられてたあのカブ畑を掘り返したんでしょ?」


 おにいちゃんは肩をすくめる。


「それならますますおかしいじゃねえか。掘り返したのがカブ畑なら、俺は麻の葉を手に入れられなかったって事になる」

「ううん。最終的におにいちゃんは手に入れたんだよ。キアゲハの幼虫とニンジンの葉っぱを目印にして」


 喋りながらわたしはなんだか息苦しさを感じてきた。部屋に漂う煙のせいだろうか。それに耐えるように、持っていた袋をぎゅっと握り締める。


「カブ畑を掘り返して何も見つけられなかったおにいちゃんは、そこで初めて麻畑の場所が変わった可能性に思い当たった。その前日、おにいちゃんは、麻と一緒に散らばったニンジンを拾うのを手伝ってくれたよね。だから、ニンジン畑の近くに麻があるって考えたんじゃないかな。ニンジンの葉にはキアゲハの幼虫が付いてる。わたしもアウグステもあの虫が苦手だって事を、おにいちゃんは知ってた。だって、小さい頃から一緒に暮らしていたもんね。だから、わたし達がキアゲハの幼虫がついた葉っぱを処分せず近くに放り出したって思ったんでしょ。実際それに近いことをわたしはしたもの。そして、その葉っぱを頼りに、おにいちゃんは麻畑を探し出した。カブ畑と違って、掘り返されたことにわたしたちが気付かなかったのは、麻を収穫した直後で土を均してなかったからだよ」


 おにいちゃんはわたしの顔をじっとみつめていたが、やがて口を開く。


「おまえ、面白いこと言うな。それで俺が麻薬を売ってるって? もしもその通りだとして、そんな証拠どこにあるんだよ」

「……それは、さっきも言ったとおり、おにいちゃんの絵の中――たとえばカンバスに使ってる布と木枠の間に、紙か何かで包んだ麻の葉を隠しているんじゃないかな。だから、布を外して中を確かめれば……」


 でも、そんな事をしたら絵が台無しになってしまう。確信もないのに、おにいちゃんが描いている絵に対して、そんな事とてもできない……

 言いよどんでいると、黙って話を聞いていたおにいちゃんが小さく笑った。


「そんな顔するなよ。おまえのその顔、苦手なんだよ」


 おにいちゃんはそう言って困ったように頭を掻いた。


「おまえの言う通りだよ。俺は絵の中に麻薬を隠して売ってる。でなけりゃその髪飾りだって俺なんかに買えるわけが無い。まったく、ほんとにおまえ、いい勘してるよ」


 それを聞いてわたしは深い穴の底に突き落とされたような気がした。

 もしも今ここで、おにいちゃんが否定してくれたら。ただ一言「違う」って言ってくれたなら、何も証明できないわたしにはそれを信じるしか無かったのに。わたしの戯言だって、笑って済ませることができたかもしれないのに。

 絶句するわたしを尻目に、おにいちゃんは低い声で続ける。


「あの日、アトリエに戻ったらくびを言い渡されて、その日のうちに追い出された。わけもわからず絶望したよ。絵を描けなくなった事もそうだけど、これからどうやって暮らしていけばいいのかってね。その時、おまえたちが麻を収穫してたのを思い出したんだ。でも、もともと繊維を取るために育ててるわけだし、葉っぱも小さい。そんなの手に入れてもすぐになくなっちまったし、全然儲からなかったよ。そんな時、麻薬の売人に声を掛けられたんだ。俺の絵の中に麻薬を隠して売るんだとさ。表向きは絵を売買してるようにしか見えないからな。予想以上に上手くいったよ。案外気付かれないものなんだな」


 その声音にはぞっとするものが含まれていた。わたしは思わず自分の肩を両手で抱きしめる。


「でも、おまえ、そこまで言い当てておきながら、肝心なところは全然気付かないんだな。おまえが来る前からずっと――この部屋で大麻を燃やしてたのに」


 おにいちゃんがちらりと視線を向ける先には、煙を上げる小さなお皿があった。

 部屋中に漂う煙と変に甘い匂いの正体はこれだったのだ。

 信じられなかった。あのおにいちゃんが麻薬を誰かに売るだけじゃなく、自分でも使用しているなんて。


「や……やめようよ、そんな事、いけないんだよ……病気でも無いのに麻薬を使うなんて、堕落した最低の行為だって神父様も言ってたじゃない……」

「おまえ、まだあいつらの言う『教え』ってやつを信じてるのか? まったく、馬鹿みたいに素直だよな」

「え……?」

「今思えば、あいつらの言う事を何の疑問も無く受け入れてたことが不思議だよ。あんなの、実際に外の世界じゃ何の役にも立たない。綺麗ごとだけで腹が膨れるかっての」


 綺麗ごと? どうして? 神父様やシスターの言う事が間違っているってこと? わたしがずっと信じていたことが、全部正しくないって言うの?

 おにいちゃんの言ってる事がわからない。頭が痛い。新鮮な空気を吸いたい。


「今の俺はこうするしかない。麻薬のついででも良い、俺の絵を欲しがってくれる人がいるんだ。それで十分だろ?」

「でも、それは……」


 でも、それは本当におにいちゃんの絵を欲しがってるわけじゃない。おにいちゃんが絵を描けなくなっても、代わりなんていくらでもいる。

 そう言い掛けた言葉を飲み込んだ。だって、それを言ったら、おにいちゃんの描く絵を否定する事になる。


「ねえ、おにいちゃん。絵の他にも美術に関わる方法は他にもあると思うんだ。たとえば、彫刻とか……」


 言いかけるわたしを遮るようにおにいちゃんが溜息をつく。


「……全然わかってないな。俺は絵が描きたいんだよ。ユーニ、おまえよく言ってたよな。『大きくなったら菓子職人になりたい』って。もしもおまえが自分ではどうにもならない理由でそれを諦めなきゃならなくなった時に『それならパン屋になれば? 似たようなものなんだから』なんて言われたら納得できるか?」

「あ……」


 その言葉にわたしは口元を手で覆う。

 酷い事を言ってしまった……小さい頃からの夢を諦めるなんてそう簡単にできるわけが無い。ましてやおにいちゃんは昔から画家になるために努力してきたのに。色覚異常を自覚しながらも、なお絵を描き続ける理由は、彼が本当に絵を描く事が好きだからに他ならないはずだ。それが他のもので代用できるわけがない。


「それなのに、おまえもあの先生みたいに俺に絵を諦めろっていうのか? なんでおまえまでそんな事言うんだよ……おまえは――おまえだけはわかってくれると思ってたのに……!」


 おにいちゃんが立ち上がると、椅子ががたんと倒れる。その異様な様子にわたしも咄嗟に距離を取ろうとするが、一瞬にしておにいちゃんに左手首を掴まれ、逃げ場を失ってしまった。

 そのまま張り詰めた雰囲気に押されてじわじわと暖炉のすぐ傍まで追い詰められる。すぐ足元にちりちりとした炎の熱を感じた。

 逃げなければ――反射的にそう思うが、掴まれた手首はびくともしない。それどころかより締め上げるように力を込められる。


「さっきのおまえの妙なゲームを受けたのも、色覚異常を誤魔化すためだけじゃない。まさかおまえが同じ色の癇癪玉を渡してくるなんて思いもよらなかったからだよ。俺はおまえのことを信じてた。それなのにおまえは――おまえにとって俺はなんだったんだ? どうでもいい存在だったのか? 俺だけが、こんな――こんな事……」


 おにいちゃんの手がゆっくりとわたしの頬に触れる。その手の冷たさから逃れるように身じろぎすると、おにいちゃんはゆっくりと息を吐いた。


「なんでだろうな。おまえが来るまですげえ気分良かったのに、今は滅茶苦茶気分悪いよ。どうしてくれるんだよ」


 苦々しげに吐き棄てる姿を見て、わたしは混乱してしまった。

 目の前の男の人と、自分の記憶の中のおにいちゃんとがうまく繋がらない。まるで知らない人みたいに恐ろしくさえ感じる。

 わたしの知っているおにいちゃんは、少し悪戯好きで、でも優しくて、絵がとても上手で、その事を誉めるといつも照れたように、それでいてどこか得意げに笑いながらわたしの髪を撫でてくれた。

 そんなおにいちゃんはどこへ行ってしまったんだろう。


 頭が痛い。これは煙のせい? 

 もしかして、今目の前にいるこの知らない男の人も、煙の見せる幻覚なの? 

 それならいっその事、全部が幻だったらどんなにいいか。


 ぼんやりしていたせいか、右手に持っていたままの袋が手から離れて下に落ちる。


「は、離して……痛いよ、おにいちゃん……」

「やめろ! おにいちゃんなんて呼ぶなよ! 俺は――俺は、おまえの事……」 


 言いかけたおにいちゃんの顔が悲しそうに歪む。

 次の瞬間、背後から何かが弾けるような大きな音がした。

 激しい炸裂音が何度も連続して空気を震わす。足元を狂ったようにねずみ花火が跳ね回り、火花と煙を撒き散らす。

 そこで気付いた。先ほど取り落とした癇癪玉の袋が、暖炉の中に落ちて引火したのだ。


「……っ!? なんだ!?」


 突然の出来事に気を取られたのか、わたしの手首を掴むおにいちゃんの手が緩む。

 耳を突くような鋭い音と火薬の臭いでいくらか正気を取り戻したわたしは、力任せにおにいちゃんの腕を振り払うと、その身体を思い切り突き飛ばし、入り口へと駆け寄る。

 震える手でなんとか開けたドアから部屋を飛び出すと、もつれそうな足を必死に動かして走り出す。

 その時、背後でわたしの名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。







 いつの間にかわたしは孤児院へと戻ってきていた。どこをどう走ったのか覚えていない。すぐ近くで大きな音を聞いたせいか、耳の奥がまだ痛い。

 心臓が激しく鼓動を打つ。走ったせいで汗ばんでいたが、身体は冷たく、微かに震えていた。

 ひょっとしたらおにいちゃんがすぐ傍まで追いかけてきているんじゃないか。そしてあの恐ろしい顔で、今にもわたしの腕を掴もうとしているんじゃないか。途中で何度も振り返って確認したはずなのに、そんな考えが頭の中をぐるぐると巡り、その恐怖から逃れるように、出てきたときと同じ窓から建物の中に転がり込む。

 ――早く誰かに知らせなければ。おにいちゃんの事を。


「ユーニ」


 ふいに自分の名前を呼ばれて心臓が凍りついたような気がした。

 はっとして顔を上げると、両手を腰に当ててわたしを睨みつけるシスター・エレノアと、その後ろに申し訳なさそうな様子のアウグステが立っていた。

 おそらくわたしがベッドにいない事がシスター・エレノアにばれて、アウグステが問い詰められてしまったんだろう。一緒にこの窓の近くで、わたしが戻ってくるのを待っていたのだ。


「こんな時間にいったいどこへ行っていたのです?」


 恐ろしいはずのシスター・エレノアも、今は天の助けのように思えた。


「おにいちゃん、おにいちゃんが・・・! わ、わたし――」


 見知った顔を見てようやく安堵したわたしは、その場に座り込んでしまう。

 よほどその様子がおかしかったんだろう。シスター・エレノアの声音ががらりと変わり、わたしを気遣うような素振りを見せる。


「どうしたのですかユーニ。何かあったの? 落ち着いて、ね?」


 優しく背を抱かれ、わたしはシスター・エレノアにしがみついて涙を流した。

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