六月と八月 2
声のしたほうを振り返ると、孤児院を取り囲む柵の外、小路に植えられた木の陰から一人の少年が姿を現した。
「お兄ちゃん!」
声の主がわたしたちのよく知る人物だと判ると、途端にアウグステが怒り出した。
「今のもお兄ちゃんの仕業ね!? もう、びっくりしたじゃないの! 相変わらずなんだから!」
「悪い悪い。まさかおまえたちがそんなに驚くとは思わなくってさ」
少年はそう言うと、柵を軽々と乗り越えて散らばった作物を拾い始めた。
彼はわたしたちの『兄』に当たる。昔から画家になるのが夢で、15歳になるよりも早くこの孤児院を出た。今は近くにアトリエを構える画家の先生に弟子入りして、そこで住み込みで働いているはずだ。
確かにおにいちゃんは誰よりも絵が上手だった。孤児院のみんなも、将来はさぞ高名な画家になるだろうと言っていたし、わたしもそう思っていた。だから、おにいちゃんが画家のアトリエで働くと決まったときは、みんなで喜んだものだ。
「なんだこのニンジン、随分と小さいな。収穫するのが早すぎたんじゃないのか? シスター・エレノアに怒られるぞ」
ニンジンを拾い上げながらおにいちゃんが声をあげる。
「そういえばおにいちゃん、よくシスター・エレノアに怒られてたよね」
わたしの言葉にアウグステが同意するように頷く。
「そうそう、熟してないトマトとかパプリカを収穫したりね。それに比べたらニンジンが小さいくらい全然ましよ」
「やめろよ。あの時の事はいまだに心の傷になってるんだよ……ああ、思い出したくもない」
おにいちゃんが大げさに身震いしたので、わたしたちは笑い声を漏らす。久しぶりに顔を合わせて懐かしい気分になったわたし達の間には和やかな空気が流れた。
おにいちゃんはふと思い出したように「お、そうだ」と呟くとポケットを探って小さな袋を取り出す。
「おまえ達におみやげがあったんだ」
そうして渡された袋を覗き込むと、中にはねずみ花火と、赤や緑など様々に色づけされた癇癪玉がたくさん入っていた。先ほどの破裂音はこれが原因だったらしい。わたしたちを驚かせるつもりでおにいちゃんが悪戯したのだ。
「わあ、ありがとう! きっとみんなも喜ぶよ」
わたしがお礼を言うと、アウグステは不満げに口を尖らせた。
「お兄ちゃんは乙女心がわかってないわ。こんなもの喜ぶのは男の子だけよ。もうちょっとあたしたち女の子にも配慮してくれなきゃ」
「そりゃ悪かったな。ついでに女の子の喜ぶものってのを教えてもらえると助かるよ」
「やっぱりクリームたっぷりのケーキとか、きらきらの宝石とか、レースとかフリルのたくさん付いたドレスとか……」
「見習いの俺にそんな金があるわけないだろ?」
おにいちゃんはやれやれと溜息をつく。
「でも、おにいちゃん、こんな所で油売ってて大丈夫なの?」
「別にさぼってるわけじゃねえよ」
わたしの問いに、おにいちゃんはなんだか気まずそうに頭を掻く。
「なんかよくわからないんだけど、先生にすげえ怒られちゃって、出て行けって言われてさ……俺は指示された通り色を塗っただけなんだけどなあ」
「そ、それって解雇って事……?」
「いやあ……そんな大げさなものじゃないだろ。きっと虫の居所が悪かっただけさ。夜には先生の機嫌も直ってるって。あーでも悔しいな。今までデッサンばっかりで飽きてたところに、せっかく着彩の手伝いが出来ると思ったのに」
「それならいいけど……」
「でもさ、お兄ちゃんの描く絵って、独特だったと思わない?」
アウグステが横から口を挟む。
「不思議な色合いっていうか、干草みたいな感じ。うまく説明できないけど……でもまあ、そういう他人と違うところが芸術家っぽくもあったわよね」
「なんだよそれ、表現が曖昧すぎるだろ……意味がわかんねえし」
「仕方ないでしょ。あたしはお兄ちゃんと違って画家の才能なんて無いんだから、芸術的表現力を求めないでちょうだい。ともかく、その時の感覚で色を塗ったから先生が怒っちゃったんじゃないかしら。画家だったら色の違いには敏感だしね」
「そういやあんまり深く考えないで塗ってたような気もする……なるほど、アウグステの言うとおりかもしれないな」
「でしょ? お礼はお菓子で良いわよ」
「……考えとくよ」
その時、孤児院の建物からシスター・エレノアが姿を現し、わたしたちを見て声をあげる。
「あなたたち、ここで何をしているの!? 早く仕事に戻りなさい!」
そう怒られてアウグステは首をすくめる。わたしは癇癪玉の袋をポケットに押し込んで隠した。
シスターはお兄ちゃんに向き直り、諭すような口で話しかける。
「あなたはもうここを出た身でしょう? それなのに頻繁に戻って来たりなんかしたら、あなたの先生も良く思いませんよ。気をつけなさい。あなたには才能があるんだから、自分でそれを台無しにするような事はしてはだめよ」
「……はあい。すみません」
おにいちゃんはしぶしぶといった様子で謝ると、手にしていた最後のニンジンを籠の中に放り込む。
「それじゃ、俺は帰ります。ごきげんようシスター・エレノア。おまえたちも、またな」
それからおにいちゃんは、わたしたちにしか聞こえないような声で囁く。
「今度さ、絵のモデルになってくれないか? いい加減静物ばっかりで飽きてきたところなんだよ」
わたしがそれに答える間もなく、おにいちゃんは小声で「考えておいてくれ」と付け加えると、来た時と同じように柵をひらりと乗り越えると、瞬く間に走り去ってしまった。
モデルって、まさかヌードだったらどうしよう……
翌日、アウグステと一緒に畑に出ると、妹のひとりが畑の一角で蹲っているのを見かけて、ふと足を止める。彼女が泣いているように見えたからだ。
「どうかしたの?」
声を掛けると、妹は顔を上げた。涙こそ流れていなかったが、その顔は眉尻が下がり、悲しみと困惑の色が浮かんでいた。
「あ、おねえちゃん、聞いて! 畑がね、荒らされてるの」
「ええ!? まさか、野菜を盗まれたの!?」
「ううん。そうじゃないの。昨日種をまいたばっかりだから、盗まれるような野菜はなかったんだけど……」
妹が指差す先には確かに土が掘り返されたような跡があった。
「ありゃりゃ、これはひどいわね。カラスにでもやられたのかな? あいつらあれで結構賢いから」
横でアウグステが唸る。
妹は今にも泣き出しそうに顔を歪める。
「どうしよう。シスター・エレノアに怒られちゃうかも……」
わたしは妹の不安を取り除くように慌てて首を振る。
「カラスのせいなら仕方ないよ。シスター・エレノアもわかってくれるって。それで、一体なんの種をまいたの? ここって何を育ててたんだっけ? 麻……は違うよね」
「カブよ。今年からはここで育てましょうってシスター・エレノアが。立派に育ったら夕食のスープにするからって」
「それじゃあ、去年までとは違う作物の種をまいたのをカラスが理解したのかな? ほんと賢いなあ」
「ユーニ、あんたってば感心してる場合じゃないわよ。このままじゃみんながカブの一口も食べられなくなっちゃう。とにかくシスター・エレノアに新しい種を貰いに行こう。そしたらあたしたちも種まき手伝うから。ね?」
アウグステが優しく妹の肩を抱き立ち上がらせる。
妹を慰めるつもりが話が脱線して怒られてしまった。
うーん、やっぱりアウグステはしっかりしてる。面倒見も良いから、他の妹たちにも慕われているみたいだ。
それにひきかえわたしは……ああ、悲しくなるからあんまり考えないでおこう。
若干の空しさを振り払うように首を振ると、わたしは二人の後に続いた。
それから暫くして、カブも無事に芽を出し、順調に成長した葉っぱを茂らせていた。
そんな時、再びお兄ちゃんがわたしたちの前に現れた。シスター・エレノアにみつからないようにこっそりと。
「おい、ユーニ、この間の話、考えてくれたか?」
「この間って、まさかモデルになってくれって話……? おにいちゃん、あれ本気で言ってたの?」
「なんだよ、おまえは本気じゃなかったってのかよ。冷たいなあ」
おにいちゃんは天を仰ぐ。この様子を見るに、まんざら冗談でもなかったらしい。
「本気だって証拠に、モデル代を持ってきたんだぜ。ほら、前払いだ」
そう言ってポケットから何かを取り出した。髪飾りだ。繊細な細工が施された銀の土台に、透明度の高い黄緑色の石が嵌め込まれている。
「わあ、すごーい。きれいねえ」
隣でアウグステが声をあげる。確かに髪飾りはきらきらと光を反射してとてもきれいだ。特に真ん中に埋め込まれた石を見ていると、なんだか吸い込まれそうになる。
「これって、まさか、本物じゃないよね……?」
おそるおそる尋ねると、おにいちゃんは得意げに胸をそらす。
「もちろん本物のガラスだ」
「え、ガラスなの? そこは普通宝石でしょ?」
「アウグステはそう言うと思ってた。言っとくけどただのガラスじゃないぜ。今売り出し中のガラス工芸家の作品だ。奮発したんだからな……って、あれ? 店で見たときはいい感じだと思ったんだけどな。実際には全然目立たないな……」
おにいちゃんは髪飾りをわたしの髪に当てながら首を傾げる。
「ねえねえ、お兄ちゃん、あたしの分は!?」
「アウグステには、ほら、これやるよ」
「……なによこれ。キャラメルじゃないの。これはこれで嬉しいけどさあ……ユーニとあまりにも違いすぎない? 贔屓反対!」
アウグステはおにいちゃんを睨みつけながらもキャラメルを口に放り込む。
「でも、よくこんなもの買うお金があったね。お給金上がったの?」
わたしが何気なく疑問を口にすると、おにいちゃんは決まり悪そうに目を逸らす。
「あー……実は俺、前のアトリエ辞めたんだ」
「えっ、うそ!?」
「なんで!?」
わたしたちの上げた驚きの声に対し、おにいちゃんは「まあ落ち着け」と両手を挙げる。
「元々あの先生とは合わないところがあってさ。潮時だと思って独立したんだよ。そしたらちょうど俺の絵を買いたいって人が現れてさ。今もその人経由で何枚か予約が入ってるんだぜ」
「すごーい!」
「そういうわけで、その髪飾りを買う余裕くらいはあるんだよ」
昔からおにいちゃんは絵で身を立てたいと言っていた。そして遂にその夢が叶った。それってすごいことだ。まるで自分の事のように嬉しい。
わたしたちが「おめでとう」と言うと、おにいちゃんは照れくさそうに笑った。
「だからさユーニ、モデルの件、頼むよ。な」
「で、でも、わたしたち、ここから出る事は禁止されてるし……」
「そんなの、こっそり抜け出せばわかんないって。あ、そうだ、これ俺の今の住所。アトリエも兼用してるから、いつでも訪ねてきてくれよ。約束だからな」
「え?」
おにいちゃんは小さく折り畳んだ紙と一緒に髪飾りをわたしの手に押し付けると
「それじゃ、俺はシスター・エレノアに見つかる前に退散するから」
と、この間と同じくあっという間に走り去ってしまった。
その姿を呆然と見送った後、わたしは手の中の髪飾りに目を落とす。
「ど、どうしよう、これ……わたし、モデルなんて出来る気がしないよ……」
わたしがアウグステの服を引っ張ると
「だったら、ほっとけば良いじゃない。ずっと訪ねて行かなけりゃ、お兄ちゃんだって変に思ってまたここに様子を見に来るわよ。その時に理由を言って返したら? あんたが断るなら、髪飾りと引き換えにあたしがモデルを代わっても良いけど」
アウグステはずり落ちそうになった靴下を屈んで直しながら平然と答える。
「それにしてもさ、こんな高そうなものくれたり、モデルを頼んできたり……お兄ちゃんてば、ユーニの事好きなんじゃないの?」
「わたしもおにいちゃんの事、好きだよ」
それを聞いたアウグステがびっくりしたように身体を起こす。
「あ、もちろんアウグステの事も好き」
言いながらわたしはアウグステに軽く抱きつく。お日様の光をたっぷり吸収した彼女の髪はとてもいい匂いなのだ。
「そういう意味じゃなくてさあ……はあ、まあいいわ。あたしもあんたの事好きよ」
何故だか呆れた声ながらもわたしの髪を撫でてくれた。
どういう意味だろう? おにいちゃんはおにいちゃんだ。それ以上でも以下でも無い。それに、家族の事を嫌いだなんて人間は、そうそういないだろう。
まったく、アウグステは変な事言うんだから……
その夜、ベッドに腰掛けながら、おにいちゃんから貰った髪飾りをこっそりと眺めていると、アウグステが隣に来て覗き込む。
「やっぱりきれいねえ。ねえユーニ、時々でいいからあたしにも貸してよ」
「そんな事言っても付ける機会自体が無いと思うけどな……もしもシスター・エレノアに見つかったら取り上げられちゃうだろうし」
わたしはアウグステの頭に髪飾りをかざす。黄緑色のガラスの嵌った銀の髪飾りは、彼女の金髪に良く映える。
その時、ふと違和感を覚えた。
この髪飾り、アウグステの髪に良く似合っている。でも、それならどうして、あの時、おにいちゃんは……
わたしが考え込んでいると、廊下の大時計のボーンという音が聞こえてきた。
「大変、就寝時間だわ! 早くベッドに入らなきゃ。すぐにシスター・エレノアが見回りにやってくるわよ。あの人いつも時計が鳴るのを今か今かと待ち構えてるんだから」
その言葉に、わたしは慌てて髪飾りを隠そうと枕の下に突っ込む。その時、がさりとした手触りのものが指に触れた。
なんだろうとつまみ出すと同時に手が滑り、それを取り落とした。しまったと思った瞬間、床に色とりどりの小石のようなものがばらばらと散らばる。
小石のようなものは、この間おにいちゃんに貰った癇癪玉だ。あの後弟達とこれで遊び始めたところで、たちまちシスター・エレノアに見つかってしまい、結局大半を袋に残したまま、こうして枕の下に隠しておいたのだ。すっかり忘れていた。
「あっ! あんた一体何やってるのよ……!」
アウグステはしゃがみ込んで癇癪玉を拾い始める。
彼女の言うとおりだ。わたしは一体なにをやってるんだ……ぼんやりしすぎ。
わたしたちは癇癪玉を踏まないように袋に集める。途中、持っていた髪飾りが邪魔になり、それもついでに袋の中に投げ込む。
同室の妹達の助けもあり、間一髪、わたし達はシスター・エレノアが来る前に、全ての癇癪玉を回収することができた。
急いでベッドに潜り込むと同時に、寝室のドアがノックされ、シスターエレノアが部屋に入ってくる気配がした。
わたしは先ほどの事がばれていないかとひやひやしながら息を潜めていたが、やがて灯りが消され、シスター・エレノアが出て行く気配がして、ほっと安堵の溜息を漏らした。
暫くそうして暗闇の中じっとしてると、すぐに妹達の寝息が聞こえてくる。みんな昼間の労働で疲れているのだ。わたしだって今すぐにでも瞼を閉じてしまいたい。けれど、その誘惑を我慢して静かに身を起こす。
隣のベッドで眠るアウグステをそっと揺さぶると、寝入ったばかりだったらしい彼女は不機嫌そうに唸り声を上げる。
「アウグステ、起きて」
耳元で囁くと、アウグステはしぶしぶといった様子で目を擦りながら起き上がる。
「ううん、なんなのもう……って、あれ、なんであんたそんな格好してるの?」
アウグステを起こす前に、わたしは寝巻きから普段着のシャツとスカートに着替えていた。
「アウグステ、お願い。わたし、外に出たいの」
「はあ?」
アウグステは目を丸くしたあと、慌てて声をひそめる。
「そんな事して、もしシスター・エレノアに見つかったらどうなると思ってるの!?」
彼女が驚くのもわかる。ここでは基本的に外出は禁止されていて、破ったものには罰が与えられるのだ。ましてや夜の外出なんて論外。
でも、わたしは行かなければと思っていた。本当の事が知りたかった。
わたしが根気良く頼み込むと、最後にはしぶしぶといった様子でアウグステは頷く。
「……わかったわよ。手伝えば良いんでしょ。あんたって、たまにびっくりするほど頑固なのよね……」
「ありがとうアウグステ!」
「そのかわり、むこう一週間のあんたのおやつ貰うからね」
「うう……わ、わかった」
「うそ!? あんたがそんな事承知するなんて……こりゃ明日は雨かな。で、どこに行くつもりなのよ」
「ええと、おにいちゃんのところ……」
「まさか、あんた律儀に昼間の約束を守ろうってんじゃないでしょうね」
「ええ、うん、まあ……」
わたしが曖昧に頷くと、アウグステは目を瞠る。
「呆れた。どうしちゃったの急に。あんた、そんなに真面目だったっけ? ……まあいいわ、行きましょ。帰ってきたら詳しく話を聞かせてもらうからね」
アウグステがベッドから降り立ちドアに向かったので、わたしは慌てて後に続いた。
廊下の端の小さな窓を開くと、その下に椅子を持ってきて、わたしは窓枠によじ登る。椅子はアウグステが隠してくれることになっている。
窓から外に飛び降りようとしたとき、アウグステが妙なことを言った。
「ユーニ、夜道には気をつけなさいよ。知らない人に付いて行ったり、怪しい馬車に乗ったりしちゃだめだからね」
そんな子ども扱いしなくてもいいのに……どれだけ信用されていないんだろう。
そう思ったものの、下手に返してアウグステにへそを曲げられては元も子もない。今は彼女の協力が必要なのだ。
わたしは神妙な顔をして頷いた。
おにいちゃんから渡された紙には、住所の他に簡単な地図も書かれていた。そのおかげかさほど迷うことなく彼の家に辿り着くことができた。
そこは小さな集合住宅の一室だった。ドアをノックすると、程なくして姿を見せたおにいちゃんは、わたしを見て目を瞠る。
「おまえ、どうしたんだ? こんな時間に」
「約束したよね? モデルを引き受けるって」
わたしが笑みを浮かべて答えると、おにいちゃんは驚きながらも顔を綻ばせる。
「まさか、そのためにわざわざ来てくれたのか? 外は寒かっただろ? 早く中に入れよ。それにしてもよく一人で来られたな。途中で怪しい奴に遭ったりしなかったか?」
おにいちゃんまでわたしを小さな子ども扱いする。二人ともわたしに対してどんなイメージを抱いているんだろう。
部屋の中に入ると、暖炉に火が入っていた。夜の冷気に晒されすっかり冷えたわたしの身体には嬉しい。でも、なんだか部屋が煙たい。煙突が詰まっているんだろうか。変わった木をを燃やしているのか、甘いような匂いもする。
少々狭く感じる部屋の中にはイーゼルが置かれ、描きかけの風景画が立て掛けられていた。秋の日を描いたような黄味がかった木々が描かれているが、空だけは抜けるように青い、不思議な感じのする絵。わたしが来るまで、おにいちゃんはこれを描いていたんだろう。
差し出された椅子に座ると、暖炉に向けた背中が暖かい。おにいちゃんが早速スケッチブックを取り出して、わたしのまえに陣取る。
「ええと、わたしモデルの経験なんて無いんだけど……」
「ただそこに座ってじっとしてりゃ良いから。簡単だろ? とりあえずそんなにかしこまらなくて大丈夫だから」
わたしはすこし安心して体の力を抜いた。同時に、向かい合わせに座ったおにいちゃんが絵を描き始める。ちらりと様子を伺うと、すごく真剣な顔をしている。
なんだか声をかけづらい。もっと話したい事があるんだけれど……
暫く様子を窺った後、わたしは思い切って静寂を破る。
「……ねえ、おにいちゃん」
「うん?」
「どうして、先生のアトリエを辞めて独立しようなんて思ったの?」
おにいちゃんは手を止める。
「昼間にも言ったろ? あの先生とは前から合わなかったって。それだけだよ」
「そっか……」
その後暫くの間沈黙が二人の間を支配し、辺りには再びおにいちゃんが鉛筆を走らせる音が響く。
暖炉の火が思ったより強いのか、なんだか暑くなってきた。相変わらず部屋の中は煙い。そのせいか少し頭が痛い。
「おにいちゃん」
再び呼びかけると、おにいちゃんが手を止める。
「わたし、疲れちゃった。ちょっと休憩しない?」
「早過ぎないか? まだたいして描いてないってのに」
「仕方ないじゃない。モデルなんて慣れてないんだから。あ、でも、おにいちゃんがわたしの頼み事をきいてくれたら、もうちょっと我慢しても良いよ」
「なんだよ。もしかしてそれが目的だったのか? 髪飾りだけじゃ足りないってのかよ。女ってやつは怖いな……で、頼み事って?」
「それはね……」
わたしは自分の服のポケットにそっと触れる。
「今からわたしとゲームをしてほしいの」




