六月と慌ただしい日曜日 4
あとがき部分に挿絵あり
二人連れ立って隣家を訪れる。馬の蹄鉄が飾られたドアを叩くと、暫くして一人の女性が姿を現した。
今朝は一瞬だったので、はっきりとその姿が確認できなかったのだが、改めてじっくり見てみると、若い赤毛の女性だった。
彼女は最初わたしに訝しげな目を向けたが、その後ろにいるヴェルナーさんの姿を認めると
「あら、お隣の。何か御用かしら?」
と、警戒を解いたように笑顔を浮かべた。すかさずわたしは持っていたハンカチを広げてみせる。
「これが庭に落ちていたので、もしかしてこちらのお宅のものかと思いまして」
それを見て女性は口に手を当てる。
「まあ、わざわざどうも。うちの洗濯物、いつもお宅の庭に飛んで行っちゃうのよねえ。ごめんなさいね」
そう言ってハンカチを受け取ろうと手を差し出されるが、わたしはそれに気付かない振りをして世間話でもするように口を開く。
「そういえば今朝、家の前で黒猫を見かけたんですが、どこかの家で飼われてる猫なんでしょうか? 失礼ですがご存知ですか?」
「……さあ、知らないわ。野良猫なんじゃないかしら?」
「それならちょうど良かった」
女性が不思議そうにわたしを見る。
「実は、最近家にネズミが出るので猫を飼おうかと思ってたんです。野良猫なら我が家で引き取っても誰にも文句は言われませんよね」
そう言うと、女性はどこか落ち着かない様子で視線を彷徨わせながら口を開く。
「ああ、ええと、そうだわ、思い出した。あの猫は裏の家の飼い猫だったような気がする……いえ、そのはずよ。見た事があるもの」
「あれ、そうなんですか? それなら諦めるしかないかなあ」
「そうよ。それに飼うなら白い猫の方が良いんじゃないかしら。黒猫だとほら、ね。暗くなると闇に紛れて見えなくなっちゃうわ。ねえ、だから白猫にしなさいな。それが良いわ」
「そうですか? わたしは黒猫が好きなんですけどね。少し検討してみます」
女性が何か言い掛けようと口を開くが、それを遮るようにわたしはハンカチを持ち上げてみせる。
「それにしても、先にこちらがこのハンカチに気付いて良かったです。実はさっき鏡を割ってしまって破片を庭に埋めたんですよ。ああ、勿論深く埋めたので大丈夫だとは思いますが、万が一という事もありますからね。何も知らない人が破片を踏んで怪我でもしたら大変です」
その言葉に女性が顔を強張らせたような気がした。
「おかあさん!」
その時、子供の声がしたかと思うと、部屋の奥から小さな女の子が駆け寄ってきた。
女性と同じ赤毛をお下げにして両肩の上に揺らしている。スカートの上に付けているエプロンには、片隅にテントウムシの刺繍があった。
女の子はわたしの手にしたハンカチを見ると
「あっ、それ、あたしのハンカチ! かえして! かえして!」
と声を上げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら手を伸ばす。
「あ、ええと、どうぞ……」
唐突な女の子の登場に戸惑った上、その勢いに押されて、わたしはハンカチを手渡す。
女の子が満面の笑みで受け取ったのを確かめると、母親である女性は
「この子、このハンカチがお気に入りでね。わざわざ届けてくれてありがとう、助かったわ。それじゃ、仕事があるからこれで失礼しますね」
そう言ってわたしが何か言いかける前にドアを閉めてしまった。
ドアの外側に飾られた蹄鉄をみつめながら、つい先ほどまで目の前にいた母娘の姿を思い返す。
もしかして、そういう事だったのかな……
……だとしたら、わたし、失敗したかもしれない。
庭に戻ると、それまで黙っていたヴェルナーさんが口を開く。
「……教えてくれないか? さっきの隣人とのやり取りの意味を。それと、君が確かめたかった事とは何だったのか」
その言葉に我に返る。いけない、つい考え込んでしまっていた。わたしは自分の考えを説明するため顔を上げる。
「ええと、そうですね。結論からいうと、たぶんゼラニウムの花を切り取ったのは、隣の家のあの奥さんです。理由は……」
少し考えて再び口を開く。
「――黒猫が目の前を横切ると三年不幸に見舞われる」
わたしはヴェルナーさんの顔を見ながら続ける。
「有名なジンクスです。他にも、セキレイの胸を正面から見ると不幸になるだとか。梯子の下をくぐってはいけないだとか、色々ありますよね」
「……それと花を切り取られた事に何の関係が?」
「ええと、ちょっと不思議だったんです。ここには他にも花が生えているのに、どうしてゼラニウムだけが何度も切り取られたんだろうって。ゼラニウムじゃなければいけない理由があるのかなと。それで思い出したんですけど、ゼラニウムの花って魔除けの効果があるって言われていますよね」
「まさか、そんな理由で……?」
「わたしも信じられませんでしたけど、今朝、あの奥さんがわたしの方を見てすごく驚いていたのを思い出したんです。その時はてっきりわたしの顔に何か付いているんじゃないかと心配になったんですが……でも、実際はわたしに驚いたわけじゃなくて、わたしの足元にいた黒猫を見て驚いたんじゃないかと思ったんです。さっきも言ったとおり、黒猫は不幸を呼ぶという言い伝えもありますから、家を出た途端、急に視界に入ってきて驚いたんでしょう。それに――」
わたしはちらりと赤い実をつけた木に目を向ける。
「木に引っかかっていたあのハンカチにはてんとう虫の刺繍がしてありました。てんとう虫は幸運の象徴で、縁起の良いものとされています。以前に庭に落ちていた別の洗濯物にもてんとう虫の刺繍がしてあったんですよね? もしかしたら、他の衣類にも同じように刺繍が施してあるのかもしれません」
視線を戻すと話を続ける。
「そう考えたら、あの奥さんは、ジンクスや迷信の類をすごく気にする人で、ゼラニウムの花を切り取ったのもそのせいじゃないかと思ったんです。隣の家の人たちは越してきて間も無いんですよね? だったらまだ家の中には必要最低限の荷物だけで、鉢植えの花だとかも置いてないんじゃないかって。これから買うにしろ育てるにしろ、花が咲くまでの間にでもと、この庭から切り取って行ったんでしょう。それにあの人、言ってましたよね『うちの洗濯物、いつもお宅の庭に飛んで行っちゃう』って。ヴェルナーさんが気付かなかっただけで、あの奥さんはこれまでにも何度か洗濯物を回収するために、こっそり庭に入り込んだのかもしれません。その時、ここにゼラニウムが咲いている事に気付いたんじゃないでしょうか」
それに、もしも花を切りに庭に入り込んだところを見つかっても、洗濯物を探しに来たと言えば誤魔化せる。というのはさすがに考えすぎだろうか。
「……それで、実際に隣の家に行ってみたら、ドアには幸運を招くものとされている馬の蹄鉄が掛けてあったし、その後、わたしがあの人に黒猫の飼い主について尋ねた時に、最初は『野良猫じゃないか』って言っていたのに、家で飼おうかという話をした途端、それまでの言葉を撤回するように『裏の家の猫だ』なんて言い出しました。あれは、ヴェルナーさんの家で黒猫を飼わせないために咄嗟に嘘をついたんでしょう。すぐ隣の家に黒猫がいたら、その姿を目にする頻度は上がってしまいますから。白猫を勧めてきたところをみると、猫そのものが嫌いというわけでもないようですし」
「飼う予定の無い黒猫の話をしたのは、あの女性がジンクスを気にしているか確かめるためだったのか……それなら、鏡の破片の話は? 俺は鏡を割って庭に埋めた覚えは無いんだが……あれにも何か理由があったのか?」
「はい。鏡の破片は七年の不幸を呼ぶと言われていますよね。もしもそんなものを見つけてしまったら、彼女にとっては大ごとです。だから嘘でもああ言っておけば、これ以上庭に立ち入らないんじゃないかと思ったんです」
わたしの話を聞き終えたヴェルナーさんは、何か考え込むように頬に手を当てる。
「……信じられない……ああ、いや、君の言っている事が、というわけでは無くて、隣人の行動原理が」
「ヴェルナーさんは、ジンクスだとかを信じないタイプですか?」
「そうだな。あまり興味はない」
「うーん……男の人はそうかもしれませんね。女の人の中には、稀にそういう事を病的なほどに気にする人もいるんです。基本的に占いだとか、おまじないだとかが好きですから」
あれ? それじゃあ、あの時ヴェルナーさんは何に驚いていたんだろう?
もしかして彼も隣家のあの女性のように、わたしではなく黒猫を見ていたのでは、と思ったのだが。
ちらりとそんな事を考えたが、わたしは話を続けるために口を開く。
「でも、あの人には、それだけじゃなくて他の理由があるのかも……」
「他の理由……?」
「あの奥さんと娘さん、どちらも赤毛でしたよね。赤毛に関する迷信も昔からあるんですが、あまり良い内容ではなくて……」
「それなら、俺もよく耳にした事がある。赤毛の女性は魔女だとか、そういう類のものを」
迷信が直接の原因なのかはわからないが、昔から赤毛の人間はそれだけで軽んじられるようなところがある。そういったものに興味の無いヴェルナーさんでも知っているくらい、赤毛に対する好ましく無い印象は広く世間に根付いているのだ。
「ええ。あの奥さんも、そんな迷信が原因で、赤毛であるというだけで偏見を持たれていたのかもしれません。普通ならそんな経験をしていれば、赤毛に関する迷信がどんなに馬鹿げたものか本人は判っているし、そういった迷信やジンクスの類に対して反感を持ったり、簡単に信じたりはしないと思うんですが……でも、自分以外の誰かが関わるとなれば別なんじゃないかって……特にそれが大切な家族なら」
言いながらわたしは地面に視線を落とす。
「彼女は、自分の娘もまた赤毛のせいで人から偏見を持たれたり、誤解を受けるのではと危惧していたんです。でも、赤毛は病気でもないから治療しようもないし……せめてジンクスや験担ぎに縋るくらいしかなかったのかも。だって、子供用の靴下にハンカチ、そして娘さんの身に付けていたエプロン。てんとう虫の刺繍がしてあったのは、全部あの娘さんの持ち物ばかりだったんですよ。だから、ゼラニウムの花も、娘さんのためだったんじゃないかなと……」
普通に考えれば行き過ぎとも言えるほどの拘りも、家族のためというのなら納得できるように思える。
現にわたしのすぐ近くにだって、姉の願いを叶えるためならどんな事も厭わない弟が存在するではないか。
「もしそうだとしたら、黒猫や鏡の破片の話なんかして、ちょっと脅かしすぎたかもしれません。だからといって、勝手に人の家から花を取る行為が許されるわけじゃありませんけど……」
わたしは自分の足にある痣の事を思い出す。わたしだってあの痣のせいで魔女呼ばわりされた事もあるのだ。根拠もなく責められる辛さは少しくらいなら判るつもりだ。
それを考えると、あの女性に対して牽制するだけではなく、もっと別のやり方があったのではと思ってしまう。といっても何も考え付かないのだが。せめて少し様子を見るべきだった。
「でも、こちらからゼラニウムを贈ったりなんかしたら『あなたが庭から花を取っている事を知っています』と言っているようなものだし、今更『本当は鏡の破片なんて埋めてないし黒猫も飼う気はありません』なんてわざわざ伝えるわけにもいかないし……一番いいのは、あの奥さんが迷信だとかジンクスだとかを気にしなくなる事なんですが……困ったなあ……」
すると、黙って話を聞いていたヴェルナーさんが静かに口を開く。
「すまないな。俺が些細な事を気にしたばかりに……」
まずい。余計な事まで口に出してしまった。このままではヴェルナーさんが自分の発言が発端なのだと気に病んでしまうかもしれない。
わたしは慌てて胸の前で両手を振る。
「あ、いえ、出過ぎた真似をしてしまったのはわたしのほうです。よく言われるんですよ。おせっかいだって。さっきの事だって、あの奥さんに対してどうするかをヴェルナーさんに確認するべきでした。なんていったって実際に隣に住んでいるのはヴェルナーさんなんですから」
「だが……」
「あの奥さんの事に関しては、わたしが何か良い方法を考えます」
実際は何も考えていなかったが、その場を取り繕うために勢いで口に出してしまった。
「だからその、ほら、気を取り直して野ゲーキを作りましょう。わたしはもう少し花を集めてきますね」
強引に話を打ち切ると、くるりと背中を向けて庭の隅に咲く花の元へ駆け寄った。
草花を集め終わると、柔らかな土の傍にしゃがみ込み、野ゲーキ作りを開始する。
わたしは両手で土を盛ると円柱状になるよう軽く形を整える。
「これでケーキの土台ができました。あとは植物で好きなように飾りつけすれば良いだけです」
「なるほど……」
わたしの簡単な説明に、ヴェルナーさんは何事か考えるように地面を見つめていたが、やがておもむろに手で土をかき集め土台を作り始める。
彼のような大人の男の人が真剣に土遊びをしている姿はなんだかちぐはぐな感じがする。
不思議な気持ちでヴェルナーさんが野ゲーキを作る様子を眺めていたが、徐々にわたしは戸惑いの感情を覚え始める。
土を盛るところまではわたしと同じなのだが、ヴェルナーさんはそこからまっすぐな木の枝の側面で土の表面を撫でるようにして余計な土を排除し、平らに整える。
指の跡があちらこちらに残っているわたしのものとは大違いだ。
そうして綺麗な土の円柱が出来上がると、上面に大きさの揃った花や木の実を均等に配置する。更に側面に小枝の先端でぐるりと溝を彫ったかと思うと、その溝の上から小さな赤い実を埋め込んでいく。まるでスポンジの間に挟まれたフルーツソースのようだ。
その様子に戦慄した。
これはもう土遊びだとかいうレベルでは無い。
既に彼は野ゲーキ職人歴約10年のわたしをも凌駕するプロの野ゲーキ職人なのではなかろうか。それくらい彼の作る土のケーキは美しかった。
ここまでくると土の色がチョコレートみたいに見えてくる。
ああ、おいしそう。チョコレートケーキが食べたい……
そんな事を考えていると、わたしの腹部から蛙の鳴き声みたいな音が漏れた。
慌ててお腹を押さえるが、少し遅かったみたいだ。ヴェルナーさんが手を止めてこちらを見た。
うう……気まずい……
「……ええと、今のはその、ヴェルナーさんの作った野ゲーキがおいしそうだったから……」
「それは、俺のせいなのか……?」
「……わたしのお腹の蛙がそう言って鳴きました」
正直にそう答えると、ヴェルナーさんは自身の作った土のケーキをまじまじと見つめるように俯く。その拍子に長い髪が肩から流れて彼の顔を隠し、表情が見えなくなった。
もしかして、笑っている……?
一瞬そう思ったが、暫くして顔を上げた彼の表情は、いつもと変わらないように見えた。
「……それなら、これが完成したらカフェに行こうか。俺が奢ろう」
「えっ? いえ、そんな……カフェに行くのは賛成ですけど、自分のお金でなんとかなりますから」
むしろマフラーの件を考えると、お礼としてこちらが奢るべきなんじゃないだろうか。
そう考えていると、ヴェルナーさんが首を振る。
「今日は気分が良いんだ」
わけもわからず首を傾げていると、ヴェルナーさんが自分の作った野ゲーキを指差す。
「これを見て、君が言うところのお腹の蛙が鳴いた。それは、俺の作った土のケーキが君の空腹感を刺激したという証拠だろう。どんな形にであれ、俺は誰かの本能に訴える物を作る事ができたんだ。こんなに嬉しい事なんて滅多にない」
そう言って、今度は本当に微笑んだ。
普段ほとんど表情を変えない人が稀に見せる笑顔というものは、とても印象的であり、説得力がある。わたしは思わず見入ってしまった。
「その記念に……と言うには大袈裟かもれしれないが、ささやかにでも祝いたい気分なんだ。だから、俺のそんな自己満足に付き合ってもらえると嬉しい」
その言葉から、彼が何かを創造するという行為に対して特別な拘りを持っている様子が伺えた。子供が遊びで作るような土のケーキにさえそんなふうに考えるのだから。画家という仕事は彼にとって天職だったのかもしれない。
だからこそ、今の彼がどうやっても肖像画を描けないという事実がひどく残酷で悲しい。
笑顔を浮かべるヴェルナーさんとは裏腹に、わたしの胸は痛みを感じていた。




