六月と慌ただしい日曜日 2
わたしがひとり部屋で待っていると、ドアが開きクルトに連れられたフレデリーケさんが入ってきた。
「彼が君に話があるそうだ。聞いてやってくれないか」
「彼」という部分を微妙に強調したクルトがそうフレデリーケさんに告げると、わたしに目配せして部屋から出て行った。
残されたフレデリーケさんは心もとなさげに視線を彷徨わせている。
「どうぞこちらに。女性を立たせたままにするわけにはいきませんからね」
わたしは自分の思いつく限りの紳士らしい行動を心がけるように、椅子を引いてフレデリーケさんを促す。彼女は戸惑っている様子だったが、暫くしておずおずとテーブルに近づき、腰を下ろした。その瞳は不安げな色を宿している。
わたしは彼女を必要以上に警戒させないようにと、少しの距離を保ちながらなるべくゆっくり口を開く。
「突然お呼び立てしてすみません。どうしてもあなたとお話がしたくてクルトに頼みました」
わたしは一呼吸置くと、フレデリーケさんを見据える。
「率直に言います。フレデリーケさん、わたしは以前からあなたの事を慕っていました。男として。ええ、男として」
「はい?」
フレデリーケさんがびっくりしたように目を見開く。
「そう、これは恋。キューピッドの矢に射られるように、あなたの瞳に射殺され、わたしは一瞬にして恋という心変わりの病に掛かってしまいました。突然こんな事を言うのはあなたを混乱させるだけでしょう。でも、どうしても伝えなければ、神秘の森の奥深くから湧き出すあなたへの想いはやがて奔流となり、わたしの心は押し流され溺れてしまいそうだったのです」
「あのう……」
何かを言いかけるフレデリーケさんを手で制し、わたしは続ける。
「いえ、この告白によってあなたを煩わせようという訳ではありません。本来ならばわたしのような未熟な男が、あなたのように自立した素晴らしい女性に対してこんな邪な想いを抱く事すら許されないのです。ただ、あなたにわたしのこの罪深い告白を聞いて欲しかった。それだけなのです。この行為自体が罪というのならば、罪深いわたしの唇から舞い落ちる幾万もの言の葉で償いましょう」
そう言って己の胸に手を当てながら、感極まったように天井を見上げてみせる。
「ええと……」
「ああ、何も言わなくて結構です。この告白は身勝手な唇が紡ぎ出した幻聴。そして白日夢。この部屋から一歩出れば掻き消えてしまうほどに価値の無いものに等しい。でも、わたしの薄暗くつまらない人生の途中に、あなたという眩しく美しい光が確かにあったという事を思えば、わたしはこれからも希望を失わずに生きてゆけるのです」
わたしはフレデリーケさんの傍らに跪くと、一輪の花を差し出す。
「あなたのように可憐で美しいこの花。無力な男であるわたしにはこれを贈るくらいしかできません。わたしにとっての最初であり最後である真の愛の証を、どうか拒絶しないでください」
「はあ……」
フレデリーケさんはわたしの手元の花と、その背後とを見比べるように視線を泳がせる。
まずい、そこにある花瓶から花を一本拝借した事に気付かれた?
「と、とにかく」
わたしはフレデリーケさんの手に半ば無理やり花を押し付けると、その視線を遮るように立ち上がり、入り口を手で示す。
「わたしの自己満足のために、あなたの貴重なお時間を割いてしまい申し訳ありませんでした。どうぞお仕事に戻って頂いて構いません。今ここでわたしの話した事は、くだらない戯言だと思って忘れてください」
フレデリーケさんは訳がわからないと言ったような表情を浮かべながらも、わたしに促されるまま部屋から出て行った。
結局彼女がまともに言葉を発する事は殆どなかった。
……これでなんとか上手くいくと良いんだけれど。
これがわたしの『告白』だった。
フレデリーケさんに『愛を告白する』という、普通に考えれば同性間では成立しないであろう行為により、わたしが男であると彼女に思わせることが出来るんじゃないか。そう考えてこんな行動を取った。それに、言葉の端々でさりげなく「男」という言葉を出したりしてアピールしたつもりだ。
でも、本当に良かったんだろうか。なんとなく「愛」とはもっと神聖なものであって、軽々しくその言葉を口にしてフレデリーケさんを謀った自分は、酷く罪深い人間なんじゃないか。そんなふうに思ってしまう。
いや――だからこそ、この方法に頼った。「愛」という言葉が侵し難いものであるからこそ説得力が増すはずだ。
これはわたしの秘密を守るためには仕方の無い事だったのだ。
そうやって自分を無理矢理納得させた。
そうしていると、クルトが部屋に入ってきた。
「あの妙な言い回しは何なんだ? あれ以上続けられたら全身に蕁麻疹が出るところだった。おまけに演技がへたくそだなんて救いようが無い」
「わたしたちの愛の語らいを聞いてたんですか? 悪趣味ですよ」
「語らいって……殆どお前が一方的に喋ってただけじゃないか。あんな恥ずかしい台詞をすぐ近くで長々と聞かせられた彼女が気の毒だ」
「あれは、この間読んだ小説にあんな文章があったのを思い出して、ところどころ参考にしたんですよ。ロマンティックで素敵な台詞じゃありませんでした? 女性にはああいうのが効果的なはずです……たぶん」
「……俺は色々と同意しかねる。というか理解できない……でも、あれくらい強烈なほうが印象には残るだろうな」
「そうですよね! 印象に残れば残るほど、わたしが男として愛を告白したという出来事も、フレデリーケさんの心に強く残るはずです」
どうかそうであって欲しいと願う。
「一応『愛を告げるだけで満足して、それ以上は望んではいない』という設定だったんですけど、ちゃんと伝わりましたよね……? もしもフレデリーケさんがあの告白に心を打たれて『私もあなたの事が……』なんて言ってきたらどうしよう……」
「そんな事はまずありえないだろうし、流石に彼女だってそのくらいは弁えているはずだ。それに俺からも彼女に伝えておいた。『彼は自分に酔っているだけだから、何を言われても本気にするな』って。そういう意味では、さっきのあの痛々しい台詞は自己陶酔感に溢れていてとても良かったな」
「それって褒めてませんよね……」
おかしい。わたしが参考にした小説の中では、あんな感じの台詞を言った主人公とヒロインは良い雰囲気になって、挙句には永遠の愛を誓い合ったりするのだ。しかし実際にそれを参考にした自分は、まるで勘違いしている可哀想な人みたいではないか。
ともあれ、今の自分にできる事はやったつもりだ。これで駄目だったら、また別の方法を捻り出すしかない。その時はまたその時だ。
やれるべき事を終えたら、思い出したように急にお腹がすいてきた。
まだ手付かずでテーブルに置かれていた朝食は、見ただけですっかり冷め切っていると判る。勿論冷めてもおいしいに違いないだろうけれど。
でも、どうせなら先に食べてから告白すれば良かったかな……
食後のお茶を飲んでいると、この間と同じようにフレデリーケさんに車椅子を押されたロザリンデさんが入室してきた。
さりげなくフレデリーケさんの様子を伺うと、彼女もこちらへと顔を向けた。
目があったと思った瞬間、彼女ははっとしたように顔を伏せてしまった。心なしか顔を赤らめているようにも見える。
うーん……これは、わたしの事を男性として意識しているという事なんだろうか。
それともクルトの言っていたように、痛々しい台詞を吐いた恥ずかしい人という認識をされているのか。
後でクルトにも意見を聞いてみよう。
挨拶を済ませると、ロザリンデさんはわたしを見てにっこりと笑う。
「ユーニくん、また来てくれたのね。嬉しいわ。私ね、ユーニくんともっとお話したいと思っていたのよ。ああ、別に変な意味じゃなくてね。クルトと仲良くしてくれるお友達ってどんな人なのかなあって、詳しく知りたかったの。クルトって、自分からはほとんどお友達の事を話してくれないから」
その言葉にわたしとクルトは顔を見合わせた。
ロザリンデさんは以前に逢ったときと同じように微笑んでいるし、フレデリーケさんのように顔を赤らめることもない。
この様子を見ると、やっぱりわたしの思ったとおり、彼女は弟の友人という存在に興味があっただけみたいだ。
でも、その事がこんなにもあっさりとロザリンデさん本人の口から明かされるなんて、なんだか拍子抜けだ。
自分の姉がわたしに異性として好意を抱いている訳ではないとわかったからか、クルトは明らかにほっとしたような顔をしている。
これで彼のおかしな誤解も解消されただろうが、わたしは釈然としないものを感じていた。
あれだけ騒いでいたのは一体なんだったのか。おまけにお風呂を覗かれて、嘘の愛の告白までしたなんて……それってクルトが早とちりをしなければ避けられたんじゃないだろうか。こんなに簡単に真相がわかったのならば、なにも慌てて今日逢わなくても良かったのでは。
クルトがお姉さんの事を慕っているのは傍目にもよくわかる。でも、少し過保護すぎるというか……
けれどその一方で、仮に今の自分に家族がいたのなら、思いっきり甘やかしたり、逆に思いっきり甘やかされたいとも思う。そう考えると、もしもわたしがロザリンデさんの立場だったら、クルトみたいなきょうだいは結構理想に近い部分があるかもしれない。
でも、彼はロザリンデさんと同じようにはわたしに接してはくれない。当たり前だ。わたしたちは家族じゃないんだから。
いつのまにか溜息が漏れていた。
こんな事を考えてもどうしようもない。それでなくても今日はいろいろな事が起きて、まだ朝だというのになんだか疲れてしまった。
わたしはテーブルの上の砂糖壷を引き寄せると、スプーンに山盛りの砂糖を紅茶の中に何杯も落とした。
「ユーニくんのお父様って、どんなお仕事をされてるの?」
「へっ?」
ロザリンデさんの問いに不意を突かれて、まぬけな声を上げてしまった。
「あの、ええと……」
わたしは答えに詰まる。
わたしにとって父親といえば教会の神父様がそれに近い存在と言えるが、それをそのまま伝えるわけにもいかない。
学校でも似たような事を尋ねられた事はあったが、その度に言葉を濁しては誤魔化していた。
「こちらのお宅に比べたら、わたしの家なんて大した事はありませんよ。ましてやロザリンデさんにお聞かせするほど面白いわけでもありませんし……」
「あら、それは買い被りすぎよ。うちだって大した事ないのよ。それに、さっきも言ったでしょう? 私、クルトのお友達について詳しく知りたいの」
困った。曖昧に誤魔化そうとしたがそうはいかないみたいだ。
かといって、あまり具体的な作り話をしてもぼろが出そうで怖い。
必死にそれらしい言葉を捻り出す。
「ええと、わたしの家は、その……農作物の流通に関わっていたりだとか……」
孤児院の畑で野菜を育てていたのであながち間違いとも言えない。
これ以上家庭環境について詳しく聞かれないように、わたしは自分から適当な話を振る。
「知ってます? 作物を収穫した後に残った余分な葉っぱって、そのまま畑に埋め戻すんですよ。そうすると余計なごみが出ないし、肥料にもなるんです」
「へえ、さすが詳しいのねえ」
ロザリンデさんが感心したように頷く。
「そうだ。俺も彼から聞いて知った事があって――」
クルトが横から遮るように口を挟む。
「ホウライアオカズラというハーブがあるんだが、不思議な事に、その葉で淹れたお茶を飲むと暫く甘みを感じなくなるんだ。俺も実際に試したが、ビスケットの味がまったくわからなくなった」
それを聞いたロザリンデさんは目を丸くする。
「まあ。なんだか魔法みたいねえ。そのハーブって、うちの庭には生えていないのかしら?」
「興味があるなら今度持ってこよう。学校の温室にあるはずだから」
「あら嬉しい。楽しみにしてるわ。その時はとびっきりの甘いお菓子を準備しておかなくちゃいけないわね……ああそうだわ、お菓子といえば、最近とってもおいしいケーキを食べたのよ。今日も同じものを用意してあるから、あとで皆で頂きましょうね」
「わあ、本当ですか!? 楽しみです!」
わたしは思わず声を上げるが、その途端クルトに睨まれた気がした。
……なんだろう? 何か失礼な事言ったかな?
わけもわからず口を噤むが、クルトはこちらに顔を向けながら口を開く。
「そういえば、以前に街で食べたケーキが美味いって言ってなかったか? ほら、噴水の近くの」
その何か言いたげな瞳を見て理解した。彼は話題を変えようとしているのだ。わたしの出自に関わることを避けるために。急にホウライアオカズラの話を持ち出したのもその為なんだろう。
わたしはそれに合わせるように慌てて頷く。
「ええと……そうそう。カフェでイチジクのタルトを食べたんですけど、とってもおいしかったですよ」
「本当? それなら私も今度試してみようかしら」
ロザリンデさんは両手を合わせて目を輝かせる。
「あと、チョコレートのおいしいお店もあって――」
そうやって暫くお菓子の話に花を咲かせる。大抵の女性はこういう話題に興味を示すものなのだ。ロザリンデさんも例外ではないらしい。
クルトの助け舟もあり、なんとかわたしの家庭の事についてそれ以上聞かれずに済みそうだった。
そのことにほっと胸を撫で下ろした。
「私、街の事はあまりよく知らないから、そういうお話を聞けると嬉しいわ。あ、そうそう、街といえば――」
ロザリンデさんは急に何かを思い出したようにくすりと笑う。
「この間ね、クルトが日曜日でもないのにこのお屋敷に来て『学校の中に戻りたいから手伝って欲しい』ってメイドたちに頼んだそうなの。どうもこっそり学校を抜け出して街に行ってたらしいのよ。それでその後どうしたかって言うとね、倉庫から梯子を持ち出して、それを学校の塀に立てかけて、そこから中に戻ったんですって。おかしいわよねえ。ふふ」
「なっ!?」
その途端クルトが勢いよく立ち上がり、身を乗り出すようにテーブルに手を付く。
「ど、どうしてねえさまがその事を……!?」
「あら、秘密にしていたつもり? 残念でした。このお屋敷の中で起こった事で、私の知らない事なんてないのよ?」
ロザリンデさんは少し得意げに答える。
それってもしかして、わたしの新しいマフラーを買ってきてくれた日の事ではないだろうか。
あの日、クルトが一体どうやって外から戻ってきたのか不思議だったが、そんな手段であの塀を越えてきたなんて。
わたしには真似できない方法だって言っていたけれど、確かにその通りだ。
でも、どうしてそんな簡単な事を教えてくれなかったんだろう。
「でもね、クルト」
そこでロザリンデさんは窘めるような口調になった。
「あなたも知っていると思うけど、この家にはほとんど女の子しかいないのよ? あなたの都合で余計な力仕事をさせるのはやめて頂戴ね? あなたが学校に戻った後、女の子だけで梯子を持って帰るのは大変だったみたいなんだから」
「……すみません」
俯いてクルトは大人しく椅子に腰を降ろした。悪戯を咎められた子供みたいにしゅんとしている。
こんな彼の姿を目にするのは初めてかもしれない。やっぱりロザリンデさんには弱いみたいだ。
それを見てちょっと気の毒になってきた。あのマフラーが原因ならば自分にも責任はある。でも、取り成そうにも理由が理由だけに、口を出して良いものか躊躇ってしまう。
「美意識が傷つくから」なんて、そんな理由で校則を破って学校を抜け出して、使用人にも迷惑をかけた事がロザリンデさんに知られたら、クルトは余計怒られるんじゃないだろうか。というか、自分だったら絶対怒る。
わたしは少し考えた後、心の中でクルトに謝りながら無言を貫くことにした。
他愛の無いおしゃべりを再開して暫くすると、ロザリンデさんに対する警戒心は薄れていった。わたしの出自についての話題にさえ気をつけていれば、彼女と過ごす時間は楽しかった。
常に微笑んでいるような柔らかい雰囲気を纏って、どんな話にも興味深そうに相槌を打ってくれる。
さっきクルトの行動を咎めた時だって、声を荒げる事も無く、優しく言い聞かせるようだった。それに美人だし。こんなお姉さんのいるクルトが羨ましい。
そんな事を考えながら、ふと壁の時計に目を向けて、わたしは思わず立ち上がる。
「いけない、もうこんな時間……! わたし、行かないと……!」
「あら、どうかしたの?」
慌てるわたしにロザリンデさんが不思議そうな目を向ける。
「すみません、今日はこのあと用事があるのでこれで失礼させて頂きます」
「まあ、そうなの? 残念だけどそれなら仕方がないわねえ」
ロザリンデさんは一瞬目を伏せた後、帰り支度をするわたしに声を掛ける。
「ねえ、ユーニくん。あなたさえ嫌でなければ、これからもこうしてこの家に遊びに来てもらえると嬉しいんだけれど。どうかしら? 私、もっとユーニくんとお話したいわ」
「はい。わたしで良ければ喜んで」
ロザリンデさんの微笑に応えるように頷くと、挨拶もそこそこに、わたしは飛び出すように部屋を後にした。




