六月と兄弟 6
その日は朝から雨が振っていた。
放課後、部屋に戻ってきたクルトが
「ほら、お前の欲しがってたものだ」
と言ってわたしに何かを手渡してきた。
「なんですか? これ」
布張りの長方形の箱のようだ。大きさは掌に乗るくらい。蓋を開けると、中には折りたたまれた布切れが入っていた。
こんなもの、欲しいって言ったっけ……? 食べられそうにもないし……
「眼鏡ケースだ。お前の家族だっていう三年生の」
「アルベルトの!? 一体どうやってこんなもの……」
驚きながらも不思議に思っていると、クルトが話し始める。
「今日、彼とすれ違う時にうっかり躓いて、その拍子に俺の持ち物を彼の正面からぶちまけてしまった。彼は散らばったものを拾ってくれたんだが、どうしてもペンが一本見当たらなかった。だから俺は彼に向かって『ペンが一本足りない。あなたの持ち物の中に紛れてしまったかもしれないから、申し訳ないが確かめてくれないか』と言ったんだ」
「それで?」
「そこでもペンは見つからなかったが、俺が『もしかすると、あなたの服のポケットの中に入ってしまったのかもしれない』と言ったら、彼は素直にポケットの中に手を突っ込み始めた。その時、探すのに邪魔そうだったから彼の持ち物を預かったんだ。でも、結局は俺の勘違いで、最初からペンを失くしてなんていなかった。だから俺は彼に謝って持ち物を返して、すぐにその場を立ち去った……はずなんだが、どういうわけか、気付けば俺の持ち物の中に彼の眼鏡ケースが紛れ込んでいた。不思議だな」
「えー、白々しいなあ……ほんとはうっかりじゃなくて、わざと躓いたふりをしたんじゃないですか? 最初から眼鏡ケース目当てで。今日は朝から雨が降っているし、アルベルトが常に眼鏡ケースを持ってるはずだって思ったんでしょう? 眼鏡を雨から守ったり、濡れてもすぐに水滴を拭けるようにって」
その問いにも、クルトは黙って肩を竦めるだけだ。
眼鏡ケース程度ならば紛失しても大きな騒ぎになる事も無いだろうし、そもそもアルベルトだって、誰かが自分の眼鏡ケースを狙っているだなんて思いもよらないはずだ。だからクルトもこうして持ってくることが出来たんだろう。
「でも、人の親切心に付け込んでそんな事するなんて……クルトって詐欺師の素質があったりして」
「人聞きの悪い事言うなよ。俺からしてみれば、お前のほうが立派な詐欺師だと思うけどな。性別だけじゃなく年齢まで誤魔化してるわけだから」
言われてみればそうなのかもしれない。好きでやっているわけでは無いのだが。
「ともかく、それを彼に返しておいてくれ。お前の家族なんだから、俺よりお前のほうが逢う機会が多いだろう?」
その後でクルトは人の悪そうな笑みを浮かべる。
「勿論、その時は中身を入れておくのを忘れるなよ」
翌日、わたしはアルベルトの部屋を訪れた。
「課題の事でわからないところがあって……」
そう告げると、彼は快く部屋に招き入れてくれた。
ルームメイトは不在のようだ。早速空いている椅子を借りて、勉強机に教科書とノートを広げる。
暫く大人しく課題に取り組むふりをしてから、頃合を見計らって鉛筆を床に落とす。
「あ、手が滑って……」
机の下に転がったそれを屈んで拾いながら、ポケットに忍ばせていた眼鏡ケースを取り出した。
「あれー? こんなところに眼鏡ケースが。一体誰のかなー?」
我ながら相変わらずな演技だと思ったが、アルベルトはわたしが手にした眼鏡ケースを見て声を上げる。
「あ、それオレのだよ。昨日から見当たらなくてさ。そんなところにあったんだな。いつの間に落としたんだろう?」
見つからなくて当然だ。昨日クルトが巻き上げてしまったんだから。
わたしが眼鏡ケースを手渡すと、アルベルトは机の隅に置いて、そのまま課題の続きに戻ろうとする。
あれ? 蓋を開けない……?
予想と違う。これでは彼の反応が直接見られないではないか。わたしは咄嗟にアルベルトの顔に手を伸ばす。
「あの、ええと、髪の毛に何か付いてますよ。すぐに取るので動かないでください」
そうしてアルベルトの前髪に触れながら、彼の眼鏡にべたりと指を押し付ける。
「あー、すみません。レンズを汚してしまいました」
「ああ、気にしないで。すぐに拭けば良いから」
そう言ってアルベルトは眼鏡ケースに手を伸ばす。来た。と、わたしはその様子を固唾を飲んで見守る。
アルベルトがケースの蓋を開ける。
その途端、彼の表情が凍りついた。
眼鏡ケースの中には、わたしが見つけてきたカブトムシの幼虫と、おまけで入れたミミズにダンゴムシが何匹か蠢いていた。
「なっ!?」
アルベルトは弾かれたように立ち上がる。その勢いで椅子が後ろに倒れた。
「な、なんだこれ……!? なんでこんなところに……!?」
「どうかしました?」
その狼狽ぶりに噴き出しそうなのを堪えながら、わたしは平静を装って尋ねる。
「こ、これ、眼鏡ケースの中に、む、虫が……!」
「虫? わたしには何も見えませんけど」
取り澄ましたわたしの言葉を聞いてアルベルトは信じられないと言ったふうに、眼鏡ケースとわたしの顔とを見比べる。
「は? え? だ、だって、こんな……」
もうだめ。笑いを堪えきれない。
それでも必死に我慢していると、不意にアルベルトが落ち着きを取り戻したように、じっと眼鏡ケースに目を落とす。
「……悪いけど、今日は帰ってくれないかな」
その思いつめた様子に、わたしの笑いは引っ込んだ。
もしかして、自分がやったとバレてしまった? 怒っているのかもしれない。
どうしようか、謝ろうか思っていると、アルベルトが口を開く。
「オレの目がどうかしてしまったのかもしれない。幻覚が見えるんだ」
「えっ?」
幻覚って、虫の事……?
どうしていきなりそんな発想になるんだろう。
これは少しやりすぎてしまったのかも。この調子では、アルベルトは自分がおかしいのだと思い込みかねない。
どうしよう。ほんの軽い仕返しのつもりだったのに……
「オレ、保健室に行ってくるよ……」
眉間を押さえながら部屋を出て行こうとするアルベルトを引き止めるように、わたしは慌てて立ち上がる。
「あ、あの、待ってください。何も見えないなんて嘘です。その虫もわたしがやったもので……この間の仕返しのつもりで……ごめんなさい。だから、アルベルトはどこもおかしくなんかありません……!」
その言葉にアルベルトはきょとんとしていたが
「なんだ、そうだったのか。びっくりしたよ。オレはてっきり……」
そう言って胸を撫で下ろした。
「……それにしても、いつの間に眼鏡ケースに細工したの? 全然気付かなかったな」
「それは、その、秘密です……あの、怒ってないんですか?」
「うーん……そりゃ、普通だったら怒ってるだろうけど、オレも君には酷い事をしたからね。これくらいされても文句は言えないよ。君も気が済んだ?」
酷い事をしたのは主にイザークなのだが、この三年生は自分がやった事のように罪悪感を覚えているんだろうか。
アルベルトって、人が好いのかも。それもあってイザークに強く出られなかったり、クルトに簡単に眼鏡ケースを奪われてしまったのかもしれない。
「でも――」
わたしが言いかけると、倒れた椅子を起こしながらアルベルトがこちらに顔を向けた。
「ちょっと不思議だったんですけど……虫を見てまっさきに幻覚だって思ったのはどうしてですか? 普通はわたしが嘘を言ってるんじゃないかって疑いませんか? そっちのほうが、幻覚よりも現実的だと思うんですが。というか、実際そうだったわけですし」
自分の考えすぎかもしれないが、気になって問う。
「……もしかして、今までにも幻覚が見えたりだとか、そういう兆候があったんですか?」
そうだとしたら何か厄介な病気の予兆なのではと心配になったのだが、アルベルトは
「ええ? そんなふうに見えた? 参ったな……」
そう言って困ったように頭を掻く。その様子は特に深刻そうには見えない。
「そんな大袈裟な事じゃないんだよ。ただ、たまに自分の目が信じられなくなる時があるんだ」
「それってどういう……」
アルベルトはわたしをちらりと見やると言い辛そうに口を開く。
「それは、たとえば、その……ありえない話なんだけど……時々君が女の子に見えたりだとか……」
「えっ?」
「ああ、ごめん。こんな事言われたら不愉快だよね。自分でもどうかしてると思うよ。男子校に女子がいるわけがないし」
「いえ、わたしはその、よく性別を間違えられるので……」
「そうなんだ? それならオレがおかしいわけじゃないって事かな? 君には悪いけど……」
「そ、そうですよ。それに、わたしは気にしてませんから」
「うーん……でも、それだけじゃないんだよね。他にも……」
アルベルトは何か言いかけて口を噤む。
「いや、流石に馬鹿げてる……まあ、そういうわけで、今日もまたオレの目が変になって、とうとう幻覚まで見るようになったのかと思ってさ」
「ええと、もしかすると眼鏡の度が合ってないのかもしれませんね」
「そうなのかなあ……」
アルベルトの身体に異常はないと判ったが、わたしが女だという事を明かすわけにもいかないので、申し訳ないが強引に彼の眼鏡のせいにさせてもらおう。
「ともかく、これが幻覚じゃなくて安心した……と言って良いのかな。現実だとしてもちょっと信じられない光景だけどね」
アルベルトは眼鏡ケースの中に蠢く虫を指差す。蓋が開けっぱなしだったので今にもミミズが外に這い出してきそうだ。
「す、すみません! すぐに中身を土の中に戻してきます」
「そうしてくれると助かるよ」
わたしは眼鏡ケースを掴んで部屋を出ようとして、慌てて振り返る。
「あの……こんな事しておいてずうずうしいとは思うんですが……戻ってきたら課題の続きを教えてもらえませんか? 仕返しのためにここに来たのは本当ですけど、課題でわからないところがあるって言うのも本当なんです」
「いいよ。夕食までには終わらせよう」
アルベルトは笑顔で快諾してくれた。正直、断られるかと思っていた。
もしかして、彼はものすごく良い人なのかも……
自分がした事を考えると申し訳なくなってきた。今度ここに来ることがあれば、お詫びにお菓子でも持ってこよう。
そう決意して部屋を出た。




