六月と兄弟 1
わたしは手にしたフォークをマフラーに何度も突き刺していた。
いつのまにかマフラーに乾いた石膏の塊がべったり付いていたのだ。ヴェルナーさんのアトリエでうっかりくっつけたのがそのまま固まってしまったらしい。マフラーも石膏も白いから今まで気付かなかった。
石膏ってやつは固まると水では洗い流せない。粉々に砕いて削ぎ落とすしかないのだ。しかも固まる前に編み目の隙間に入り込んだりしていて非常にたちが悪い。だから食堂から拝借したフォークを使って石膏の塊を割ろうと苦心しているのだが――
「ああ、もう……」
フォークの先でがしがしと叩いても中々思うようにいかない。
段々いらいらしてきた。力ずくで引き剥がそうと、毛糸を一本指に絡め、フォークで石膏の塊を押さえてぎゅっと引っ張る。
すると「ぶちっ」と変な音がして、指先に感じていた抵抗がふっとなくなった。
「あれ?」
嫌な予感に慌てて手繰ると、完全に毛糸がちぎれていた。
「あああ……」
……やってしまった……
翌朝、首に包帯を巻いたわたしの姿を見て、クルトが目を瞠る。
「その包帯、どうしたんだ? 怪我でもしたのか?」
「いえ、実はマフラーが駄目になってしまって……」
わたしは前日の出来事を説明する。
あの後、ちぎれた毛糸の先端がみつからず、焦っているうちにいつの間にか編み目が解けて、大きな穴が空いているみたいになってしまったのだ。編み物のできないわたしにはとても直せそうになかった。
それを聞いたクルトが首を傾げる。
「事情はわかったが、それでどうしてわざわざ包帯を巻くんだ? 首に何か巻く必要があるのか?」
「だってほら、首を隠していないと、わたしに喉仏が無いって事がばれてしまうじゃないですか」
「……まさかお前、いつもマフラーを巻いてるのはそれが理由だったのか?」
「そうですよ。代わりのものが用意できるまで、暫くは包帯で過ごすしかないですけど」
「流石に気にしすぎだろう。誰もそんなところまで意識しないと思うんだが。それよりも、包帯なんて巻いたら余計目立つ」
「でも、万が一ってこともあります。用心するに越したことはないですよ」
「用心してるって言うなら、どうして肩車なんてしたんだ。気をつけるべき所が間違ってるんじゃないのか?」
呆れたようなクルトの声に、わたしは少し言葉に詰まる。
「あ、あれは、見た目が誤魔化せていれば、普段と同じような行動をしても大丈夫だと思ってたんですよ。あの時の事はもう言わないでください……」
思い出すと顔が熱くなる。よりにもよって、なんであんな恥ずかしい理由でばれたんだろう。
「……まあ、包帯で気が済むなら好きにすればいいと思うが……でも、せめて制服のリボンはちゃんと結べ。曲がってるじゃないか」
クルトはそう言ってわたしの襟元を指差す。
「これで精一杯なんですよ。自分で自分のリボンを結ぶのって難しくありませんか?」
「何を言ってるんだ。今までだって毎日結んでたんじゃないのか?」
「ええと、どうせマフラーに隠れて見えないし、適当でいいかなーと……」
それを聞いてクルトがぽかんと口を開けてわたしを見つめる。
な、なんだろう。何か変な事言ったかな……
「……信じられない」
「え……?」
「よく平気でいられるな……少しの間じっとしてろ。動くなよ」
そう言ってクルトはわたしの前に回りこむと、襟元のリボンをするりと解き、器用な手つきで結び直していく。
「あ、す、すみません……」
「お前は気にならないのかもしれないけど、目の前でおかしな格好されると、俺の美意識が傷つくんだよ」
なにそれ。なんとも面倒くさい美意識だ。パンの耳の件といい、この人、妙な拘りがあるのかな……
でも、そうやってリボンを直すクルトを見ていると、なんだか懐かしいような気持ちになってくる。
以前にも誰かに似たような事をしてもらっていた気がする。確か孤児院にいた頃――
「よし。これでいい」
クルトの声に、追想から引き戻される。
鏡で確認すると、リボンは先程までと比べものにならないほど綺麗に結ばれていた。
「わあ、ありがとうございます。クルトって、なんだかお姉ちゃんみたいですね。あ、でも男の子だから『お姉ちゃんみたいなお兄ちゃん』かな」
孤児院にいた頃、『姉』がよくわたしの曲がったリボンやブーツの紐なんかを直してくれた。
それを思い出して何気なく口にしたつもりなのだが、それを聞いたクルトは眉を顰める。
「……お前、まだ昔のおかしな習慣が抜けてないのか?」
「何のことですか?」
「前に言ってた『一緒に住めば家族も同然』ってやつだよ。いい加減、近くにいる他人に家族の役割を当て嵌めるのはやめろ。ここはお前の住んでた孤児院じゃないんだ」
「わ、わたし、別にそんなつもりじゃ……」
「そんなつもりじゃないって? 本当にそう言えるのか? それならどうして『お姉ちゃんみたいなお兄ちゃん』だなんて言ったんだ?」
「それは……」
わたしは口ごもる。
言われてみれば確かにそういうところはあったかもしれない。でも、それってそんなに責められることなんだろうか? ちょっとくらいならいいじゃないか。心の中で思うことすら駄目なの?
クルトはそんなわたしを見て溜息をつく。
「この際だから言っておく。俺はお前の兄でもないし、ましてや姉でもない。俺のきょうだいはロザリンデねえさまだけだ。だから俺をお前のきょうだいみたいに扱うのはやめろ。そういうのは迷惑なんだよ」
思いがけず強い口調で言われ、わたしは俯いてしまう。
クルトがこんなふうに怒るって事は、やっぱり自分が間違っているのかもしれない。少なくとも、一般的な『家族』というものに関しては、彼の方がずっとよく知っているはずなのだから。
――でも、そんなに嫌だったのかな……
「……ごめんなさい。これからは気をつけます」
弱々しい声で謝ると同時に、急に寂しさに襲われた。
ここはもう孤児院ではない。あの頃みたいなきょうだいはいないし、新しくきょうだいが増えることもない。わたし一人しかいないのだ。
みんなに逢いたい。本当の家族じゃないとわかっていても、やっぱり逢いたい。
深く息を吐いて顔を上げるとクルトと目が合った。かと思うと、彼はどことなく気まずそうに視線を逸らした。
教室へ行くと、予想通りクラスメイトたちに首の包帯について尋ねられる。わたしは曖昧に笑って誤魔化していたのだが、その中の一人の生徒――確かハンスという名前だ。そのハンスがわたしの行く手を遮るように立ち塞がる。その後ろには、付き従うように二人の少年がいる。
こういう男の子、孤児院にもいたなあ。ちょっと強引で力が強かったりして、他の子を従わせるのが上手い子が。そういう子におやつを取り上げられた苦い記憶が蘇る。
「おいユーニ、その包帯どうしたんだよ」
「ええと、これはその、猫に引っ掛かれて……」
わたしが苦し紛れに答えると、ハンスは面白そうに唇を吊り上げる。
「ふうん。そんなに酷い傷なのか? ちょっと見せろよ」
な、なんで? そんなの困る……!
「そ、そんな面白いものじゃありませんから……!」
わたしは彼らの脇をすり抜けようとするが、ハンスはわたしの肩を突くようにして押し戻す。
「いたっ。な、なにするんですか……!」
抗議の声を上げるも、ハンスは気にする様子もなく、気付けばわたしは彼らに取り囲まれるようにして、壁際に追い詰められてしまっていた。
これってまずい状況だ。彼らが何をする気なのかは知らないが、どう見ても仲良くお喋りしましょうという空気でもない。
慌てて助けを求めようとするが、わたしの姿はハンス達に遮られて周りから見えないのか、この状況に気付く者はいないみたいだ。
「だ、誰か、助け――むぐ」
大声を上げようとしたわたしの口を、ハンスがその大きな手で素早く塞ぐ。わたしはくぐもった声を漏らす。
え? な、なに……?
突然の事に混乱しかけるわたしに、ハンスは低い声で囁く。
「大人しくしてろよ」
そう言いながら、ハンスはもう片方の手をわたしに向かって伸ばしてきた。咄嗟に振り払おうとするも、残る二人の少年に、左右の腕をそれぞれ押さえつけられ、それも叶わない。
「前から思ってたけど、お前、本当に男なのか? ちょうどいい。折角だから今ここで包帯だけじゃなく服も脱いでみせろよ。俺が確かめてやるからさ」
な、な、なんで? この人は一体何を言い出すんだ。そんな事されたらわたしが女だって事がばれてしまうじゃないか……! そうなればこの学校を追い出されてしまう。それだけじゃない。退学になれば、わたしは支援者の期待に背くことになり、孤児院が危機的状況に陥ってしまうかもしれない。そんなの絶対だめだ。
とにかくここから抜けだそうともがくが、わたしを押さえる少年達の腕はびくともしない。
いやだ、やめて。このままじゃ、わたし、わたし――
身体の自由がきかない中で、ハンスの手が伸びてくる。思わず両目をぎゅっと閉じたその時
「そこで何をやってるんだ!」
飛んできた鋭い声に、わたしははっとして目を開けた。見れば、一人の少年がハンスの肩を掴んで引き離すと、なかば強引に割って入るようにわたしに背を向けて立ち塞がった。
その少年は、クルトだった。
彼のおかげでハンス達の拘束から解放されたわたしは、反射的にクルトの背中に隠れるようにして、その上着にしがみつく。
「なんだよクルト、邪魔すんなよ」
ハンスは凄んでみせるが、クルトも引く様子はない。
「ちょっとふざけてただけさ。なあ、そうだろ? ユーニ」
「ち、違います。この人たち、わたしの服を脱がそうと……」
それを聞いたクルトは、わたしをハンス達の目から遮るように片手を広げる。
「ハンス、くだらない事をするのはやめろ」
「うるせえな。お前こそ、優等生ぶるのはやめろよ」
ハンスがクルトを睨みつけ、二人の間には一触即発の空気が流れる。それはお互いの間に飛び散る火花が見えるように錯覚するほど。
ハンスは今にもクルトに掴みかかりそうだ。いつ彼が暴れだすんじゃないかと、ひやひやしながらわたしはなりゆきを見守る。
やがてクルトが静かに口を開いた。
「いいのか? みんなが見てるぞ」
その言葉に視線を巡らすと、いつのまにか教室中の生徒達が、わたしたちの動向に目を向けていた。背が高くて目立つクルトが行動したことで、さすがにみんなが気付いたらしい。
その様子を見て、ハンスはばつの悪そうな顔をしたが、やがてクルトを睨みつけると、舌打ちを残してわたし達から離れていった。
「こ、怖かった……」
「まったく、気をつけろよ」
教室から連れ出され、人通りの少ない廊下の片隅で、クルトはじろりとこちらを軽く睨む。
「そ、そんな事言ったって、わたしは何もしてないのに、あっちが絡んできたんですよ」
「そうじゃなくて……対応策はあるはずだろう? 一人で行動するのを避けるとか。ただでさえ、お前みたいなのは目を付けられやすいんだからな」
「……それって、どういう意味ですか?」
目を付けられやすい? どうして?
尋ねると、何故かクルトは口ごもる。
「だからその……当たり前だが、お前の見た目が男っぽくないというか……」
その答えにわたしは耳を疑った。
「そんな理由で? うそ。だって、孤児院にいた頃は、そんなことで苛められた男の子なんて、いなかったのに」
「……それは、この場所が『男子校』だからだ」
「あ、わかった。さては、可愛い子の気を引くためについ苛めたくなってしまうという、男子にありがちのアレですね。でも、ここには女子がいないから、代わりに女の子みたいなわたしに対して、その欲求のはけ口を求めてしまった。わたしの異常なまでの愛らしさが原因の一端だと」
「暢気におかしな分析をしてる場合じゃない。お前はもっと危機感を持つべき」
クルトは呆れたように言い放つ。
「これから先、また同じようにあいつらに絡まれる可能性があるんだぞ。さっきだって、もう少しでお前が女だって事がばれてたかもしれなかったんだ」
そこでわたしは先ほどの事を思い出して、改めて血の気が引く思いがした。
「ねえクルト、わたしの性別の事、本当はみんなから不審に思われてるのかな……? だから、ハンス達もあんなこと……」
「まさか。あいつらだって本気で言ってない。絡む理由が欲しかっただけだろう」
「えー、なにそれ。それじゃあ本当に、わたしの見た目が原因で? 男子校ってめんどくさいなあ……なんだか疲れる」
思わず溜息を漏らすわたしだったが、悩む暇無くクルトに腕を引かれ、教室へと連れ戻された。
結局その日は何かのはずみで包帯が解けるんじゃないかと気が気でなく、神経をすり減らして過ごすはめになってしまった。
夕方、疲れきったわたしが自室のソファで寝転がっていると、ドアの開く音がして
「行儀が悪いぞ」
というクルトの声が降ってきた。
しぶしぶ起き上がると、彼がなにか放り投げてきたので、反射的に受け止める。
柔らかな感触に手の中を見ると、それは真新しい白いマフラーだった。
「お前のマフラー、穴があいてもう使い物にならないんだろう? だったらそれをやる」
「……これ、どうしたんですか?」
「つい今しがた街で買ってきた」
「今日は日曜日じゃないのに、よく外出できましたね。一体どんな言い訳を使ったんですか?」
「別に何も言っていない。散歩している時にいい枝振りの木をみつけたから、それを伝って塀を乗り越えたんだ」
「ずいぶん大胆なことしますね……あれ? でも、それで出るのはいいとして、どうやってまたここに戻ってきたんですか? 塀の外にもちょうどよく木が生えてるとか?」
そう問うと、何故かクルトは目を逸らした。
「それは……別にどうでもいいだろう?」
「えー、教えてくださいよ。わたしも普段から街に行きたいです。お菓子屋さんに行きたいです」
「お前には真似できない方法だ。だから知ったとしても無理だろう。やめておけ」
一体どんな方法なんだろう。気になったが、クルトは話してくれるつもりはないらしく、話題を変えるようにマフラーを指差す。
「ともかく、今朝も言ったとおり、お前の結んだ変な形のリボンを見てると美意識が傷つくんだよ。かといって、俺が毎日結び直すわけにもいかないだろう? だからそれを買ってきたんだ」
また美意識が顔を出した。そんな些細な事で傷つくようでは、そのうち何かの拍子に粉々に砕け散ってしまうんじゃないだろうか。
それにしても――
手元のマフラーに目を落とす。白いマフラーは柔らかくてふわふわしている。こんな上等そうなもの、本当に受け取っていいんだろうか。
躊躇っていると、クルトが不思議そうな顔をする。
「どうしたんだ? 気に入らないのか?」
「いえ、そうじゃなくて、なんだか申し訳ないというか……ほんとにわたしが貰ってしまっていいんですか?」
「お前がそれを身につけないと、これから毎日俺の美意識が傷つけられることになるんだぞ。それに対しては申し訳ないと思わないのか? それとも少しもそんな気持ちがないと?」
「えっ、別にそういうわけじゃ……」
「それなら決まりだな。素直に受け取れ」
クルトは強引に話を纏めると満足げに頷く。
なんだか前にも似たような事があったような気がする……そうだ。確かパンの耳を食べる食べないの話になったときも、こんなふうに納得させられてしまった。
でも、どうせ新しいマフラーを買わなければと思っていたから、正直嬉しい。折角だし貰っておこうかな。クルトの美意識に感謝して。後でヴェルナーさんに貰った鈴も付けておこう。
そう思って首元にぐるりとマフラーを巻くと、それを見たクルトが頷く。
「うん。まあまあだな」
そこはお世辞でも「似合ってる」だとか言うべきじゃないのかな。