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六月と蒼い月  作者: 金時るるの
六月と鳥の心臓
18/84

六月と鳥の心臓 3

 ヴェルナーさんの目が冷たく細められたのを見て、わたしは慌てて胸の前で両手を振る。


「あ、あの、壊すと言っても、正確には型を取った後に、ということなんですが……」


 しどろもどろになりながら説明する。


「……『ここに来なくなったら作品を壊して欲しい』だなんて、完成できない事が前程であるような言い方じゃありませんか? あらかじめこのアトリエに来られなくなる事が予想できているのなら、なんとかして作品を完成させようとするはず。それが難しそうだと感じたら、諦めて自分で壊すと思うんです」

「……だが――」


 ヴェルナーさんが口を開く。


「彼が突然ここに来られなくなった可能性だってあるだろう? 作品を完成させる気はあったが、それが叶わなかった時のための保険として『壊してくれ』と言ったのでは?」

「わたしも最初そう思ったんですけど……でも、よく考えたらそれ自体おかしくありませんか? 自分の家ならともかく、ここはヴェルナーさんのアトリエなんですよ。そこに未完成の作品を残していくなんて、他人の家に自分の荷物を置きっぱなしにするようなものだと思うんですが。たとえ処分して欲しいと言われていても、家の持ち主も困ってしまいますよね。それが親しい相手なら特に。現にヴェルナーさんだって、この作品を壊せずにいたわけですし。普通ならそんな迷惑を掛ける様な事は避けるはずです。それなのにエミールさんはこの作品をここに残していった。もしかすると、エミールさんの目的は、本当にこの作品を『壊してもらう』ためだったんじゃないでしょうか?」

「……一体なんのために?」

「それは、実際に壊してみないとわかりませんが……でも、ただ壊すというのも心苦しいので、せめて石膏か何かで型を取ってから、と思って……」


 言いながらわたしの声は小さくなる。

 もしもこの推測が間違っていたら。壊しても何もわからなかったら……そうしたらこの作りかけの作品は永遠に失われ、わたしはまたヴェルナーさんを傷つけてしまう事になるんじゃないだろうか。

 そう考えると急に怖くなった。


「……あの、でも、あくまでわたしがそう思っただけなので、間違っている可能性だってあるし……やっぱり、今の話は聞かなかったことにしてください。すみません……」


 消え入りそうな声で俯くわたしを、ヴェルナーさんはつかの間みつめていたようだったが、やがて布の掛けられた塑像台に顔を向ける気配がした。


「……いや、やってみよう」

「え? でも、いいんですか?」


 顔を上げるわたしにヴェルナーさんは頷く。


「……ああ。きみがそう言うのなら、試す価値はあると思う」






 塑像台に掛けられていた布を取り去ると、粘土の塊が現れた。それは羽を休めて蹲る鳥のような形をしていた。

 ヴェルナーさんが頻繁に霧を吹き、上に掛ける布も湿らせていたんだろう。粘土の表面は乾燥する事もなく、適度に柔らかい状態に保たれていた。

 それを半分に分けるように、ヴェルナーさんは手際よく粘土に切金を刺していく。それが終わると、水に溶いた石膏を、粘土の表面に筆で薄く塗る。

 わたしも何かしたかったが、もしも変に手を出して切金が曲がったり、石膏に気泡が入ってしまったら……と考えると、何も出来ずにただ見守るしかなかった。

 その後に、もったりした石膏を厚く盛っていくことになるが、それなら手伝えるはずだ。

 二人で分担して石膏を盛り終わると、それが固まるまで待つ。


「エミールは、庭に時々来る鳥が好きだと言っていた。この作品も、それを模したものかもしれないな」


 それを聞いてわたしは思い切って尋ねてみる。


「あの、エミールさんって、どんな人だったんですか?」


 もしかして辛いことを思い出させてしまうのでは、とも考えたが、意外にもヴェルナーさんは気にする様子もなく、少し遠い目をして口を開く。


「そうだな……弟のようだった、というのは以前話したと思うが、そう感じさせるような安心感をがあったし、一緒に過ごしていても気を張らずにすんだ。そういえば、クラウス学園に入学する予定だとも言っていた。病気がよくなっていれば、君達と同級生になっていたかもしれないな」


 ということは、生きていればクルトと同じ16歳か。

 ヴェルナーさんのために自分の肖像画を塗り潰した少年。本当の彼はどんな顔だったんだろう。機会があれば逢ってみたかった。


「……それに、どことなくきみに雰囲気が似ていたように思う」

「わたしに?」


 意外な言葉に瞬きするわたしに対し、ヴェルナーさんは続ける。


「髪の色が近いという事もあるかもしれないが……物怖じしない性格、というのかな。俺はこの通り愛想がないし、他人からはあまりいい印象を持たれないことが多い。肖像画を描くのをやめてからは尚更。けれど、ここで絵を教えて欲しいだとか、粘土で彫刻をしたいだとか言い出して、実際に行動に移したのは君と彼くらいだろうな」

「えっ、でもヴェルナーさんって、女の人にすごく人気があったって聞きましたけど」

「……そういう意味ではなくて……というか、一体誰からそんな話を聞いたんだ……」


 ヴェルナーさんは溜息をつくと、小さく首を横に振る。


「……そろそろ石膏が固まった頃だろう。粘土から外してみよう」






 切り金の部分にヘラを差入れ、テコの要領で力を込めると、石膏型は難なく粘土から外れた。

 ここからが問題だ。

 ヴェルナーさんは一瞬躊躇う様子を見せた後、剥き出しになった粘土の塊をヘラで少しずつ削り取っていく。

 その様子を見守りながら、わたしはごくりと喉を鳴らす。

 お願いだから何か見つかりますように。

 祈るような気持ちでヴェルナーさんの手元を見つめる。


 ――それからどれくらい経っただろう。

 塑像台の上に残ったのは、いくつもの細切れの粘土と、芯棒として使われていたらしい布の巻かれた小さな木片。

 それだけだった。


「これで、全部……?」 


 わたしは声を絞り出す。

 いくら塑像台の上を見回しても、他には何もない。


 うそ……どうしよう……

 ヴェルナーさんは何も言葉を発する事なく、塑像台の上にじっと目を落としている。

 わたしはまた、この人に対して取り返しのつかない事をしてしまったんだろうか? この人の大切にしているものを滅茶苦茶にしただけだなんて。どうして「壊してみないか」なんて言ってしまったんだろう。こうなってしまう可能性だって充分あったのに。

 謝らなければ、と口を開きかけたその時


「……妙だな」


 ヴェルナーさんが呟く。

 見ると、彼は芯棒を手に取り、その表面に巻かれた布を指でなぞっている。


「ふつう芯棒には棕櫚(シュロ)縄を巻いて使うものだが……こんな素材の布を巻いても粘土が上手く付かないはずだ。だからひび割れが出来てしまったんだろうが……」


 その言葉につられて彼の手元を覗き込むと、なるほど、木片に巻かれた布には粘土が引っかかるような起伏がない。


「……その芯棒、わたしにもよく見せて貰えませんか? お願いします」


 そうしてヴェルナーさんから手渡された芯棒を、わたしはくるくると回しながら観察する。

 指の太さほどの幅の布が、長方形の木片の側面に隙間なく幾重にも巻かれている。見た感じ普通の布のようだが、どうしてこんなものを使ったんだろう。

 顔を近づけると、布からゴムのような独特の臭いがした。この臭い、どこかで……

 その臭いの正体に気付いて、わたしははっと顔を上げる。


「もしかして、この芯棒に巻かれている布って、ゴム引き布じゃありませんか? ほら、レインコートなんかに使われている……」

「……何故、そんなものを?」

「たぶん、防水のためです。芯棒を粘土による湿気から守るために、防水性のあるゴム引き布を何重にも巻いたんです。でも、木片を守りたかったなら全体を布で覆うはずなのに、側面だけに布が巻かれて、上下の面は木がむき出しになっています。だから、保護したいのは木片とゴム引き布の間……もしかしたらそこに何かがあるんじゃないでしょうか? あの、ナイフを貸してもらえませんか? この布を切ってみたいんです」

「それなら俺がやろう」


 ヴェルナーさんは芯棒を取り上げると、布の結び目にナイフを差し入れて力をこめる。

 ぶつりと切れた箇所から手際よく巻き取っていくと、やがて布の下から白いものが現れた。

 細長く折りたたまれた紙だ。それが木片に巻きつけられていたのだ。

 慎重に紙を広げると、中に何か書かれていた。


「これって、似顔絵……?」


 わたしは思わず声を上げる。 

 そこには髪の長い男性の顔が描かれていた。その横にエミールとサインが入っている。


「これ、ヴェルナーさんの顔です」


 決して上手とは言えなかったが、モデルの特徴をよく捉えた、どこかあたたかみを感じる絵だった。

 それをじっと見つめながらヴェルナーさんが呟く。


「……自分の顔さえわからない俺のために、エミールが描いてくれたんだな」


 その瞳に、ふわりと柔らかいものが広がっていくような気がした。

 わたしには想像もつかないが、自分の顔が認識できないというのは、きっと辛いことなんだろう。ヴェルナーさんが自分の顔を知るには、誰かに肖像画や似顔絵を描いてもらうしかない。けれど、彼にはそれができなかった。自身が肖像画家であるがゆえに、顔がわからないという事実を隠さなければならなかったからだ。

 それを知っていたエミールさんだけが、ヴェルナーさんの事を思い、この似顔絵を描いたのだ。


「自分で確かめる事はできないが、きっとこの似顔絵は俺に似ているんだろう」

「ええ、とてもよく似ています」


 わたしは頷く。

 似顔絵の中の彼は、わたしが見たことのない優しそうな笑顔を浮かべていた。エミールさんと話す時にはこういう顔をしていたんだろうか。

 ヴェルナーさんは自分の事を「愛想がない」なんて言っていたけれど、これを見ると、そんなのは何かの間違いなのではと思えてくる。


「だが――」


 ヴェルナーさんはふと顔を上げる。


「どうして彼は、この絵をわざわざこんなところに隠したんだろうか」

「それは……」


 わたしは少し考えてから答える。


「きっと、恥ずかしかったからだと思います」

「……恥ずかしい?」

「だって、肖像画家に本人の似顔絵を送るなんて、すごく勇気がいることですよ。たとえば、一流の料理人に対して手料理を振舞うようなものだと思うんです。自分の未熟な部分が相手には全部わかってしまうんですから。だから直接渡せなかったんじゃないんでしょうか。わたしだって、ヴェルナーさんの前でデッサンするのは、とっても緊張します」

「俺は、そんな大層な人間じゃないのに」


 そんな事ないと言いたかった。でも、わたしは彼について深く知っているわけではないのだ。そんな自分がどんなに言葉を尽くしても、薄っぺらいだけだろう。

 だから、何も言えなかった。

 暫くの沈黙の後、似顔絵から目を上げたヴェルナーさんがわたしに向き直り、正面からまっすぐに見つめる。


「俺ひとりではきっとこれを見つける事はできなかっただろう。きみがいてくれてよかった。ありがとう、ユーニ」


 そう言って微かに笑みを見せた。





「ただいまー」


 寮の自室のドアを開けると、先に帰っていたクルトが怪訝そうな顔をこちらに向ける。


「なんだ。お前だけか」

「どういう意味ですか?」

「いや、てっきり猫でも一緒に入ってきたのかと……鈴の音がしたから」

「ああ」


 この学校ではネズミ駆除のために何匹かの猫が飼育されていて、みんな鈴の付いた首輪をしている。クルトはその事を言っているのだ。

 わたしがマフラーの端を持ち上げると、銀色の鈴が揺れて涼しげな音がする。


「これ、ヴェルナーさんから貰ったんです。音でわたしだって事がわかるように」

「なるほどな……それで、どんな絵を描いたんだ? 見せてくれよ」


 クルトはわたしの手にしている筒状に巻いた紙に目を向ける。


「あんな素晴らしい画家に教えてもらったんだ。さぞかしいい絵が描けたんだろうな」

「え、ちょっと、そうやって期待値を上げるのはやめてください」


 言いながら、わたしはデッサンの描かれた紙をおずおずと広げてみせる。

 クルトはそれをつかの間難しい顔で眺めた後、口を開く。


「……いびつなボールに棒が刺さっている」

「それは林檎です」

「え……?」


 クルトが絶句してしまったので、わたしは慌てて説明する。


「こ、これは仕方がないんです。今日はあんまりデッサンする時間がなかったんですよ」


 ヴェルナーさんのアトリエに、エミールさんの作りかけの作品があったこと、その中から彼の描いた似顔絵が出てきたことなどを話す。


「そんなことがあったのか。それで、ヴェルナーさんの様子はどうだったんだ?」

「うーん……似顔絵をみつけてからは、少し元気になったように感じました。また絵を教えてくれるって約束したんですよ」

「ふうん、それならよかった、と言えるのかな……それにしてもお前、ヴェルナーさんに絵を習ったりして、将来画家にでもなるつもりなのか?」

「そ、そういうわけじゃないですけど……」

「たまに落書きする程度でなれるようなものだとは思えないけどな」

「わかってますよ……」


 そもそもあの人が、どういうつもりでわたしに絵を教えてくれる気になったのかはわからない。些細な気まぐれかもしれない。けれど、それでも構わない。少なくともわたしがそうやって絵を習っている間は、彼が「絵を描くのをやめる」と言わないのでは、と思ったのだ。手紙を書いたのだって、それが目的だったのだから。

 そんな理由で絵を習うなんて不純だろうか? 芸術に対する冒涜だって、誰かに怒られるだろうか?


「でも、その割にはお前って、意外と美術関係のことに詳しいよな」

「それは……孤児院にいた頃、わたしのいわゆる『兄』の一人が画家を目指していたので、その影響だと思います。でも、全部聞きかじりなので、そんなに深い知識はありませんよ」

「だから絵も上手くないのか」

「その発言は余計です!」


 わたしは自分の描いたデッサンに目を落とす。次回もこの続きを描けたら一番いいのだが、モチーフにしていた林檎が傷んでしまいそうだったので、これで完成とせざるを得なかったのだ。

 でも、それを差し引いてもそんなに下手なんだろうか……

 真剣に、林檎の角を探してみようかな。 

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