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六月と蒼い月  作者: 金時るるの
六月と鳥の心臓
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六月と鳥の心臓 2

約束の時間より少し前に、アトリエのドアを叩くと、ほどなくしてヴェルナーさんが顔を出す。


「ヴェルナーさん、おはようございます。ユーニです」


 念のため自分の名前を名乗ると


「……ああ」


 それだけ答えた彼に、中に入るよう促される。

 こっそり様子を伺うが、変化のないその表情から、先日の件が彼にどんな影響を及ぼしたのかを伺い知る事はできない。ヴェルナーさんがこれからも絵を描き続けるのかどうか、気になってはいたが直接聞く勇気もなかった。


「あの、絵を教えていただけるという事で、これ、授業料の代わりです」


 曖昧な空気を打ち破るように、途中で買ってきた果物の入った紙袋を渡す。

 なんだかこの人の前だと緊張してしまう。ほとんど表情が変わらないから、もしかして怒っているんじゃないかと不安になるのだ。

 孤児院にもそういうきょうだいは存在したが、やはり大人と子どもでは全然違う。それに、ヴェルナーさんみたいな年上の男の人に対して、同じような対応をするわけにはいかないだろうし……

 ちらりと袋の中に視線を向けたヴェルナーさんは


「そんな事、気にしなくてもいいのに……だが、ちょうどいい。今日はこれを使う事にしよう」


 そう言って、紙袋を持ち上げた。






 テーブルの上にはレンガが二つ。それを半分覆うように折りたたんだ布が掛けられ、その上にわたしの持ってきた林檎が載っている。それをモチーフにデッサンする事になったのだ。

 構図を決めてイーゼルの前に腰掛けると、わたしは木炭で絵を描き始める。

 ヴェルナーさんはわたしの斜め後方に椅子を置き、そこで本を読んで時間を潰しながら、時々デッサンをチェックするようだ。


 こ、これは緊張する……常に見られているわけではないとはいえ、あんな素晴らしい風景画を描くような画家が、ずっと自分の後ろにいるのだ。変な汗が出てきそうだ。

 そのせいなのかはわからないが、中々上手くモチーフの形が取れない。ただでさえ学校の美術の授業だって得意じゃないのに。

 描いたり消したりを繰り返していると、ヴェルナーさんが立ち上がり、棚から何かを持ってくる。


「これを貸そう。俺が昔使っていたスケールだ」

「……スケール?」


 手渡されたそれは、広げた掌くらいの大きさ。長方形の木枠の中に縦横各三本の黒い糸が格子状になるよう等間隔にぴんと張られている。


「その木枠を通してモチーフを覗くんだ」


 言われるままにスケールを顔の前方にかざすと、糸でできた黒いマス目の向こうにモチーフが見える。


「それは紙と同じ比率で作られているから、こうやって……」


 そう言うとヴェルナーさんはわたしの手から木炭を取り上げ、スケールの黒い糸と同じような間隔で紙に薄く格子状に線を引く。


「線を引くとスケールを拡大したものと同じになるだろう? この線とスケールの糸を照らし合わせれば、モチーフの正確な形が取りやすくなる」

「ああ、なるほど……」 

「ただし、あまりこれに頼りすぎてもデッサン力が身に付かないから、ある程度慣れたら使わないほうがいい」

「はい、わかりました」


 モチーフをスケールで覗きながら、言われた通りスケールと同じ位置になるよう紙に線を取っていく。確かに形が取りやすい。というか、見える通りに線を引いていくと、いつの間にかそれなりの形になっている。

 スケールに頼りすぎるのはよくないという言葉もわかる気がする。自分の目でモチーフを見て描くというよりも、スケールから見えた通りに線を引くという作業になっているのだ。しかも何も考えずともそれなりの形になる。これは人を堕落させる恐ろしい道具かもしれない。


 ともかく、そのおかげでなんとかモチーフの形は取れたものの、今度は質感が上手くいかない。林檎なんて棒の刺さったいびつなボールのようだ。

 もうデッサンを始めてからどれくらい経ったんだろう。そろそろお腹が空いてきた。

 わたしは傍らに置いてあった修正用のパンから耳の部分を剥がすと、丸めて口に放り込む。

 すると、背後から小さな忍び笑いが聞こえた。

 慌てて振り返ると、ヴェルナーさんが俯いて咳払いをするように口元に手を当てていた。

 もしかして、今の見られていた? いつもの癖でついやってしまったけれど、変に思われただろうか。


「あの、ヴェルナーさん、今の……」


 おそるおそる声を掛けると、ヴェルナーさんが顔を上げる。


「……ああ、いや、同じ事をするんだなと思って」

「え?」

「俺も昔よくやっていた……パンの耳」

「ほんとですか?」

「ああ。冬はストーブで少し炙ると美味い」

「あ、それは確かにおいしそう!」


 なんだ。みんな食べているんじゃないか。やっぱりクルトが少し気にしすぎなのでは。


「クルトはやめろって言うんですよ。使い終わったら棄てるものなんだから、ゴミを食べているも同然だって」

「……まあ、そう考える人間もいるだろうな――そういえば」


 ヴェルナーさんが何かを思い出したようにこちらを見る。


「きみから貰った手紙。あれの住所を見て気づいたんだが、きみ達はクラウス学園の生徒なのか?」

「はい、そうです。クルトとは寮で一緒の部屋なんですよ」

「そうか……それならやはり俺の思い違いだったんだな」

「なにがですか?」


 問い返すとヴェルナーさんはちょっと目を逸らす。


「……気を悪くしないで欲しいんだが……初めて君を見たとき、てっきり女の子だと思った」

「え?」

「でも、服装は男の子そのものだったから、やはり違うのではと思い直した」

「ええと……わたし、ときどき間違えられるんですよ。女の子みたいに愛らしいって事ですかね。あはは……」


 性別の事がばれたのかと一瞬焦ったが、彼の口振りから察するにそうではないようだ。

 しかし、よく考えたらヴェルナーさんは人の顔が判別できないはずだ。どこを見てわたしの事を女だと思ったんだろう。もしかして、その部分をもっと上手く隠すことができれば、今以上に性別を誤魔化せるんじゃないだろうか。

 そう思って尋ねてみることにした。


「あの、ヴェルナーさん。参考までにお聞きしたいんですが、わたしのどのあたりが女の子みたいだったんですか?」

「骨格だ」


 あ、それは自分ではどうしようもできない。


「それもあって、君が本物の女性と入れ替わっていても判別できなかったんだが……」


 ヴェルナーさんはわたしの全身にちらっと目を走らせる。


「だが、男子校に女の子がいるわけがない。俺の勘違いなんだろう」


 よかった。ヴェルナーさんが疑り深い人じゃなくて。

 それにしても――と、わたしはヴェルナーさんの顔をちらりと見上げる。

 この人、案外普通に話してくれるんだな。無口で少し怖い人かと思っていたけれど、本当は違うのかも……

 そんな事を考えていると、ヴェルナーさんが手にしていた本を閉じて椅子から立ち上がる。


「そろそろ昼食にしよう。パンの耳だけでは足りないだろう?」





 ヴェルナーさんに連れられてアトリエを出る。しばらく歩くと賑やかな市場にぶつかった。

 食品や日用品を扱う屋台がずらりと立ち並び、ひっきりなしに大勢の人が行き交う。

 この街にこんなところがあったなんて知らなかった。物珍しさに、ついきょろきょろと周りを見回してしまう。


「そういえば、さっき――」


 隣を歩くヴェルナーさんが口を開く。


「林檎を描くのに苦戦していたようだが……」

「あ、わかりました? 簡単そうなのにすごく難しくて……全然林檎らしく見えないんですよ」

「角を探すといい」

「……かど? 林檎のですか?」

「そうだ。林檎の表面は滑らかな曲線を描いているように見えるが、その実、連続した角の集合体だ。絵にしろ彫刻にしろ、林檎の角を表現する事ができれば一層本物らしく見える」


 どうしよう。何を言っているのかわからない……林檎は丸いものじゃないのか。角って一体何のことなんだろう……


「ええと……」


 どう返していいかわからずわたしが曖昧に言葉を濁すと、ヴェルナーさんもそれを察したようだ。


「まあ、焦らなくていい。描いているうちにわかる事もあるし、わからなくても、いつの間にか描けている事もある」


 わたしは果物を売る屋台に目を向ける。山のように積みあがっているたくさんの林檎。確かにそれぞれ形は違うが、どれも丸くて角なんてあるように見えない。ヴェルナーさんには見えるんだろうか。不思議だ。

 前方に視線を戻そうとして、ふと、隣の屋台が気になった。雑貨や小物類を扱っているようだが、その中の一つの品に目が留まる。


「あの、ヴェルナーさん、これ……」


 わたしはヴェルナーさんを呼び止めようと振り返る。

 だが――


「あれ? ヴェルナーさん?」


 慌てて辺りを見回すも、どこにも彼の姿はなかった。


「え、うそ……」


 もしかして、はぐれてしまった……?

 どうしよう……走って探したほうがいいだろうか。いっその事アトリエまで戻って――

 そこまで考えて、慌てて頭を振る。

 ……いや、落ち着くんだ。こういう時はその場から動かないほうがいい。ヴェルナーさんだって、わたしがいない事に気付いたら、きっともと来た道を戻ってきてくれるに違いない。彼がわたしを見つけるのは困難かもれないが、わたしから彼を見つける事はできるはずだ。だって、あんなに目立つ容姿をしているんだから。 


 わたしは近くの屋台で林檎飴を買うと、道の端っこに移動する。

 もしかしたらすぐに逢えるかもしれないし、そうでないかもしれない。もしもの場合に備えて体力を温存するのだ。

 道行く人の顔を確認しながら、がりがりと林檎飴を齧る。甘くておいしい。飴になっても、やっぱり角はわからないけれど。

 そうやって林檎飴の三分の一ほどを消費したとき、遠くで何かが光ったような気がした。

 人目を引く銀色の髪の毛が、陽の光を反射している。

 ゆっくりと、時に立ち止まりながら、人ごみの中からヴェルナーさんが歩いてくるのが見えた。


「ヴェルナーさん!」


 手を振りながら駆け寄ると、彼もこちらに気付いたようだ。


「ここにいたのか……すまない。君も知っての通り、俺は顔以外で人を判別しているから、ひとりひとり確認しながらここまで来るのに時間が掛かってしまった」

「いえ、わたしの方こそ、ついよそ見をしていて……あ、そうそう、ヴェルナーさん、ちょっとこっちに来てください」


 ヴェルナーさんを先程の屋台の前まで引っ張っていく。


「これを見てたんです」


 わたしが指差す先には、紐からぶら下がった大量の鈴。


「これを身につけていれば、ヴェルナーさんが音でわたしのことを判別できるんじゃないかと思ったんですが……どうでしょうか?」

「……なるほど。いい考えかもしれない」


 そう言うと、ヴェルナーさんは鈴の束を手に取り、大小さまざまなそれを選別していく。

 やがてその中から一つを選び出し、わたしの前にぶら下げる。


「これがいい」


 それは親指の爪くらいの大きさの銀色の鈴だった。表面には波のような模様が刻印されていて、赤い紐がついている。


「わあ、きれい。これ、素敵ですね」


 やっぱり芸術家だけあって、こういうものを選ぶセンスもあるんだろうか。

 財布を取り出そうとすると、それをヴェルナーさんが制す。


「俺のための鈴なんだろう? だったら俺が」


 そう言うとさっさと代金を払ってしまう。

 いいのかなと思ったが、目の前に差し出された鈴は鈍い輝きを放っていて魅力的で、わたしはつい受け取ってしまった。


「あの、ありがとうございます!」


 早速マフラーの端に結び付けようとするが、片手に持った食べかけの林檎飴が邪魔になって上手くできない。


「俺がやろう」


 ヴェルナーさんがわたしの指から鈴を取り上げ、マフラーを手に取る。


「あ、す、すみません……」

「……ここに付ければいいんだろう?」


 そう言うとマフラーの編み目の間に器用に紐を通し、鈴を括り付けた。

 マフラーが揺れてちりんと涼しげな音がする。


「ヴェルナーさん。鈴の音、ちゃんと聞こえますか?」

「……ああ。よく聞こえる」


 彼の答えに、わたしはなんだか嬉しくなって、ついマフラーを振り回した。







 昼食を済ませてアトリエに戻ると、粘土槽の横にある、布を掛けられた塑像台が目に入った。

 これ、この間もここにあった。

 ふと気になって、上に掛けられている布をそっとめくる。掌くらいの粘土の塊。この間と同じところにひび割れが見えた。


「……それに触るなと言っただろう?」


 ヴェルナーさんの冷ややかな声が聞こえ、慌てて布から手を離す。


「す、すみません……」


 二、三歩後ずさってから、わたしは躊躇いがちに尋ねる。


「あの、もしかして、この粘土の作品って、エミールさんが作ったものですか?」


 その言葉に、ヴェルナーさんが少しだけ目を瞠る。


「……何故、そう思ったんだ?」

「ええと……これ、この間見たときと同じ場所にひび割れがありました。それってたぶん、最初に粘土を荒付けする段階で、付け方が甘かったために、自重で割れてしまったんじゃないかと思ったんですが……ヴェルナーさんみたいな美術経験者だったら、そんな初歩的な失敗をするわけがないだろうし、それに、これくらいのひび割れだったらすぐに修正できるはず。なのに、それをせずにそのままになっています。だから――」


 わたしは唇を舐める。


「これを作ったのは、それまで粘土を扱ったことのない素人で、現在はひび割れを修正する事の出来ない何らかの理由がある。そして、このアトリエにある程度自由に出入りできた人物……そう考えるとエミールさんかなと……」


 わたしの言葉が途切れた後、暫くの間を置いてヴェルナーさんが溜息をつく。


「……きみにはそんな事もわかってしまうんだな」


 そう言って塑像台の上にそっと手を置く。


「確かにこれはエミールが作ったもの。だが、未完成だ。これを作っている最中、彼はよく、自分がここに来なくなったらこの作品を壊してくれ、なんて言っていた。今思えば、自分の命が長くない事をわかっていたんだろう。けれど、俺は何かの拍子に彼がまたこのアトリエに現れて、この作品の続きを作るんじゃないか、なんて馬鹿なことを考えて、ここに残したままにしてしまっている」


 ヴェルナーさんは口を噤むと目を伏せる。

 そんな理由があったなんて……

 おそらく、この作品は彼の元に残ったエミールさんとの唯一の繋がりなんだろう。だから「壊してくれ」と言われてもそれを実行できずにいるんじゃないだろうか。


 でも、なんだろう、なにか違和感がある……

 わたしはいつもの癖で、左目の下に指で触れる。

 どうしてわざわざそんな事を言ったんだろう? 何か理由があったんだろうか? ……考えすぎかもしれない。でも、もしかして――

 気がつくとわたしの唇は声を発していた。


「ヴェルナーさん」


 呼びかけると金色の瞳がこちらを向く。


「……その作品、壊してみませんか?」

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