六月と鳥の心臓 1
「おい、今度の日曜日……」
言いかけて寝室に入ってきたクルトは、ベッドに腰掛けるわたしの手元を見て動きを止める。
「まさか、それ、お前、また……」
「それ……って、このパンの耳のことですか? 美術の授業で余ったものですけど」
そう言って紙袋から取り出したきつね色の物体を、指で挟んでぶらぶらと揺らす。わたしの今日のおやつだ。
「やっぱり……前にも言おうと思ってたが、そんなもの食べるのはやめろ」
「そんなものって……ひどいなあ。どうしてですか?」
「どうしてって……それは元々授業が終わったら捨てられるはずのものだろう? つまりゴミも同然。ということは、お前はゴミを食べているも同然なんだよ! ああ、なんて恐ろしい……」
言いながらクルトは口元を手で覆う。自分で想像しておいて気分が悪くなってしまったようだ。
「でも……」
わたしは手元の紙袋に目を落とす。
「ゴミはこんなにおいしくないですよ」
「まるでゴミを食べた事があるかのように言うのはやめてくれ!」
「食べた事ありま――」
「やめろ! それ以上言うな! 聞きたくない!」
そう叫ぶと、クルトはすごい勢いで部屋から出て行ってしまった。
わたしは閉まったドアから目を離すとパンの耳を齧る。
うーん……クルトって少し潔癖症のけがあるような気がするなぁ……前に食べてた時も嫌そうな顔してたし。
でも、クルトはゴミだって言うけれど、いたって普通のパンの耳だし、味だっておいしい。ただちょっとだけ、木炭の粉が付着して黒いだけで。
そう考えながらパンの耳を頬張っていると、今度は勢いよく音を立ててドアが開く。
びっくりして目を向けると、両手に何かを抱えたクルトが立っていた。走ってきたのか肩で息をしている。そのままつかつかと近づいてくると、その手に抱えていたものをわたしの膝の上にどさりと乗せる。
「うわっ、な、なんですか?」
積み重なって崩れそうなそれを、慌てて手で押さえる。
見ればそこにあったのは、キャンディやらビスケットやらの大量のお菓子だった。
「……これ、どうしたんですか?」
「売店で手当たり次第買ってきた。何がいいのかわからなかったからな。それ、全部お前ににやろう。これからもお菓子が食べたい時は俺が買ってやる」
「え?」
訝しがるわたしの目の前で、仁王立ちしたクルトが告げる。
「だからパンの耳なんて廃棄物を食べるのはやめろ」
まさかそれだけのために、こんなに大量のお菓子を……?
「そ、そんなに嫌だったんですか……? だったらわたし、パンの耳は我慢しますよ。断腸の思いで」
「そんなことを言って、俺の見ていないところでまた食べるつもりだろう!」
「それはまあ、食べますけど……でも、見えないなら問題ないでしょう?」
「だめだ! 見える見えないに関わらず、近くにいる人間があんなものを食しているという事実だけで、俺は耐えられないんだ!」
そ、そこまで……?
「でも、そんなのは俺の身勝手だともわかっている。だからこうやって代わりのものを提供しようというんだ。不満か?」
「別に不満というわけじゃ……」
「それじゃあ決まりだな」
クルトはなかば強引に話を纏めると満足げに頷く。
少し見た目の悪いパンの耳を食べるか食べないかだけでこんなに大騒ぎするなんて……もしも孤児院でのわたしの生活がどんなものだったかを知ったら、クルトは卒倒してしまうのではなかろうか。
これからは細心の注意を払ってこっそり食べよう……
そう考えながらパンの耳の入った紙袋をベッドの下に押し込んだ。
「そういえば、さっき何か言いかけてませんでした? 日曜日がどうとか」
貰ったお菓子の中にチョコレートの箱を発見し、わたしはさっそく封を開ける。
「……ああ、そうだ。危うく忘れるところだった。今度の日曜日、また俺の家に行くからな」
「そうなんですか? いってらっしゃい……あ、このチョコレートおいしい! まったりとして、それでいてしつこくない……クルトもひとつどうですか?」
「何を言ってるんだ。お前も一緒に行くに決まってるだろ」
「え?」
クルトはわたしの差し出した箱から、チョコレートを一つ摘み上げると口に放り込む。
「……何故だか判らないが、ねえさまからの手紙に、お前に会いたいというような事が書いてあった。お前、ねえさまに何かしたのか?」
「どうしてそんな発想になるんですか。何もしてませんよ……でも、それって、前回みたいな変わった【お願い】を頼みたいとかじゃないですよね? わたし、ああいうのはもう……」
もしも自分のせいで、また罪もない人間を追い詰めるような事になってしまったら……そう考えると、心臓を誰かの冷たい手でぎゅっと掴まれたような感覚になる。
「それは大丈夫だと思うんだが。手紙にはそういう事は特に何も書いていなかったし……だからこうして事前に教えているんじゃないか」
「うん……? ええと、それじゃあ、この間事前に教えてくれなかったのはどうして?」
そう問うと、クルトは少し言いづらそうにしながら口を開く。
「それは……教えていたら、お前に逃げられるんじゃないかと思って……なにしろ、あんなおかしな【お願い】だったからな。普通引き受けたがらないだろう?」
「ええー……断れない状況まで持ち込んだって事ですか? それってちょっと卑怯なんじゃ……」
「言っただろ。俺はねえさまの願いを叶えてやりたいって。そのためにはどんな事でもすると決めているんだ」
クルトをここまで突き動かすものって一体何なんだろう? わたしには絶対にわからない、血の繋がった本当の家族に対する愛なんだろうか?
やり方はどうであれ、そこまで大切に思える家族がいるというのは、やっぱり羨ましい。その様子を見ていると、できるだけ力になりたいとは思うのだが……
「ええと、困ったな……実は、わたしも今度の日曜日は予定があるので……」
「その予定を変更しろ」
「無茶言わないでください。そんな事できません」
「一体何の用事なんだ? ねえさまに会う事より重要なのか?」
「ヴェルナーさんに絵を習いに行くんです」
「……ヴェルナーさんに?」
わたしはあの後、思い切ってヴェルナーさんに手紙を出した。その中で絵を教えて欲しい旨を伝えると、意外にも彼からの返事はそれを了承するものだったので、日曜日に彼のアトリエを訪ねることになっているのだ。
クルトにそう説明すると、彼は腕組みして何か考え込む。
「……それじゃあ、彼はまた絵を描き始めるんだろうか?」
「それはわからないですけど。そんな事、怖くて聞けませんよ……」
もしも「描かない」なんて答えが返ってきたら……想像したくない。
でも、絵を教えてくれるという事は、少しは希望を持ってもいいのかな? とも思う。
「しかし手紙か……俺も彼に出してみようかな。この間は失礼なことを言ってしまったから謝りたいんだが……」
「それなら一緒にヴェルナーさんのアトリエに行きましょうよ。直接謝ったらいいじゃないですか」
「残念だが、それはできない」
「どうしてですか?」
「それをしたら、ねえさまと過ごす時間が減ってしまう」
「え? あ? ああ、うん……それは……確かにそうですね……」
この人は徹底してお姉さんの事を最優先に考えているのだ。なんだかもう感心というか、尊敬してしまう。
「それで、ヴェルナーさんとの約束は何時なんだ?」
「十時ですけど……」
「なんだ。それなら十分じゃないか」
なにが? とわたしが問う前に、クルトはにやりと唇の端を吊り上げた。
「おい、起きろ」
日曜の朝、クルトの声が頭上から降ってきたかと思うと、乱暴に毛布を剥ぎ取られ、わたしはぼんやりと覚醒する。
なんだろう、この既視感……
大きく伸びをしながらベッドに起き上がる。窓の外はやっぱり薄暗い。
「出掛けるぞ」
結局、今日は朝からロザリンデさんと会い、その後ヴェルナーさんのアトリエに行くという事になった。
クルトによってなかば強引にそうさせられたのだが。
「あの……この間も思ったんですけど、どうしてこんな朝早くから出かける必要が……あっ、いえ、やっぱり答えなくていいです。一刻も早くお姉さんに会うためですね。わかってます」
「それなら、どうして早く起きないんだ。お前には学習能力というものがないのか? わかっているのならそれに合わせて支度するのは当然だろう?」
「え……そんな事言われても……すみません」
クルトの言い方があまりに堂々としているので、思わず謝ってしまう。
これってわたしが悪いのかな……?
「四分で支度しろ。隣の部屋で待ってる」
「あれ? この間より一分短くなってませんか? 何かの罰ですか?」
「別に深い意味があるわけじゃないが……前回は五分、今回は四分、そして次回は三分……というように、徐々に時間を短くしていく事によって、最終的には一瞬で着替える事が可能になるんじゃないかと考えたんだ。ちょうどいいからお前で試そうと思って」
「そういうのは自分自身で試してくださいよ……でも、わたしも子供の頃似たような事しました。孤児院の畑に生えてた麻を毎日飛び越えるんです。麻は成長が早いので、毎日飛び越える事によって最終的に脅威の跳躍力が身に付くっていう……」
「それで、どうなったんだ?」
「最初の頃は上手くいってたんですけど、ある日飛び越え損ねて麻を根元から折ってしまって……教会のシスターにすごく怒られて、それっきり……結局跳躍力に変化はありませんでしたね」
それを聞いて、クルトがなにやら考え込む。
「日々成長する植物を飛び越える事によって驚異的な跳躍力を得る……理に適っているように思えるが、意外なところに欠陥が……ということは、俺の理論にも何か問題が……?」
「ああ、そういうのも隣でゆっくり考えてください。わたしはその間に着替えるので」
言いながらわたしはドアを開け放つと、クルトを寝室から押し出す。
ドアを閉める間際、クルトが振り向く。
「今の話で一分無駄にした。あと三分で支度しろよ」
クルトのお屋敷で、またお風呂に入らされた。
もしかして、ここに来るたびお風呂に入れられるんだろうか。と、バスタブに身を沈めながらわたしは考える。お湯には今日もバラの花びらがたくさん浮いていて、綺麗でいい香りがする。
これまで入浴なんて憂鬱なだけだった。でも、この家のものは今まで入ってきたお風呂と全然違う。正直、嫌だという気持ちはあまりなくなっていた。ロザリンデさんとも逢う事だし、念を入れて綺麗にしよう……
入浴を済ませると、この間と同じ部屋に案内され、テーブルについたクルトがお茶を飲んでいた。
その隣には先日のようにわたしの朝食が用意されていたので、遠慮なく頂く事にする。
「ああ、やっぱりおいしい……しあわせです」
マーマレードを塗ったパンを口に運びながら、ついつい頬が緩んでしまう。
もしかして、こんなにおいしい食事や、あんな花びらの浮かんだお風呂が身近にある生活をしているからこそ、パンの耳を捨てても惜しくないと思うんだろうか。
あれ? そういえば、クルトは普段学校のお風呂に入っているみたいだけれど、クラウス学園に入学する前にはあのバラのお風呂に入っていたのかな? うーん……似合わない。それともロザリンデさんの趣味とか……?
クルトは食事をするわたしの姿を見ながら「やっぱり服が……」だとか呟いていた。
わたしは前回ここを訪れたときにクルトが用意してくれた服を着ているのだが、それが彼にとっては
「ねえさまに逢うのに、この間と同じ服を着るなんて失礼だ」
という事らしい。わたしとしては、違う服を着ているとヴェルナーさんがわたしの事を判別できないのではないかと考えて同じ服を選んだのだけれど。
クルトにもそう説明して、彼も納得したはずなのだが、それでも気になるようだ。
食事が済むと、クルトがお茶をいれてくれた。花のようないい香りがする。初めて見るお茶だ。どんな味がするんだろう。と、少し口に含んだ瞬間、広がる香りにわたしはむせてしまう。
「おい、大丈夫か? 一体どうしたんだ?」
咳き込むわたしを見て、クルトが不審そうに声を掛ける。
「クルト、このお茶、シロツメクサの味がします……!」
「は?」
クルトは眉を顰めて自分のカップに口を付ける。
「……普通のジャスミンティーじゃないか」
「え……それじゃあジャスミンとシロツメクサって同じなのかな……?」
「そんなわけがない。お前の舌はどうなってるんだ。大体、シロツメクサなんて口にしたことがあるのか?」
クルトは呆れたように言った後、はっとしたように声をひそめる。
「お前、今の話、ねえさまには絶対に言うなよ。この家にあるお茶は全部ねえさまが自分で選んだものなんだ。それをシロツメクサみたいな雑草の味だとか言われてみろ。どんなに衝撃を受けるか……いいな。言うなよ。絶対だぞ」
わたしが返事をしようと口を開いたその時、部屋のドアの開く音がして、ロザリンデさんが入ってきた。この間と同じように、彼女の腰掛ける車椅子をフレデリーケさんが押している。
クルトが目配せしてくるので、慌てて立ち上がって挨拶する。
「おはようクルト。それにユーニくん、また来てくれて嬉しいわ」
ロザリンデさんはそう言ってふわりと微笑む。
この間も思ったけれど、改めて見ると、とても綺麗な人だ。形のいい眉に薄桃色の唇。透き通るような白い肌は黒髪のせいか一層際立っている。それに加えてほっそりとした体躯のためか儚い感じもする。思わず守ってあげたくなるような、そんな人だった。
クルトが彼女の為に一生懸命になるのもわかる気がする。
ロザリンデさんが近況を尋ねると、クルトは学校での出来事や、授業の内容などを喋る。その様子はいつもの彼とは違い、なんだか少し嬉しそうだ。
そのうち、ロザリンデさんがカップのジャスミンティーを飲み干すと口を開く。
「私、なんだか急にハーブティーが飲みたくなっちゃった。ねえクルト、お庭から採ってきてもらえないかしら?」
「それならメイドに言ってすぐにでも……」
するとロザリンデさんは両手を胸の前で組み合わせて首を少し傾げる。
「違うの。私、クルトが採ってきてくれたハーブがいいの。種類は任せるわ。生えている場所はフレデリーケが知っているから。ね、お願い」
「わかった。今すぐ採ってこよう」
そうして二人は部屋を出ていった。
もしかして、さっきのシロツメクサみたいだって会話、聞かれていたんだろうか? だから違うものを用意してくれようとして、わざわざクルトに頼んだとか……? だったらどうしよう。すごく気まずい……
落ち着かない気持ちでわたしがそわそわしていると、ロザリンデさんがテーブルの下から一冊の本を取り出す。今まで膝の上に置いていたようだ。
「ねえ、ユーニくん、この本知ってる? 私、最近読み始めたんだけれど、とっても面白いのよ」
そう言って表紙を捲ろうとしたところで、指が引っかかったのか、床に取り落としてしまう。
茶色い布張りの本が、ばさりと音を立てた。
「あら、いけない」
「あ、わたしが」
わたしは立ち上がって本を拾い上げると、ロザリンデさんに差し出す。
と、その手首をさっと掴まれる。白くて華奢な指だ。
「あ、あの……?」
戸惑うわたしに、ロザリンデさんはその紫色の瞳をじっと向けて囁く。
「ユーニくん、あなた達、私に嘘をついたわね? あの肖像画の件……」
「え?」
思わず答えに詰まるが、彼女は続ける。
「あの日、あなた達より早く戻ってきたフレデリーケに話を聞いたの。彼女、言ってたわ。ヴェルナーさんが自分とユーニくんの区別が付いていないようだったって。でも、その後帰ってきたあなた達はそんな話まったくしないし……それに、クルトの様子も明らかに変だった。それくらいわかるわ。私はあの子の姉だもの」
どうしよう……本当の事を話したほうがいいのだろうか? でも、ヴェルナーさんの事を考えると、とても言えない。
「ああ、別に怒っているわけじゃないのよ。あなた達がそこまでして隠そうとしているなら、無理に聞こうとは思わないわ。それならどうして? って顔してるわね。実はね――私、ユーニくんに謝りたかったの」
「謝る……?」
首を傾げるわたしに対してロザリンデさんは頷く。
「本当はね、クルトがすぐに音を上げると思っていたの。私、わざとあんな【お願い】をしたのよ。それなのに、あの子は諦めるどころか、あなたまで巻き込んで……ヴェルナーさんにもご迷惑を掛けてしまったみたいだし、私の考えが足りなかったわ。ごめんなさいね」
「わざと? どうしてそんな事……」
その問いにロザリンデさんは小さく首を振るだけだった。どうやら答えるつもりは無いらしい。
「でもね、その反面嬉しくもあるのよ。クルトはね、ここ何年も家にお友達を連れてきたことなんてなかったし、お休みの日だって、殆ど私の傍にいたわ。それに、あの子は私に嘘を付くこともなかったのよ。信じられないでしょ? でも、この間はそれを全部ひっくり返してしまった。これってすごい事だと思わない? 少なくとも私にとってはすごい事なのよ」
ロザリンデさんは小鳥が囀るように楽しげに言葉を紡ぐ。その瞳はきらきらと光っている。
「ユーニくん、あなたがいなかったら、こんな事起こっていなかったかもしれないわ。あなたのおかげなのかもね。ありがとう。お礼を言わせてちょうだい。できれば、これからもクルトと仲良くしてあげてね。あの子、他の人から見るとちょっと冷たく感じるかもしれないけれど、本当はそんな事無いのよ……ああ、それと、この事はあの子に黙っていて欲しいの。私が嘘をついていることに気付いたって知ったら、あの子、きっとすごーく落ち込んでしまうだろうから。ね、お願い」
そう言ってにっこりと微笑むと、そっと手を離した。