六月と顔のない肖像画 4
「まあ、素敵ねえ」
似顔絵を手にしたロザリンデさんが感嘆の声を上げる。
「でも、全然似てない」
紅茶のカップを持ち上げながらクルトが口を挟む。
わたしたちは、今朝と同じ部屋でテーブルを囲んでいる。エルンスト・ヴェルナー氏のアトリエでの出来事を、ロザリンデさんに報告したのだ。
結局、黒く塗り潰された肖像画の真相については判っていないが、ロザリンデさんはにこにこ頷きながら聞いてくれた。
「それにしても綺麗ねえ。私もヴェルナーさんに似顔絵を描いて頂きたいわ」
「わかった。今から俺が頼んでくる」
そう言ってクルトが立ち上がりかけたので、ロザリンデさんは手にしていた絵をテーブルに置いて、両手を顔の前で振る。
「いやだわクルト。冗談よ、冗談」
「本当に?」
「本当よ。だから座って? ね、お願い」
「そうか? それならいいんだが……」
もしかしてロザリンデさんの【お願い】って、クルトが勝手に勘違いしたり拡大解釈してる部分もあるんじゃ……
わたしはテーブルに置かれた似顔絵を手元に引き寄せる。
さっきはクルトが失礼な事を言うからあんな返事をしたけれど、正直なところわたし自身もこの似顔絵は自分に似ていないと思う。髪形や服装は簡単ながらも特徴を捉えているが、肝心の顔が……なんというか、別人のように整いすぎている。クルトの言った通り、ヴェルナーさんが気を遣って美化してくれたんだろうか。
でも――
わたしは左目の下のほくろの辺りに触れる。この絵にはそこにあるはずのほくろも描かれていない。少しでも似せるつもりがあるのなら、こんな判りやすい特徴は真っ先に描くと思うのだけれど。
なんらかの理由で敢えて描かなかった? いや、それとも……
あれこれ考えていると、メイドが紅茶のおかわりを淹れてくれた。それを見て、クルトが何かに気づいたように口を開く。
「ねえさま。新しいメイドを雇ったのか?」
「あら、わかった? 今週からこの家で働いてもらっているフレデリーケよ。少し前に一人辞めてしまったから、その代わりに、ね」
フレデリーケと呼ばれたメイドは、軽く腰を落として挨拶する。その様子を見て、ロザリンデさんは首を傾げる。
「そういえばこの子、ユーニくんに少し似ているかもしれないわね」
言われてみれば、髪の色や背格好が近い。もちろん、目の色や顔の造形に違いはあるが、年齢もわたしとそんなに変わらないような気がする。それなのにしっかりと働いているなんて偉いな……
「二人が同じ格好をしていたら、一瞬どちらがどちらか判らないかも。ふふふ」
「まさか。流石にそれはないだろう」
二人の会話にはっとしたわたしは音を立てて椅子から立ち上がる。その勢いにみんながぎょっとするが、構う事なくフレデリーケさんに近づくと、その手を取る。
「すみませんが、少し協力してもらえませんか?」
再びあのアトリエの、少し大きいドアの前に立つ。クルトがノックすると、今度は暫くしてドアが開き、住人であるヴェルナーさんが姿を現す。
クルトの姿を見ても、相変わらずその表情に変化はない。
「ヴェルナーさん、先程は失礼しました」
クルトが笑みを浮かべながら口を開く。
「……きみ達か。まだ何か?」
「実は、あなたに描いて頂いた似顔絵なんですが、少し問題がありまして」
「問題?」
「ええ、本当に些細な事なんですが、その……ほくろが描かれていないんです」
「……ほくろ?」
「それくらい自分で描き足したらいいじゃないかと思ったんですが、こいつがどうしてもあなたに直して欲しいって聞かないもので。ほら、こいつの目の下のここ」
そう言うと、クルトは手を伸ばし、左目の下のあたりにひとさし指を押し付ける。
「ここなんですが、判ります? 見えますか?」
「……――ああ」
「あ、あの、そんなに強く押されたら痛いです……」
「ああ、すまない」
クルトは慌てたように指を離す。
「それで、大変申し訳ないのですが、先ほどの似顔絵に描き足して頂けませんか? そうすればこいつも満足すると思いますので」
ヴェルナーさんは少しの間考えているようだったが、やがて口を開くと静かな声で答える。
「……わかった。絵を貸してくれ」
それを聞いたクルトが小さく頷き、似顔絵を差し出す。
受け取ったヴェルナーさんはポケットから小さな鉛筆を取り出すと、紙に素早く何か描き込み、すぐにクルトのほうへつき返す。
「これでいいだろうか?」
絵を確認したクルトは、ヴェルナーさんの顔を見上げる。
「本当に、描いたんですね」
「……見れば判るだろう?」
「その人に、ほくろはありませんよ」
わたしの声に、全員の目がこちらを向いた。クルトに、ヴェルナーさん。そしてフレデリーケさん。
わたしは今まで隠れていた建物の陰から離れて、ドアの前の三人に近づく。
「ヴェルナーさん、わたしの顔、忘れてしまいましたか? さっき似顔絵を描いてもらったばかりなのに」
わたしは、クルトの隣に立っていたフレデリーケさんを手で示す。
「この人は、クルトの家で働いているフレデリーケさん。れっきとした女性です。今はわたしの服を着て、髪の毛も、長い部分はマフラーで隠していますが、わたしと同じようにして貰っています。ここに来てからずっと、クルトの隣に立っていたのはわたしじゃなくて彼女だったんですが、気がつきませんでしたか? わたしたち、そんなに似てます?」
そう言ってフレデリーケさんの隣に並んで立つ。わたしの服はフレデリーケさんに貸したので、今は朝に着ていた自分の服を身につけている。
「確かに、似たような背格好で服や髪型まで一緒なら、一度しか会っていないヴェルナーさんは、フレデリーケさんの事をわたしだと勘違いしてしまうかもしれません」
わたしはヴェルナーさんの顔を見つめる。
「でも、それでも不思議ですよね。どうしてフレデリーケさんの顔を見て、ありもしないほくろを似顔絵に描き足したんですか?」
ヴェルナーさんが何も言わないので、わたしは言葉を続ける。
「あなたには、ないはずのものが見えたんですか? それとも、あるはずのものが見えなかったんですか?」