結? O
手首が震動して、枕に突っ伏していた輝臣は重い頭をもたげた。
両親は共働きで、受験生とはいえ輝臣も家事をやらされる。姉は結婚して今は別世帯だ。ゲームばかりしているぐうたらな姉だったが、アレでも分担の頭数にはなっていたのだとしみじみ思う。輝臣一人になってしまった今、しなければならない事は割と多い。
ついさっき、雲行きが怪しいから早めに洗濯物を回収せよと出先の母から指令が来て、のろのろと片づけたばかりだった。取り込んだだけ。気力が湧かなくて、畳んでもいないしアイロンもかけていない。きっと帰ってきたらがっかりされる。解っているが、やる気が起きない。
〝おつかいメモ送ったから!〟は嫌だなぁ、と電話を告げる手首の携帯電話をなぞった。
虚空に小さな半透明のディスプレイが出て、表示されている名前にちくりとする。
この名前を見るたび胸に痛みが走るのは、勘弁してほしい。
薄く視界がぼやけそうになって、枕に埋もれ直した。出たいけど、出たくない。出たくないけど、出たい。
短く唸った後、輝臣は〝朱音〟に触れた。
「どうかした」
〔家に居る?〕
数日ぶりに聞く声に、全然気持ちが割り切れていないと悟った。これからも友達として付き合っていきたいのに。このままじゃ横恋慕しているのがすぐばれる。
「ベンキョするってメールしたじゃん」
不機嫌に応じたのに、朱音がホッとしたらしい気配を感じた。
〔オミんチの前に来てるの〕
「――は?」
〔電話やチャットじゃお金かかるしさ、ちょっと息抜きに話そうよ〕
「何それ――」
慌てて輝臣は身を起こした。窓の外は今にも降り出しそうな空模様だ。しかも、雨じゃなくて雪でもおかしくないような冷え込みだった。
毛布に足が引っかかって、すっ転びそうになりつつベッドを降りる。部屋を飛び出し、必死に手櫛で髪を整え、玄関を出た。
桐之宮家は大して金持ちでもないくせに、家と庭が無駄に広い。屋根付きの門まで走りながら、頭だけ直してトレーナーとサンダルというデジャヴに思い至った。内心が反映されている灰色の空を仰ぐ。
門の端に小柄な姿を見いだしたら、本日最大に胸が疼いた。ライトベージュのダッフルコートに白いマフラー。黒タイツがするりと流線を描いてショートブーツに収まっている。コートと同じ色のニット帽から、黒髪の先がちょっと覗いていた。
力のある目がこちらを見て、ムムッと言いたげになる。
「ちょっととは言ったけど、寒そうな恰好で出てきたな」
変な恰好という自覚はあったから、頬に血が上ってちくちくする。輝臣は俯いた。
「朱音が、いきなり、来るから……」
「なんか、会って話したかったんだよ」
「……何を……?」
心臓が猛烈にばくばく云い始めた。
ばれたんだろうか。迷惑だからこれっきりとか宣告されるのか。
輝臣の代わりに空が泣いた。
ぱたりぱたりと雫が落ちてきて、降ってきちゃったか、と朱音が持っていた半透明の白い傘を開く。門の屋根はそれほど大きくはない。
じんわりと背が伸び始めていて、輝臣は桐臣に近づこうとしている。十五cm上に向けて朱音がさしかけて来るから、無意識に傘を取った。微かに触れてしまった手の柔らかさに反応してしまう。
漏れた白い息がかかる距離なのに、自分達はちっとも詩のような関係じゃないのが悲しかった。
それを証明するように朱音が少し身を引く。
「朱音……」
欲しがってぐずる子供みたいな声が出てしまう。開いた空間を埋めようとすると、朱音はストップと言いたげに両手を胸元に掲げた。
「今回は何拗ねてんのか解んない。謝りようがないから怒る前にちゃんと言って」
「……怒ってないし」
「わたしも〝初恋〟を持ってきたのが、気に入らないんじゃないの」
少し頭が冷える。
気に入らないのは、信じられない確率で同じ作品を選んでいたのに、出てくる女の子の相手役は違っていたという恐るべき皮肉だ。
つと、目を眇めた。
「なんでオレも〝初恋〟だと思うわけ」
「違ったの?」
「いや……〝初恋〟だったけど……」
「桐臣が選んだのは〝初恋〟ですーって推薦コメントが幾つか付いてたよ。お蔭で周りが大喜びしてる」
「――ちょっと待って、何それ」
「読書部の友達じゃないの」
(どいつか知らないが覚えてろ……!)
輝臣が目を据わらせる前で、朱音は何処となくしょげた風に目線を落とした。
「同じの選んでるって知って、わたし、笑っちゃいそうだったよ。でもオミは、やだったんでしょ」
嫌だったのは朱音の相手役が自分じゃなかったことだ。しかしそれを今更、言えるわけがない。
こんな寒い雨の中で頼りなげな姿は、妙にそそられた。目の前に居るのにどうにもできないなんて、遣る瀬無いにもほどがある。
未練いっぱいで、滑らかな頬や色づいた唇を眺めてしまう。柔らかそうなそれが、再び動いた。
「気づくの遅れたのは悪かったと思うけど、なんかオミ居ないと落ち着かないから、今日までインしてなかったんだよね」
(何その殺し文句、もっかい言って。ていうか、あの男何やってんの。朱音を放置とは余裕だな)
輝臣がムスッとすると、朱音も不服そうに口を曲げた。
「ベンキョの邪魔する気は無いし。でもこの前、出会い系ゲームと勘違いしてる人に出くわしちゃって、一人でインするのやだったんだもん」
瞬間、輝臣は動きが止まった。
朱音に関して、割と自分は察しがいい方だと思う。あくまで、割と。
「出会い系ってさ……」
あそこまで身を屈めなくても届いてしまうのがムカつくが、輝臣は遠慮無く朱音のこめかみ付近に顔を寄せた。とてもいい匂いがする。「こう、べたべたしてくる感じ?」
「そうそうそう」
朱音は憤慨した様子で拳を握り締めた。「噂には聞いてたけど、声かけられたのなんて初めてでびびっちゃって、愛想笑いするしか無くて悔しかった。今度はアカウント停止覚悟でパンチしたい」
様々な感情が、溢れてくる。
どっと安心して、自分の馬鹿さ加減に笑っちゃいそう。嫌な思いをしたらしい彼女が心配。写真だと余裕そうにしていたのに、実はびびっていたなんて健気なカミングアウトされてしまうと、傍に居られなかったことが口惜しい。
(ホント、オレ馬鹿。本人に確かめもせずに、放置してたのはオレじゃんか。余裕なんか全然無いのに――こんな天気の日に朱音の方を来させちゃうとか――)
傘を持ったまま、輝臣は朱音を抱き締めた。
びっくりしたようで、肩の辺りから、オミ? と小さくアルトがこぼれる。
「パンチなんかしたら手が痛むからやめときなよ。オレを呼べばいいじゃん」
「……オミは喧嘩っ早いから呼ばない」
「そゆこと言うと四六時中ついて回る。ていうか、オレ、穏やか君を目指してるから」
「……なんか、ナメクジみたいだったのに、カタツムリに進化した?」
「どういう例えなの、それ」
「でろーんとじめじめしてたのに、家をゲットした感じだよ。でもでっかいコアラって気がしてきた――調子乗ってるよね、いつまで抱きついてんの」
「……あったかくて気持ちいいから放したくない」
嘘偽りない心の底からの言葉だったのに、むぎゅうと細い腕が肩を押してきた。しょうがなく腕をほどくと、真っ赤な顔が現れる。
「寒いからだよ、それはっ。もう家、戻ってっ」
林檎みたいだった。
食べたかったけれど、調子に乗り過ぎて本気で怒らせたら友達のポジションさえ危ういから、輝臣は我慢する。
(取り敢えず、すぐには嫌がられなかったなー)
出てきた時とは雲泥の機嫌良さで、少年は林檎畑の少女に傘をさしかけつつ、袖を引っ張られて家へと戻った。
「なんか知らないけど、もうわたし、今回のコト謝んないからね!」
玄関先で、朱音は染まった顔のままでそう宣言し、きらきら水をはじく傘を弾ませ、小走りに帰っていった。