結? A
晴れやかだった胸中が、たちまち暗雲に包まれた。
初めての人前での朗読も、祖父母や親友が聴きに来てくれたのが判ったから、リラックスして出来た。だが、静かな雰囲気の演出か、体育館は薄暗くされていたから、輝臣の顔色が優れない点に気づくのが遅れた。
差し入れと称するには風変わりな落ち葉だけが残されて、朱音は穏やかならぬ心地で手元に目を落とす。
赤ん坊の手指のように分かれた右の先は檸檬色。真ん中辺りは蜜柑色。グラデーション気味に左一面は薄い赤系統。虫食いも無い、形も彩りもいい楓。
ワカが、ふわりと唇をほころばせた。
「オミ君はロマンチストだねぇ」
「たまに、そうかも」
以前、二人で素晴らしい夕焼けを見た時、空に朱音の色があると彼が言ったのを思い出す。茜ではなく朱もあると眺めやった綺麗な横顔を、結構はっきりと蘇らせることができる。
あの時は二人とも夕日の明るい色に染まっていたのに、さっきの輝臣の顔色ときたら目元と鼻先は赤くなっているのに他は土気色に近かった。風邪で、悪寒が酷く、熱が出始める寸前のような感じ。
このゲームでは怪我は負うけれど、病には罹らない筈。とすれば、リアルで不調になりつつあるのではないか。
そもそも仮想空間に輝臣が居ないと落ち着かない。一人で居て、ダイなんぞと再度出くわすのも嫌だ。
「わたしも落ちる」
アイテム欄に楓をしまい込みながら告げる。朱音と輝臣が現実でも連絡を取り合っているのを知っている祖父母は、頷いた。
出店や展示品を少し見ていくと言う二人と別れ、クラブメンバーに挨拶してから、朱音はすぐログアウトした。
【身体壊したら受験どころじゃないんだから、気をつけて】
携帯電話で輝臣にメールを送ったら、ほどなく【ん】と限りなく短い返信が来た。
ベッドの端に腰かけた朱音は、虚空に浮かび上がった半透明のメール画面に口をすぼめる。
【聴きに来てくれてありがとね】
もう一通送ったものの、このごろは一度のやり取りで完結させていた所為で気づかないのか、今度は返事が来ない。
具合が悪化していたらメールどころではないだろうし、朱音は画面を閉じた。
輝臣と交わした言葉の少ない日は、味気ない。
味気ない日が、以降、続いた。
土曜日、生徒会選挙の投票が終わり、選挙管理委員ではない朱音は、昼前にバス停に並んだ。
選管の面々は、これから日暮れ頃まで票の集計に追われる筈だ。今年は免れたが、来年は再び朱音も就任させられそうである。
今日は曇天で寒い。
ダッフルコートにくるまっているものの、首をすくめ、朱音はメールをチェックする。
吐息が、白く漏れた。
【家で勉強する】
未だイベント中で誘惑も多いから、ゲーム内を避けるのは賢明だ。
けれどこれまでそういう時は、リアルの図書館に出かけて勉強していたわけだが……
(わたし、邪魔してたかなぁ)
けぶる息が、生まれては宙に紛れる。
二学年も朱音は上の筈だが、輝臣の学力が劣っているとは思えない。英語はこちらが教わるレベルだし、理数系もさほど困っていない様子。国語だって、難しいと言いつつ、たった三年間で随分と文学作品を読み込んでいる。
朱音は一緒に学んで英語が伸びたりしたが、輝臣は独学の方がいいだろう。楽しそうではあったけれど、よくまぁ横からの妨害にも関わらず成績が上がっていたものだ。
【無理スンナヨー】
受験の足は引っ張りたくないから、しょんぼりとそれだけ返す。
本当は文化の日に、ゲーム内の友達が関わっている作品を見に行ったり、露店に顔を出したり、二人でうろうろできたら良いなと考えていた。
蓋を開ければ両者ともさっさとログアウトしてしまい、今年の学園祭イベントは去年以上に見て廻っていない。
書道部のうっちーの作品も、輝臣が推薦している筈の本も。祖母のナポリタンが食べられるらしいレトロカフェも。
自分の公演には、良かったら来てね、とお知らせメールを送っておいて、このままでは何だか気まずい。
幼児でもないのだから一人で出かけるかと、朱音はやって来たバスにぼんやりと目を投げた。
昼食後にログインしてみたら、〝ウッチ〟が青色だった。
急いで連絡を取る。
学園祭は、昨日から開催場所が共学校に移っていた。
書道部が作品展示をしている教室の前で、長い焦げ茶の髪の瓜実美人が手を振ってきて、朱音は安堵する。
「聴いたよ、朗読」
メールでも送ってくれていたのに、うっちーはにんまりと笑んだ。「大いにあてられた」
どうもアカネと桐臣の共通の友人達は、〝初恋〟を二人の詩だと判断したらしい。『夢一夜』を朗読するよりも喜ばせてしまったかもしれない。迂闊だった。
「んー、他意は無かった」
苦笑いして、朱音はうっちーと教室へ入る。
「うん、他に察しようが無い」
可笑しそうに、うっちーはストレートの髪を揺らした。「ほんの少し意外ではあったけれど。朱音が敢えてそういうことをするとは、思っていなかったから」
「うんうん、だから敢えてのことじゃないんだよ」
肩をすくめ、朱音は並んだ作品達に目を走らせる。去年より数が多い。
書き初めのようなモノ、額縁にしっかり入れられたモノ。昨年のうっちーは屏風に漢詩をしたためていた。今年もそんな大作が飾られているが、書いたのは別の人だった。
うっちーの話だと、β版では十人前後だった部員数が、正式版では五倍近くに膨れ上がっているそうだ。
金箔が散らされたごく薄い水色の扇に〝天空海闊〟と流れるような筆使いで乗せてあるのが、うっちーの作品だった。
「カッコイイな! 去年も思ったけど、書道もアートなんだね」
「うむ」
嬉しそうにうっちーは目を細める。「ゲームは材料費が実質無料で、練習がたくさんできていい」
リアルでも書道部らしいので切実なコメントだ。
ひと通り見てから、二人は教室を出た。
オミの本を見に行きたいと告げたら、うっちーはややきょとんとしてから、珍しく声をあげた。
「えぇ?」
「やー、まだ見てなくってさぁ。多分、出張出品してるよね」
「えっと、読書部は、書道部より人数凄いことになってて……」
うっちーは、何度も瞬きながら言う。「展示は所属学校優先。でも部員名で検索できるようにはなってた」
「おぉー、そんなことになってんだ」
片隅の案内ウインドウで、読書部を選ぶ。一方に矢印が現れて、朱音は足を向けた。「もう見たんだね、ウッチ。ごめん、オミのだけは見ときたいから、もっかい付き合ってー」
うっちーは興奮した様子で、腕を掴んできた。
「オミのお勧めを知らない――っ?」
勢いにちょっと引きつつ、朱音は頷きを返す。
「だから、見に行きたいんだけど……」
「――スゴイ。みんなに知らせたい……っ」
何か盛り上がっている。「行こう行こう、さぁ行こう」
引っ張られる勢いで、朱音は図書室脇の一室へ入った。
去年は小さな空間に推薦本がゆとりを持って並べられていたものだが、今年は奥行きから違う。ずらりと威圧感が凄い。明らかに広くなったのに、何とか詰め込みましたという感じだ。
数人の先客が思い思いの風情で棚を巡っている中、うっちーはせかせかと中央へ進んだ。部屋の真ん中はあいていて、書見台を模したパネル端末になっていた。
ぱぱっとうっちーは検索枠に指を躍らせ【桐臣】と入力する。
正式版になってから、アカネという名のプレイヤーは他にも現れたようだが、桐臣はどうだろうか。
読書部には一人しか居なかったようだ。桜井高校の桐臣。輝臣だ。
うっちーが〝お勧めを表示〟というボタンを選択する。
画面内とパネル横に、本が現れた。え、と朱音は思わず洩らす。
『若菜集』ではないか。
画面上には登録日時も出ていて、十一月二日の午後八時過ぎ。朱音がクラブ掲示板にタイトルを書き込んだ時刻も、この辺りだった気がする。
(ぅわ――又やっちゃったのか)
他に人が居なかったら笑っていただろう。辛うじて声を落とし、びっくりぃ、と感情のまま言う。うっちーは、切れ長の目をくりっとさせた。画面を示す。
「この本は他の人も推薦してるけれど、何人かはオミが登録したから一緒に勧めてるのが丸解りなんだ」
画面には、〝同じ本をお勧めしている人〟という項目と〝推薦者からのコメント〟という欄がある。
コメントを、今年の輝臣は何も書いていなかった。
ところが、同じ本を推薦している何人かが、変なコメントを入れている。
【桐臣君のお勧めは〝初恋〟です。】
【桐臣は〝初恋〟で選んでます。】
【桐臣は初恋だってよ!】
「なんでオミが解説されてんだろ」
朱音が眉を寄せると、ぐふ、とうっちーが笑った。
「ナンデダロウナ。取り敢えずわたしはみんなに即行でメールをしたい、衝撃の事実を」
「え、同じ作品持ってきちゃった事?」
「まさか示し合わせていないとは思ってもみなかった。偶然だったなんてスゴイ。もう結婚しちゃいなよというレベルだ」
「えらい飛躍するな」
朱音は頬が引きつる。
ふと、この前の輝臣の反応が気になった。
彼は朱音が朗読をした時、同じ作品を選んでしまったと知っていたのだ。
だのに、噴き出しもせず、苦笑もせず……
『二度ある事は何度ある? って言うもんな。次があったらエンドレスになりかねないぜ』
『二度ある事は三度ね。三度もあったら何度と同じだろうけど、でも、うん、エンドレスは流石にコントと化しそう』
『混沌のコントだな』
『オミのおっさん化が著しいのは何故だ』
『まっ、まだっ――まだおっさんじゃないからっ』
同じタイミングでだんまりを決め込んだと知った時は、そんなことを言い合って。互いに笑いが止まらなくなって、苦しくなった程だったのに。
朱音は今回も失笑しかけたが、輝臣は笑って済ませられなかったわけだ。
(今回は、嫌だったんだ……?)
顔色が悪くなる程――何となくなのだけれど、あれは朱音の所為だった気がしてくる。
朱音はもやもやとした気分で『若菜集』の表紙を眺めやる。
ノーミスだったからと突き出された楓は、何かの抗議だったんだろうか。初心者らしく、ミスした方が良かったんだろうか。
短いメールのやり取りしかせず無味だったここ数日に、急に苦味が生じた。
早くも報告文を作り始めているらしいうっちーを、朱音は見た。
「ホントに〝初恋〟がお勧めなのか、本人に訊いときたいし、これで落ちる。付き合ってくれてありがと」
「式には呼んでほしい」
軽口に手の甲でツッコミを入れ、朱音はその場でログアウトした。