転 A
初恋は、小学二年生の担任の先生だったと思う。
ひょろっと背が高くて、少し垂れ目で。穏やかににっこりする。
父に似た感じの人だった。
国際船航海士の父は滅多に帰って来ないから、埋め合わせの意味合いもあったと思う。朱音は懐いて、先生も優しかった。
おませに色気づいた朱音に、母はきっちり仕込んでくれた。それ以前からスキンケアやヘアケアに関して習慣づけてくるような母だったから、それはもう熱心にあれこれ教えてくれた。
朱音がそうして背伸びをしている間に、先生は授業参観だか家庭訪問だかで母に会ったのだと思う。
先生は、朱音より母に、にっこりするようになってしまった。
先生は大人だもんなぁ、としょんぼりして、朱音の初恋は幕を閉じた。
やがて、年齢を感じさせない美しさだった元母が、いい男と見れば色仕掛けをしていると気づくようになって。
男女のあれこれが、朱音には気持ち悪く映るようになった。自分は関わりたくないと思った。異性から遠ざかるようになった。
両親は二年前に離婚し、朱音は今、父方の祖父母の家で暮らしている。
祖父母は仲睦まじく、例のゲームでも微笑ましい光景を見せてくれる。
当たり前のことだが、世の中には不愉快な男女関係ばかりでもないわけだ。漠然と知ってはいたが理解が全く伴っていなかったので、祖父母と暮らすようになったのは朱音にとって幸いだった。
このごろは、父さんみたいな人の奥さんになりたいなと、幼い夢を淡く取り戻すようになっていた。
ふわふわと思い描くのは、父そっくりな人とちょっと老けた朱音が、縁側で並んでにこにこしている光景だ。
文化の日の午前中、朱音は自室で『若菜集』と睨めっこしていた。
付箋を貼った頁以外も読んでみたが、佐藤先生と好みが近いと判明して複雑な気分になっただけだった。
声にも出してみて、やはり〝初恋〟が良さそうだと思う。例え初心者の朗読でも、音の連なりがいい感じに聞こえそう。
詩の林檎畑を脳裏に描く。
一節目で、大人びてきた女の子に気づき。
二節目で、貰った林檎に彼女を想い。
三節目で、彼女の髪に吐息が触れるほど進展。
四節目に到っては惚気。
デスクライトの傍で鎮座している人形の髪に、朱音は手を伸ばした。
父からの海外土産。いつも微妙な代物が多いのだが、とりわけ去年のコレは変てこだった。朱音に似ているから買ったそうだが、細い毛糸で編まれて、胴長。呪いの藁人形みたい。
毛糸の長い髪を、日本髪のように纏めてみる。今現在の朱音の髪の長さではできない型だ。
〝まだあげ初めし前髪〟というヤツを試みたら、紺色の大きなボタンの目がぎょろりと目立った。
色香漂い出す風情とは程遠くて手を離す。なかなか、朱音に恋の詩は難しい。
(まぁこういうのは、参加することに意義があるものだよね)
胸中で自分に言い聞かせ、朱音は本を閉じる。昼食の準備を手伝うべく部屋を出た。
今日は輝臣とではなくて部員のみんなと一緒だから、気の向くままの行動は駄目だ。早めにログインしなくては。
午後一時前、共学校の廊下に現れたアカネは、スカートのポケットから青いプレートを取り出した。
習慣に近い動きでスイッチを入れ、友達の画面を表示させる。
〝オミ〟がグレーと知るなり、ふっと心細くなった。
朱音は当初、このゲームの正式版を買っていなかった。
クローズドβ版でテスターをしていた時、体調を崩した祖母が、目の前で点滅しながら消えたことがトラウマになっていた。
朱音は、β版で友となれた人達がとても大事で。だからこそ、いつか訪れるだろう別れを想定せずにいられない祖母の件は大きかった。
元母が夫と娘をあっさり裏切って去ったように、仮想空間はもっと簡単に断ち切れてしまう事実も怖かった。
だのに正式版を遊び始めたのは、休暇で一時帰国した父が、娘と遊ぶ気満々でヴァーチャル機器ごと買ってきてしまったからだ。
一緒に遊ぶと言っても、父はふた月もすれば再び仕事に出てしまう。祖父母も遊んでいるとはいえ、トラウマの大元だ。朱音にとって、復帰はとても不安だった。
輝臣が正式版も既にプレイしていると知っていなかったら、悪いけど要らない、と父に断ったかもしれない。
『もしも辞める時は必ず事前に言うし、オレはいきなり消えない』
ゲームと同じ澄んだ目のままで、輝臣がそう言ったから。朱音は信じた。
彼はお調子者だし呆れる言動が多いけれど、朱音も似たり寄ったりな部分があったりする。似ているが故に、オミがそう言うなら大丈夫だろう、と思えた。
(オミが居るなら、大丈夫だったのか……?)
思えば正式版で遊び始めてから、朱音がログインした時には、〝オミ〟はいつも青色だった気がする。
居ない今日が、予想外に心許ない。
β版は人数制限があったこともあり、友達とまでいかなくても、行き交う人の顔も比較的見知っていたものだ。けれど今は、覚え切れなくなっている。
熟知している都市なのに、住人がそっくり入れ替わってしまったような、奇妙な戸惑いがあった。
朱音は公演会場のある女子校へ向かったけれど、歩きながらも無意識にツールを確認してしまう。
二十分ばかりかかる道のりで、何度目か液晶に目を投げた時、曲がり角から出てきた誰かとぶつかりかけた。
「っあ――ごめんなさい」
慌てて謝る。アカネは朱音より十五cmも高い筈だったが、目の前には相手の横に広い肩口があった。足を引きつつ見上げれば、このゲームでは珍しくない美男だ。
ちょっと濃い目の二枚目は、顔に合った張りのある声を発した。
「ごめんな、大丈夫だった?」
声も有料で変更できるが、地声だろうか。
朱音は軽く口角を上げて首肯し、そのまま脇を抜けかける。すると、目線をすすっと上下させた向こうが言を継いだ。
「えっと、アカネ、さん、学園祭行くの」
「はい」
なんで名前、とよぎったが、集中すれば頭の上に見ることができるのを思い出す。同じ臙脂色のブレザーを多少着崩した彼は【ダイ】と出た。
「一緒に行っていい? 俺、始めたばっかりで、ちょっと勝手が解らないんだよね」
「学校までならどうぞー」
古株の朱音でさえ迷子気分なのだ。新規プレイヤーなら尚更だろう。朱音は笑んで頷く。「マップ覚えるまでは迷いますよね」
この学園都市は広い上に、種々の施設や店があちこちに建っている。
「こんなに普通の町並とはね」
「夜は犬が放し飼いになるデンジャラスタウンだけど」
「何だそれ」
ダイは笑い飛ばしたが、このゲーム、未成年が夜歩きとはけしからんとばかりに、光っていないバスカビル家の犬みたいなヤツが追っ駆けてくるのだ。噛みつかれたりはしないのだが、非常におっかない。
β版では元から犬嫌いの人が号泣の末に抗議を運営に送ったと聞いたが、正式版でも犬や烏はそのまま出ているらしい。嫌なら回避アイテムを買っておくか、外出するなという回答だったようだ。
恐怖体験をするのも一興なので、朱音はそれ以上詳しくダイに言わなかった。
因みにアカネも桐臣と一緒に、焦って騒いで走って逃げたものだ。今では懐かしい思い出と言える。
記憶の欠片に触れたら、隣を歩く人に違和感を覚えた。前方に注意しながら、今一度コバルトブルーのフレーム内を確かめる。
やっと〝オミ〟が青色になっていた。
肩の力が抜けた。幾ばくか余裕が生じ、朱音はポケットにプレートを突っ込む。
ちょうど前方に、うっすらと桜色をした女子校の校舎が見えてきた。直線の多い広めの道を来たから、解り易かったのではないかと思う。
着きましたー、と朱音が指をさすと、おー、とダイは応じる。
校門を通過すると、視界の片隅に案内ウインドウが小さく出てくる。ウインドウ内にはイベント参加クラブの一覧があるから、それを参考に見て廻るなり、好きに覗いて巡るなり、後は自由だ。
簡単にそんな事を朱音が説明すると、少しばかりおざなりな様子でダイは頷いた。不意に身を屈め、耳元に小声で問うてくる。
「ねね、リアル幾つなの。若いよね」
朱音はそっと距離を取る。不快感からの逃避が優先されて、相手にどんなリアクションをすれば正解なのか判断できなかった。咄嗟に、天然の祖母の真似をしてしまう。
「いいよねぇ、このゲーム。十六歳に戻れちゃうんだもんねぇ」
頬に手を当てつつ、おっとりと言ったら、何故かダイの鼻息が荒くなった。
「大学生かなっ?」
「懐かしいぃー、学生時代にも戻りたいなぁー」
平坦になりかけた。朱音は女優ではない。所詮、その辺の女子高生だ。
七十代を演じたつもりだったのに、いっても二十代半ばとでも思ったのか。ダイは銅色のプレートを手早く出してきた。
「連絡先教えてよ。それか、トモロクだけでもしよう。いいでしょ。俺、アカネに、ゲームのコトとか色々教えてほしいなー」
始めたばかりの割に、その手のツールは完備のようだ。動揺が引いてきた朱音は目を眇め、つと、思いついた番号を告げた。
【高齢者を狙った詐欺の電話がかかってきたら、こちらに連絡してください】と回覧板に書かれていた警察内の専用ナンバー。何度も回ってきていたし、覚え易い数字の並びだった。
「ホントの歳、その番号にかけてくれたら判るかも」
愛想笑いを浮かべ、もうすぐ急ぎの用事があるので、と早口に続けると、朱音はその場を逃げ出した。
体育館の前にクラブの人を見留め、ほっとする。その頃になって、微かに手指が震えているのに気づいた。
知らずポケットの中に触れ、朱音は深く息をついた。