承 A
十一月に入った最初の月曜日、昼休みに宮園高校の図書室を出たところで、朱音は生徒会顧問の佐藤先生に呼び止められた。
今日も今日とて、三十前にして既に枯れた気配漂う男性教諭である。
「今の内にさ、卒業アルバム委員についてのデータを、来年度用に作っておいて」
「ファイル探すだけで大丈夫ですか」
「えーと、多分」
心許ない返事を寄越してから、先生は朱音の手元に目をやった。軽く瞬く。「君、意外な本を読むんだね」
意外ですかそうですか、と内心で応じ、朱音は口をすぼめる。借りたばかりの『若菜集』を掲げ、一応訊いてみた。
「センセのお勧めあります?」
英語科の先生だから期待せずに尋ねたが、するするっと三編ばかりのタイトルを挙げられて面食らった。急いで携帯電話にメモしておく。
じゃあね、とゆらゆら立ち去る背中を、狐につままれた気分で見送った。
放課後、一週間ぶりで生徒会室をノックする。
室内には珍しく鍵がかかっていた。生徒会選挙が今週末だ。役員の半数は候補者や選挙管理委員になっているものだから、別室で打ち合わせか校内で選挙活動か。役員専用パスワードを入力してロックを解除する。
朱音はコンピュータを起動させ、卒業アルバムに関するファイルを探した。
普通は簡単に見つかるのだろうが、昨年の書記の一人が桐間先輩で、ファイル名が幾つかおかしい。
避けまくっていた【愛のメモリー】というタイトルを渋々クリックしたら、目的のデータが出てきた。即行でまともな名前に変更する。
複写したデータの年号部分等を書き変え、ひとまず作業は終了した。
バスの時間まで少しあったので、朱音は備品箱にあった付箋を三枚剥がし、手の甲に貼り付ける。この手の文房具を頂戴できるのは生徒会役員の特典だ。
パイプ椅子に座り直して、バックパックからさっきの詩集を出す。携帯電話からメモ機能を立ち上げ、虚空に浮かんだ半透明のディスプレイを見つつ、本をめくって該当の作品頁に付箋を貼っていった。
〝初恋〟、〝狐のわざ〟、〝傘のうち〟。どれもいい感じに短いようだ。
つい先日、朱音はゲーム内で、ストーリーテリング部に入ってみた。
初心者だし、学園祭イベントの公演でも、テキストを見ながらでいいと言われている。本来は読み込んで、暗記しておくらしい。今のところそこまで本格的にやるつもりはないものの、こんな活動もあるのだなと、新鮮な心持ちだ。
公演では短い作品をという話で、最初に浮かんだのは去年、輝臣が出品していた『夢十夜』の一話目だった。
しかし、アレを今年になって朱音が朗読するというのは如何なものか。輝臣は笑って許容してしまうだろうが、外野がおかしな方向で喜びそうだ。だからやめた。
それで、声に出して読むのに良さそうな短い作品無いですか、と図書室の司書教諭を頼ったら、島崎藤村を提示されたのだ。佐藤先生的には、朱音にそぐわないらしいが。
パックを背負い、付箋を貼った本を手に、朱音は生徒会室を出る。
バス停の所でざっと黙読したら〝初恋〟には既視感があった。
五七調に揃えられたゆかしい言の葉の並び。林檎の園の恋の詩。
確かに朱音には似合わないが、あの生気の抜けた先生がコレを勧めてくるのも大概似合わない。
意外だよ、センセぇ、と心の中で呟いた時、乙女ちゃん、と横から聞こえた。ちょっとびっくりして目を投げたら、悪戯っぽい表情を浮かべて桐間が立っている。
「あ、先輩、ちょうど良かった。卒業アルバム関連のファイル名、変えましたからね」
「えー、なんで俺が付けたと思うのかな」
「他に誰が居るんですか」
朱音は呆れて応じる。先輩が、てへっという顔になったので、更に呆れた。胡散臭さが復活している。例の男友達の件が片づいたのかもしれない。
桐間は、無駄に色気を含んだ流し目をしてきた。
「〝初恋〟に付箋なんて意味深だね」
「佐藤センセの推薦ですよ、他にも二つ」
付箋を貼った頁を開いて見せると、先輩は眉を上げた。
「ゴーストさんと破壊ちゃんのカップリングなんて、幻展開だなぁ」
「今、他の変なファイル名も破壊しようと決意しました」
あはははは、と先輩は笑う。
「無難に林檎ちゃんか葡萄ちゃんか小梅ちゃんにしとくんだったー」
後ろ二つが解らなくて付箋を辿ると、どちらも出てくる。さり気なく梅を小さくしてあって小憎らしい。
バスが来た。
桐間先輩は終点近くまで。朱音は比較的手前で降りる。川辺先輩が在学中は、たまに三人で帰りが一緒になっていた。卒業間際まで桐間は片想いしていたので、二人に挟まれて乗る羽目になっていた朱音は少々居たたまれなかったものである。
とはいえ、来年は桐間先輩とも一緒になることがないんだな、と思うと、ちょっぴり淋しい気がした。
「でも今頃『若菜集』て現国? 古文? 二年て、今〝源氏〟の頭を覚えてるところじゃなかったっけ」
並んで立ったらそんな台詞が降ってきて、朱音は二十cm以上高い位置にある端整な顔を見上げた。ニヤリとする。
「わたし〝源氏〟はクリアしましたから」
「え、赤頭巾ちゃんが、もう?」
「赤点とったの一回だけですからねっ」
朱音が主張すると、先輩はにやにやする。
「うん、その赤頭巾ちゃんが一抜けとは意外だなぁ。後釜君もエール君も、演説原稿作りと並行で、まだ覚えてるところだったよ」
明後日は会長候補者演説会だ。最有力候補の滝沢も応援者の遊佐も、今は〝源氏〟どころではないに違いない。
「わたし、今年は選管じゃなかったし、時間あったんですよ」
受験勉強を頑張っている輝臣の隣で書き写していたら、覚えてしまえた。『枕草子』の時のように先を越されたらショックなので、いささかムキになったのもある。結果オーライだった。
帰宅した朱音は、すぐにメールをチェックした。
いつものように輝臣から届いている。
ゲーム内の学園祭イベントは今日からだ。
手早く着替え、夕飯の支度を祖母とした。
実は、祖父母も同じゲームを遊んでいたりする。
現実では七十三と七十二の高齢者だが、ゲーム内では同じく十六歳。一緒に共学校に通っている。
祖父母のログイン時間は決まって日中なので、大抵、イベントがあると朱音より早く体験していた。
去年と大体同じだよ、と祖母は笑い皺を深めた。
「でも今年は朱音ちゃんの発表があるね。明日が楽しみだよ」
「ちょっとばかり恥ずかしいけど、うん、まぁ、とちらないように頑張る」
「いい本は見つかったの?」
「センセに勧めてもらった」
朱音が肩をすくめて見せると、祖母は柔らかく笑った。
「オミ君に選んでもらったら良かったのに」
「オミは自分のお勧めを選ぶのも悩んでたもん」
どうやら去年の推薦作、男子寮の面々には不評だったらしい。輝臣は詳しく話さなかったが、期待外れと言われたんだよなぁ……と不服そうにぼやいていた。
ウケを狙ったわけじゃないんでしょ、と朱音が言ったら、大きく頷いていた。調子に乗った様子で、感情の暴露? とあからさまな単語を口にしたが、本当は発露と言いたかったようだ。いずれにせよウケを狙っていたような錯覚をいだかせてしまうのが、彼らしいトコロだった。
ともあれ、今日中には出品するんじゃないだろうか。何を出してくるか楽しみだ。
ログインし、朱音は制服のポケットから薄いプレートを取り出す。フレームの色はコバルトブルー。
珍しくメールが来ていない。友達のログイン状況を確かめたら〝オミ〟は青だ。予告どおりに居ることは居る。
安心したので、秋晴れの空の下、朱音は学校へ向かった。
イベント期間中、ストーリーテリング部はフルで参加するわけではない。二週間の内、三日間だけ。最初の公演が明日だ。
先ずは女子校がイベント開催場所になっているから、朱音の通っている共学校は静かなものだった。クラブ端末のある食堂へ入ると、幾らか人の姿がある。
朱音はストーリーテリング部をパネル表示させた。部員だけが閲覧できる掲示板には、各自が発表する予定の作品名が書き込まれている。
素人が勧誘されるくらいだから、部員数は少ない。朱音を含めて五人。このゲーム、CMによると日本だけで十五万人のプレイヤーが居るらしいが、本当なのか怪しい。関東や関西でサーバーが違うようではあるけれど。
メンバーと作品が被っていないのを確認し、朱音もタイトルを書き込んでおいた。少人数クラブならではと言おうか、掲示板に漂う空気はアットホームだ。初公演はなるべく独りぼっちにならないようにと、ここ数日は時間調整をみんなが試みていた。
公演場所として確保されたのは体育館だ。ライブデータを保存しておけば、ログインしていなくても以降の公演は開催されるようになっている。
満足いく発表ができなければ、次の機会のデータを上書きすることも可能らしい。朱音は明日の文化の日は確実にログインできそうだが、その後は微妙だ。一発勝負かもしれない。
食堂を出て、朱音は次に図書室へ向かった。現実で借りたのと同じ本を借りておく。
ゲームだと、資料の貸出期限が一ヶ月と太っ腹だ。手続きを済ませてアイテム欄に本をしまったところで、ポケットに入れていたプレートが震えた。
〝オミ〟から電話だった。






