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桐之宮輝臣はゲーム内で〝桐臣〟と名乗っている。本名の最初と最後を取っただけ。
リアルでは十五歳の中学三年生だが、ゲームでは十六歳の高校一年生。去年のキャラメイク時、〝スキャンした姿から予想される十六歳〟という説明が面白かったから、デフォルトの身体で遊んでいる。来年が見ものだ。
そんなこんなで桐臣は輝臣と大差無い。現実よりほんの僅か背が高いくらい。一六五、六だろうか。
この学園ゲームは高校で勉強するのがメイン目的なのだが、このところの輝臣は仮想都市の図書館やカフェで自習ばかりしていた。一応、リアルで高校受験を控えている身である。
本当のところ、女の子にうつつを抜かしているのが親にばれた。現実で朱音に会ってから、携帯電話の利用額が跳ね上がった所為だ。
叱られた上に、高校に受かるまでゲームを禁止されかけた。けれど、輝臣は意地でVR機器を死守した。
『コレは勉強道具なんだってば!』
後になって、結婚しろと親にせっつかれていたゲーム好きの姉が、コレで婚活するのだと大嘘を叫んだのを思い出し、己の発言に悪寒が走った。だが、後悔はしていない。
現実で朱音と会うのもいいのだけれど、ゲームの方が色々と安心なのだ。
午後七時にはログインして、輝臣はそわそわと図書館へ向かった。
今夜は朱音もログインできるらしい。彼女は朝刊配達のアルバイトをしているから、夜は早くに寝てしまう。一緒に勉強できるのはせいぜい一時間だ。
このゲームは授業のある時間帯に学校か寮に居ないとカツアゲに遭う仕様だが、最近になって図書館も安全圏だと気がついた。
『勉強は学校だけでしかできないモノか? って祖父ちゃんに言われたんだけどさ、言われてみれば、ポリスを恐れて学校に閉じ籠もるのも癪だね』
朱音のその発言で、開き直ってみた次第だ。
警官による補導はゲーム内マネーを少し盗られる程度だし、二人であちこち出かけて勉強してみた。結果、図書館で過ごした時だけは〝君達、学校はどうしたんだ〟と聞かれなかったのである。
ヴァーチャル図書館は広い。
自動ドアの先に、丈の低い書架が並んでいる。一階は無料で閲覧できる資料ばかりが揃えてある。参考書の類もタダだったりするので、お得だ。
輝臣は国語と社会がどうにも伸びない。棚から歴史の問題集を抜き出して、カウンタで自習室の利用登録をした。
吹き抜けの中央をぐるりと囲んで、二階は自習室と書見台が並ぶ。
硝子張りの一室に入ってから、輝臣はゲーム内連絡ツールをポケットから取り出した。昔、現実でスマホと言われた携帯電話に似ているそうだ。
銀色のフレームの中に黒い液晶画面。スイッチを入れ、友達登録してあるプレイヤーの名前を表示させる。ログインしていれば名前が青色。していないと灰色。
グレーの〝アカネ〟に、部屋番号をメールで送っておいた。
洋楽を口ずさみながら、肩掛け鞄からノートと筆記具を取り出す。今日は、やる気が違う。
輝臣の第一志望は宮園高校だったりする。地元では評判のいい進学校だから、親も応援してくれている。夏前は記念受験になりかねないようなことを担任の先生から言われたが、じわじわ成績は上向いていた。
十二年間海外育ちの輝臣には日本語自体が難解なのだけれど、どうせなら朱音と同じ学校に行きたい。
円卓に向かい、日本史の問題を解き始めたものの、すぐ行き詰まった。
部屋の隅にある端末で検索し、それらしい書籍を選択する。横手のボックスに本が届いて、立ったまま参考になりそうな箇所を探していたら扉がノックされた。
硝子の壁の向こうに臙脂色のブレザーを着たアカネが居て、輝臣は軽く片手を上げる。
制服自体は、ゲームの方がいいと思う。宮園も女子の制服はブレザーだが、黒だしデザインも地味だ。
とはいえ、先日の文化祭で初めて見た朱音のリアル制服姿を、翌日には夢で見てしまったが。
こんばんは、と言いながらアカネが部屋に入ってくる。中の人より十五cm盛っているそうだ。なので、桐臣と目の高さがほぼ同じ。
何処となく現実よりボーイッシュ。それでも光を含んだ黒髪と、澄んだ水を透して見るような肌が女の子だ。ゲームだからグラフィックを弄っているのだとばかり思っていたのに、そこは全くもって素だった。現実にここまで綺麗な肌の子が居ることに、秘かな衝撃を受けたものである。
アカネは歩み寄ってくると、端末で教科書と辞書を呼び出した。ボックスに二冊届く。今日は古文。彼女は他に物理が苦手らしい。頻繁に復習をしているのはこの二科目だ。
「また暗唱の課題出てんだよね。今度は〝源氏〟の冒頭」
うんざりした様子で、アカネはノートの広げられている斜向かいに腰かける。鼻で相槌を打ちつつ輝臣も席に戻り、彼女が夏前に『枕草子』をぶつぶつ呟いていたのを思い出した。
彼女は小柄な割に声が細くも高くも無い。温かみのあるアルトで繰り返された古の随筆を、傍で聞いていた輝臣の方が早く覚えてしまった。なんで……! と朱音は憮然としていたものだ。
教科書を見ながらアカネがレポート用紙に鉛筆を走らせ始め、輝臣も問題集の続きに取りかかった。
捗る。
四十分ばかり黙々と問題を解き続け、大体頭に入った実感がある。ノートに書いていった手製の年表を見直し、満足の息をついた。
アカネの手元を見やったら、延々と『源氏物語』の最初の部分を書いている。
区切りに達したところで、輝臣は問うた。
「今回、声には出さないの」
アカネは活力のある目を向けてくる。おどけたように通った眉を上げた。
「隣で喋ってたら邪魔じゃん」
「別に。むしろ喋っててくれると自然と覚えるからいいんだけど」
「聖徳太子か」
アカネが可笑しそうに頬を緩める。
(いや、オレは朱音の声以外は聞き分けられないし)
浮かんだ事を口にしかけて、輝臣はやめた。
硝子張りの部屋とはいえ、二人きりだ。下手な事を口走って変な空気になったら、きっと歯止めが効かなくなる。
どうして朱音は一緒に居てくれるの、とか。
単なる疑問のように投げかける自信が無い。期待を込めずにはいられないから、訊いてしまったら、シャボン玉が壊れるかのように、この時間は消える予感がある。
ノートを閉じ、輝臣は口早に話題を変えた。
「学祭イベント、来れそう?」
「何回かは。オミは、出品?」
「多分」
リアルでは帰宅部一本だが、ゲームでは読書部に入っている。
去年の学園祭は〝秋の夜長にお勧めする一冊〟というのを各部員が登録して、それが展示されていた。今年も恐らく、そういう感じで参加するだろう。イベントは来週の月曜からだ。
「わたし、ストーリーテリングで発表するかも」
「へ――朗読? そんなクラブあるの――ていうか、いつの間に入ったの」
「や、まだ入ってない。でも誘ってもらってるから、入ってみようかなぁって」
アカネは照れ臭そうに相好を崩した。はにかんだ仕種に焦ってしまう。
「誰――が、誘ってんの」
ゲーム内の知り合い達は、桐臣とアカネをもう半ばカップル扱いしている。だから、油断していた。
「寮の子っていうか、ウッチのリア友。正式版から始めたらしいよ。オミも今度トモロクさせてもらったら?」
安堵して気が抜ける。ウッチこと、うっちーは共通の友人だ。中の人は女子大生らしい。
アカネは、ささやかに嬉しそうな様子で続けた。
「なんか、わたしの喋り、聞き取り易いんだって。イベントの時だけでもいいから、やってみない? って今日もメール来てて」
「ん、いいんじゃない」
しかしながら、ほんの少し複雑な気分だ。他にも彼女の語り口を気に入る人が居たなら、さっき思った事も言ってしまえば良かった。朱音の声の不思議な心地良さは、輝臣が真っ先に気づいた筈だから。
「ぶっつけ本番になりそうなのが心配なんだけどねー」
「ゲームなんだし、しくじったっていいじゃん。若い内の恥は買ってでもしろって言わない?」
「買うのは苦労? まぁ、どっちでもいいか」
そう言って、彼女は屈託なく笑った。
輝臣の心臓が無駄にどきどきしたのは、日本語を間違えたからだけじゃない。