虹の魔王 あるいはエィスト あるいは怪物
少し離れた場所からなら、町の現象は手に取る様に分かった。
壊され、燃やされた家屋の数々、喰われた人間の残骸、それに魔物の残骸も。どれも町を殺伐とした空間へ変えていて、今現在もそれはどんどんと侵攻しているのだ。
ただ、先程までと比べれば侵攻速度は随分と落ちている。その原因はニヴィー達が動いているからだろうが、『此処で町を見ていた者』はそれを知らない。
「……人間と魔物、か」
そこに居たのは、ホワルだった。
彼は町の近くに有る巨木の頂上へ座り、状況を静観している。とても話を聞いて飛び出した、などとは思えず、その瞳は何かを探す様に動いている。
魔物を斬りに行く気は無いらしい。戦意よりも『観察』あるいは『偵察』または『探索』と言うべき感情が蠢く様に感じられた。
その表情は余り嬉しそうでは無く、むしろ落胆にも似た感情を表している。目的の物が見つけられなかった様だ。
肩を落としかけた少年。そこに、一つの声が響いてくる。
「どうした、そんな所で」
「っ!?」
ホワルは慌てて振り向き、そこに居た人間の姿を捉える。
それはカイムだった。全くの自然体でありながら、気配の欠片すらも感じさせていない。ここまで接近していてホワルが微塵も気づかなかったのも、それが原因だろう。
「カイムさん……いえ、その」
「ああ、何か用事が有るなら済ませておけ」
「いえっ、今の所は」
慌てて首を振る少年を見て、カイムが軽く息を吐く。
何度も殺されかけたからだろうか、ホワルは彼の挙動を一つ一つ恐れている様だ。
「今の所は、ねぇ」
「は、はい。人間が逃げてきたら助けようかと」
明らかに誤魔化そうとする言葉を聞いても、怪しんでいる素振りは見せない。それが逆に怖いのだが、カイムにとっては『知った事ではない』のだろう。
しかし、カイムが次に口にした言葉を聞いて、少年は目を丸くして思わず木から落ちそうになってしまった。
「いや、お前は人間を助けに行く類じゃないだろ」
「えっ……?」
見透かされている。
そんな気持ちが恐怖心を数倍にまで強め、ホワルは酷く混乱していた。手は震え、鍛錬の時に受けた攻撃を思い出したのか、剣を鞘から抜こうとまでしている。
だが、そんな相手に気遣いなど欠片も見せず、カイムの言葉は続いていた。
「お前、人間じゃないな。巧妙に、とても巧妙に隠しているが、俺には無意味だ」
「な、あっ……」
言いがかりだ、そう口にしようとしたホワルだったが、現実に開いた口から出るのは単なる呼吸音でしかなかった。
狼狽と混乱は更に強くなり、怯えにまで発展する。このまま問い続けられれば、『隠していた目的』や『自分の正体』の全てを白状してしまうだろう。
しかし、カイムは特に態度を変える事は無く、巨木を椅子にしたまま首を振った。
「何でさっき飛び出したのか、何でお前が魔王と戦っていたのか、とは聞かないぞ。興味も無いからな」
言いつつ、彼は町の方向へと視線を移動させた。彼なら指先一つも用いずに町中の魔物を消す事が可能だろう。広範囲かつ識別の出来る攻撃くらい持っていても不思議ではない。
が、彼もまたじっと町を見つめるだけで、何もしなかった。
「……何を、見ているんですか?」
「……いや、奴が動かない筈が無い、と思ってな。こういうのも楽しむだろうが、それでも何らかのアクションは起こす、多分な」
「奴……?」
「こっちの話だ」
彼は首を振っていて、それ以上話す意志を見せなかった。町を見る瞳は複雑な気持ちが宿っている様で、質問を許さない。誰もが口を閉じてしまうだろう。
その彼が見ている先では少々の変化が起きている様に思われた。少しずつだが、魔物達による行動が減っているのだ。
滅ぼされたというよりは、逃げている。『この世界では』それなりの身体能力と『魔物としての力』を持つホワルには、その動きが理解出来た。
「魔物が退いていきますね」
「ああ、ニヴィーだな。あいつ、魔物を町から吹き飛ばしているらしい。あれで死なないんだから魔物が頑丈なのか、あいつが器用なのか、両方か?」
発言自体は疑問調だが、その中には確信が籠められている。『両方』だと理解している事を隠そうともしていない。
その場に居ながら、まるで世界が見えているかの様だ。ホワルが軽い息を吐き、羨望と畏怖を視線に乗せている。
化け物よりも人間よりも恐ろしく、もしかするとそれ以上の存在すら軽く越えているのかもしれない、そんな存在感がカイムの中には有るのだ。
だからこそ、師事するのである。力が無ければ目的は達成できない、戦えないと知るからこそ、少年は彼に強さを求めたのだ。
死んでしまうかもしれない程の鍛錬を受けて尚、その意志は強固だった。
「っ!!?」
ホワルが見つめていたその時、カイムが唐突に立ち上がって目を見開いた。驚愕、いや生理的嫌悪だろうか。そこに写る物はとても強烈な感情であり、ひたすらに圧倒的な力がその場で流れ出している。
あまりにも強すぎる奔流に魂まで損傷を受けかけた少年だったが、強い影響が出る寸前に自分を全力の魔力で強化し続け、耐久力を無限に高める事で逃れようとする。
それでも、漏れ出す力が続けば一瞬も防げずに喰らい尽くされてしまっただろう。
だが、カイムは一瞬より早く平静に戻り、呼吸を整える事で流出した力を抑え込む。それまで有った暴力的とすら感じさせる力は最初から無かった物であるかの様に消えていた。
残ったのは、驚愕とも困惑ともつかない声を発する男だけだ。
「この世界で『それ』は、幾ら何でも派手過ぎるんじゃないか? ……エィスト」
少年には、彼が口にした名前の意味すらも理解できなかっただろう。カイムの見る世界を知らない限り、それは出来ない事だ。
彼の瞳、いや、その存在自体が捉えていたのである。
空の奥深く、その最果ての先に位置するであろう場所が、虹色に光っているという事実を。
+
空の奥深くに虹色が現れたのとほぼ同じ頃、魔物達の軍勢、いや単なる集団の一番奥にザックウォーエは存在していた。
他の魔物と混ざって人間を滅ぼすのでも無ければ、何か指示を出している訳でも無い。ただ黙って護衛に着かせた魔物達の中に立ち、じっと町の方を見つめている。
まるで、何かを待っているかの様だ。それが何なのかなど、その場に居る魔物達には分からないだろう。
表情は静かな物で、魔物としての責務である人間の殺害に対しても、全くやる気が伺えない。これが新たな『魔王』になると言った人物だとは誰も想像しないに違いない。
「……魔物達が、退いている様だが?」
ポツリと、ザックが呟く。
『魔力による支配』は便利な物で、支配した存在が何処に居るのかくらいは把握する事が出来る。とてつもない力であるが、それも大きな魔力が無くては無意味な物だ。
その巨大な魔力を『貰って』いる為に、ザックは今まさに自分の能力を完璧に使えるのだ。
とはいえ、支配はあくまで支配でしかない。町中で何が起きているのかは、全く分からない。
「しらね」
「分からない何事にも分からぬ」
「知っていれば教えるから教えないのは知らない事だ」
護衛の魔物達も事態を理解せず、首を傾げている。まだ良い部類に入る知能を持つ魔物達ばかり集められていたが、深く者を観測する様な意志を持つ程の者は居ない。
それが曲がりなりにも可能なのは、他ならぬザックウォーエ自身と腐乱した馬と中身の無い鎧だけだ。
「逃げているのか……? その割には、殺された奴が少ないな」
ザックは独り言を口にしていて、魔物達の言葉など聞いてもいない。
支配によって分かるのは、生死と位置情報くらいだ。ザックに分かるのは、『魔物達がひたすら長距離まで吹き飛ばされている』という事だけなのである。それはそれは、困惑も仕方ないだろう。
だが、同時にザックの顔には何処か嬉しそうな、かつ邪悪な意志が浮かんでいた。それはまるで、憎悪の様だ。
そして、彼は意を決した様に口を開く。
「全員――」
「やめろ」
新たな命令を発しようとして、音が消える。
声は途中で止められ、ザックの身体は完全に硬直していた。
「止めておくと良い」
「もう危険な連中が揃っているんだ」
山の中で声が響く。それはザックの首に刃を向ける鎧の声であり、同時に魔物達の動きを単純な魔力の放出だけで止めた馬の声でもあった。
鼻につく腐乱臭と、鎧から発せられる不気味さ。その双方から現れる魔力は怪物的である。ただし、魔王には及ばないのだが。
「……二人とも」
「退け。今この場で殺す気は無い。お前が死んでは、連中を撤退させられないからな」
鎧の魔物が低く恐ろしい声で告げる。
そうだ、まだザックが生きる事を許されているのは、他の魔物を逃がす指示を出させる為だ。それが終われば、二つの魔物は間違いなく彼を殺すだろう。
視線が彼を貫く。しかし、このまま黙っていても殺されると分かっているのか、彼は如何にも悔しげな顔をした。
「て……全員、撤退だぁっ!」
「むっ……!」
言葉を受けた魔物達が止められた身体を無理矢理に動かし、全身から出血しながら二つの魔物へ襲いかかる。
だが、魔物達は身体を微かに動かすだけで全ての攻撃を避けきって見せる。
それこそがザックの狙いだった。
「くっ……!」
一瞬だけ二つの意識が分かれた事を認識すると、彼は残しておいた魔物達に自分を守らせる。魔力によって身を隠す事が出来る個体を活用して、即座に逃げ出した。
「しかし、しかし覚えていろ、こいつらはまだ、私の支配下だ!」
負け惜しみとしか思えない言葉を残し、彼は逃げ去っていく。
魔物達はそれを咎めなかった。最初から逃がすつもりだったのだ。
だが、彼らは気づかなかっただろう、ザックウォーエの口元に笑みが浮かんでいた事などには。
完全にザックの気配が消えた事を確認すると、二つの魔物は戦意を消し去った。
怒りは隠せていないが、その方がより現実的な殺意を思わせるだろう。態度も雰囲気も、彼らに撤退を選択させる為に仕組んだ物である。
「逃げきったか、奴は」
「ああ、異界に戻ったらしいな」
持ち前の気配を察知する技能で全ての同胞が完全に撤収した事を確認し、彼らは安堵の息を吐く。
人間が殺された事になど意識は裂かない。彼らは魔物で、元から魔物の心配しかしていないのである。
「何人殺られたか、分かるか?」
「分からん」
「だろうな……心配だ、ああ、心配だとも」
心の底から物憂げに鎧が俯き、馬が元気づける。
「大丈夫だろうさ、馬鹿でも生存したいって気持ちは有る。あのニヴィー相手にどうにかする筈が無い」
「ああ、まあ、そうだな」
ニヴィーの名前を聞くと、鎧の方は即座に落ち着いた。それほどまでに彼女の名前は強烈な印象を与える物だったのだ。
出会った瞬間から圧倒的に絶対的で、魔物などより余程化け物だった。彼女はまさに彼らの心に残る内で最も強く――同時に、人間としてはたった一人しか居ない大好きな友人なのである。
「あぁ、あいつめ。こういう時には心から頼りになる」
「そうだな。ああ、畜生。人間の癖に我々より強いんだから話にならない」
「そうだな、話にならない」
悪態を吐きながらも好意と賞賛を口にした魔物達の耳に、聞き覚えのある、というより今話題にしていた者の声が聞こえた。
「何……!」
「お前っ!?」
「久しぶり、二人とも」
驚きと共に振り向くと、そこには予想通りと言うべきか、ニヴィーが立っている。
気配どころか動きの一つすら悟らせずに接近された事に、二つの魔物は戦慄を覚える。が、すぐに自分を落ち着かせ、顔は無くとも苦笑いと分かる表情となった。
「さっき会ったばっかりだろうが」
「きちんと挨拶が出来なかった」
言葉自体は簡潔だが、友好的だ。とてもではないが彼らを敵と思っているとは考えられない。
種族的にはあくまで人間だというのに、この態度だ。そもそも彼女に人間と魔物の区別が付いているのかすら怪しく思えてくる。
「相変わらず臭い」
「失礼な、私が生まれてからずっと出し続ける腐乱臭だぞ。私の誇りだ」
「それもどうかと思うがな」
「中に入ってた奴の血で目覚めた奴には言われたくないが」
「それを言うなら、馬の死体から生まれた奴にも言うべきだな、ああ、言うべきだとも。大体、なんだその羽、天馬の真似事か?」
「そっちこそ、剣なんて持って、意志を持ってるだけの防具の分際で戦士のつもりか?」
基本的に二つの魔物は仲が悪いのか、一致していた目的を達成するとすぐに口喧嘩を始めた。
その間に立たされてもニヴィーの表情は全く変わらない。ただ、僅かな態度の変化から呆れの感情だけは見て取れた。
「喧嘩はやめろ」
「……分かってるって」
「ああ、これは喧嘩じゃない、ただちょっと、悪口を言い合っているだけだ」
ニヴィーの言葉を受けて、魔物達は矛を収めた。共通の友人の前だという事を今更に思い出したのだ。
「ん」
満足げに頷き、ニヴィーが二人から視線を逸らす。何の気も無い様子だったが、そこには同時に困惑が混じっている。
珍しい態度の変化を見ると、魔物達は揃った動きで視線を合わせた。が、そこに有るのは単なる空だ。多少曇っているが、何の変哲も無い。
しかし、彼女は何かが見えているかの様に目を細めていた。
「あれは、何だ?」
「何だ、とは?」
「あれだ」
彼女が指さすのは、やはり空だ。
だが何も見えてこない。少なくとも彼女程の『怪物』が関心を抱く様な物は何も……
「おい、アレは……」
いや、何かが有った。
優れた魔物である二人ですら微かにしか見えない『何か』。それが確かに空の奥に存在していて、しかも近づいてくる気配が有る。
巨大で、しかもおぞましい。悪夢よりも混沌とした物はぞっとする雰囲気を纏いながら、どんどんと空の表側へ出ようとしていた。
誰も止められない。少なくとも、二つの魔物はそう感じていた。一人だけ存在するので厳密には誤りだが、少なくともこの世界のぞんざいでは無理だろう。
よって、誰もが黙って見ているしか無かった大空に、それは現れた。
「まさか、『虹』のっ……!?」
「……ほう」
現実に浮かんだ『それ』を見て、ある者は息を呑み、ある者は絶句し、ある者は複雑そうな笑みを浮かべ、ある者は関心を寄せた。
そこには、虹色の空が広がっていて――
+
巨大な虹色は町の上空を瞬く間に浸食し、辺りに目映く眩しく鬱陶しい光を落としていた。
それは自らの存在を見せつけているが、恐らくは一定以上の力が無ければ視認出来ない様になっているのだろう、町民は全く気づいておらず、ただ負傷した者達を助けようとしていた。
照らし続ける虹を見る事が出来た者の中には、精神に異常を抱えてしまった者も居るに違いない。その存在と相対するには、精神力も要求されるのである。
ただ、平気な顔をしている者も確かに居た。
「あの、目立ちたがりめ」
「それ、ってどういう……?」
巨木の上に居るカイムとホワルもまた、その内の二人である。
急速に現れた虹色の空に戸惑いを覚えているのはホワルで、カイムはひたすらに虹色の奥底を覗き込んでいた。どちらも超人的という単語を通り越していて、まるで怪物だ。
少なくとも、この世界の常人からすれば二人とも同じくらい怪物に見えるだろう。
しかし、何も分かっていないホワルとは違い、カイムは分かっていた。その虹色が何者なのか、それに、あの虹色が何を引き起こそうとしているのかを。
「来るぞ……!」
瞬間、世界が虹色に染まり上がった。
目という感覚器官で状況を見ていた者は、この瞬間全ての視覚を奪われてしまっただろう。虹色の光は強く強く輝きを増していき、肉体の機能としての視覚を奪う。
当然、カイムには通用しない。『無』と同化している為に影響力から逃れられるのも確かだが、彼は肉体以外の機能も駆使する事が出来る。
よって、彼は完全に視界を確保している。
「これは、何が……」
ホワルはまた別な方向で、しかし不完全ながらも同じ様に『目』を回復させていた。
「ああ、見えているんだな?」
「は、はい。それでこれは?」
「肉体強化ではないな。大方、自分という『魂』を強化する事で肉体とは違い方向に干渉したんだろう?」
「そ、そうです」
質問に対する答えは得られなかったが、自分の強化を簡単に見破られてしまって、ホワルはそれ以上の事を尋ねる事が出来なくなる。
そんなホワルの顔を見てはいなかったが、カイムは口元に不敵な笑みを作っていた。
「お前の質問の答えだが……すぐに分かる。いや、むしろ余計に疑問が強くなるかもな」
「?」
何だかんだで投げられてきた答えを受け取り、更に別方向から生まれた疑問を抱く。
しかし、それを口にする事は無かった。
「見るなよ。魂が悲鳴を上げるぞ」
カイムの声が響いたその時、虹による光が更に強まった。そこに有った力の塊は数倍にも強化され、激しく蠢いている。虹色はその印象を強くして、輝きを増していった。
ホワルは思わず自分の感覚を全て閉じ、カイムの言う通り魂にまで迫った『何か』から身を守った。
そこで外部からの情報は消えたが、それでも『とてつもない事が起きている』という現実だけは否応無く押し寄せてくる。ただ、隣に居るであろうカイムが何かを行っているらしく、影響は無い。
現象は体感的には永久と間違う程に続いた。が、実際には数瞬の出来事でしか無かった様だ。現れた時と同じく、一瞬で消える。
「もう感覚を戻しても良いぞ」
あらゆる外部からの交信を拒絶しているホワルの頭に、何故かカイムの声が響く。
思わず目を開けて感覚を取り戻すと、そこには驚くべき光景が広がっていた。
「これ、は?」
「まあ、そういう事だな。随分と派手にやるじゃないか」
それを目撃して目を丸くしたホワルとは違い、カイムは忌々しげながらも感心を口にしている。
しかし、今度ばかりはホワルも反論めいた物を口にせざるを得なかった。
「いや、派手とかじゃなくてっ……」
言葉が続かない。驚きが強すぎて頭の動きが鈍り、口が麻痺した様になってしまう。
こんな『とてつもないもの』を見せられたのだ。驚くのは当然であり、むしろ驚かない者は真っ当ではないと評するしか無い。
開かない口の代わりに、彼は心で多大な驚愕を現していた。
――これって、え? どうして、どうして町が……元通りに!?
町が、町が完全に元の状態へと戻っている。どの建物も一つたりとて焼けず、壊されず、死体の山も血飛沫も見えてこない。
ならば、と町中を見回してみれば、喰われた筈の人々が町中で歩いているという不可解な事実を察知してしまう。どの人間の顔も平穏そのもので、たった今魔物に襲撃されて惨い有様となった場所だとは誰も思っていない。記憶まで消されているのだろう。
この現象を捉える者ならば、どの方面から見ても間違いなく驚愕する。どんな方向性の魔力を使えば『記憶の消去』『建造物の復旧』そして『死者蘇生』を可能とするのだろうか。どれほどの魔力を使えば可能になるのだろうか。どちらにせよ、調査を逃せない事である。
そして、逃してはいけない事実はもう一つ有った。
魔物の死体も、消え去っていたのだ。
+
驚き過ぎて身体の動きが止まっているホワルに対して、カイムは冷静極まる程に冷静だった。
こんな光景など何度も見ているのだ。最早『虹』色の空など見飽きた物でしか無く、起きた事柄もまるで新しさが感じられない。
百回の戦いの中で似たような物は数え切れないくらい体験しているのである。誰が驚きなど覚えると言うのだろうか。
「時間操作、いや……もっと派手だな」
思わず声を漏らし、その言葉を否定する。
カイムは思考の方向を『どうやって結果を引き起こしたのか』に注いでいた。
誰も気づいていなかっただろうが、たった今起きた名称不能の現象の実現にはこの世界で言う『魔力』が使われていた。普段からエィストが仕掛けてくる『ありとあらゆる事から生まれてカイムを倒す為に使われる』攻撃とはまた違ったのだ。
この世界の法則に合わせた力の行使。それが意味する所は。
「現象のリセット、か? いや再構築……もっとおぞましい事かもしれないな」
やがて、考えるのも無駄だと判断してカイムは思考を切り替えた。大事なのはエィストが町で起きた事を解決した理由であって、その解決方法に有る訳ではないのだ。
本来なら、もっと考えておくべき物だ。だが、彼の目には先程までのやる気が殆ど無かった。
「ま、奴の事で一つ一つ考えるのも止めておくか」
長い付き合いでエィストの考えを何となく察せてしまい、微妙に萎えた気分になりつつ、彼は自分の側で完全に硬直したままのホワルへと声をかける。
「何にしても、あえてタイムラグを作る辺り馬鹿にした物だよな、そう思わないか?」
「は、はあ……」
ホワルは全く驚きが抜けないのか、顔すら動かさずに相槌を打つ。『魔力』で行われた出来事だけに、そのとてつもない結果と方向性が理解できてしまったらしい。
何とか機能している視界が町中を歩む人々の姿に向けられている所が、余計に驚きを強めてしまっている様だ。まあ、その手の事に耐性が無ければ、心が止まってしまうのも無理はないのだが。
「なあ、それくらいで驚くなよ」
「い、いやぁ。あれはそれくらいじゃあ……」
いい加減に面倒な気分になったカイムの適当な言葉に、ホワルが小さく反論を口にする。
「驚きは隙になる。戦闘時くらいは驚かない努力をしろ」
そんな言葉など聞いていないとばかりに、アドバイスだけを告げたカイムは巨木の端まで歩いていた。
木の葉や枝だけでは幾ら何でも人を支えられない筈だが、その辺りは技量で何とでもなるらしい。影響下から逃れる必要も無い。
「行くぞ、連中が待っているらしい」
「行く、って。何処に?」
「俺には見えている」
行き先を尋ねる言葉に軽く答えて、カイムは木から飛び降りた。
下は土だが、かなり高い。普通なら骨折では済まない所なのだが、彼がこの程度で怪我をする大人しい人間である筈も無く、地面へ降りてあっさりと歩き出す。
目指す先が確かに見えているので、足取りは軽く方向にも迷いが無い。
「ま、待ってください!」
遅れてホワルが飛び降り、背後を歩いている。
それを察知していてもカイムは振り向かず、ただ進んでいった。
彼の瞳は捉えていたのだ。驚きで空を見つめたままとなった二つの魔物と、『自分に手招きを行う』ニヴィーの姿を。
「あのー……到着して、何をするんですか?」
「知らん。予想は出来るが」
ホワルの質問へ彼は正直な回答を返す。
知らなくとも、彼女の招きを受けていると思うと身体が勝手に誘いに乗ってしまうのである。
本作、『~的な』とか『暗黒の』とか『おぞましい』とか、そういう描写を結構使っている気がします。