暗黒のもの
「今、何て言った?」
鎧の魔物が口にした事実を聞き取った瞬間、少年の表情が、瞬く間に変わっていた。
それまで状況に流されていた事が嘘の様に、吹き荒れる嵐が如く意志の輝きが強まっている。握られている剣はとてつもなく鈍い音を発して、恐るべき鋭さを見せつけていた。
カイムやニヴィーは二人だけの世界に入り込んでいるが故に全く影響を受けていないが、他の者達は大なり小なりその変化に困惑や動揺、それに『理解』を覚えていた。
その顔は、この場の誰か、つまりザックが狂った様に男を睨む姿と非常に酷似していた。そこで事態の大半を察したのか、馬の魔物が静かに男へ視線を向ける。
「奴が……勇者だ。白の魔王を殺した、な」
「そうですか」
それを聞いた途端、ホワルの顔色は更に恐ろしい物へと変わっていった。まるで悪鬼、あるいは復讐鬼だ。感情の触れ幅が完全に吹き飛び、全身から魔力が吹き出している。
精神的な変動が極まった物となっているらしく、中心点である少年自身の周辺は実に静かだ。
何も言葉に出さず、ただ彼は身体を僅かに動かした。
たった一歩。たった一歩の踏み込みだ。それは単なる移動であり――
それだけの一歩で、彼は『敵』の目の前に到達した。
「死ね」
静かで簡潔で、何よりも真実が籠められた真摯な一撃が男を襲う。剣は最早神速の域に到達し、風とその道程に有った物を斬り咲いた。
しかし、金属と金属が衝突する鋭い音と共に剣は受け止められている。モーニングスターだ、男はとてつもない速度に反応し、強固な槌を盾としていた。
「随分だなおい。俺はお前に恨まれる覚えは」
「有るんだよ、俺は、魔物だからなぁ!」
強い殺意の籠もった告白と共に、ホワルがその身から持ち出す魔力がより多大な物と化す。条理を完全に越えた身体強化は魔物を更に高い所の存在へと引き上げて、人間如きでは触れる事も許されない怪物となっている。
しかし、男はそれを越えて恐ろしい人物だった。自らに迫る危険を冷徹に観察と評価を行い、その動きを瞬く間に読み取り、続く攻撃を防いで見せた。
「お前、魔物だったのかよ。随分と騙されたじゃないかよ、なあ、この失敗をどうしてくれる? 死ぬか、俺を殺しに来るか? まあどっちでも良い、魔物を生かしておく趣味は無い」
モーニングスターを握る手に力を籠めて、男が悦楽的な殺意を見せる。意志の力で向かってくる復讐鬼達を叩き潰す事に、快感を抱いている様だ。
しかし、彼の想像とは違って少年は何も言わずに攻撃を仕掛けていく。否、その激情は一撃一撃に全てが入り込んでいる。言葉にする分も含めて、全てだ。
大いなる激情を伴った一撃は、全てが必殺である。流石の男も反撃には移れない。
「あいつめ、俺の言った事をちゃんと実行しているじゃないか。はは、それにしても……復讐ねぇ」
「それもまた、力を得る動機としては強い物だ。馬鹿には出来ない」
「まあ、それはそうだが。俺は、アレだな……気に入らない」
凄絶な戦いの中、カイムとニヴィーは朗らかな会話を交わしている。余波は確実に届いている筈だったが、微動だにしていない。
少しカイムの方が苛立っている様子でもあるのが印象に残るだろう。
とはいえ、その顔を見ている者は一人も居ない。ニヴィーも含めて、視線はホワル達の方、『ザックが飛び込んでいった』方向に行っていた。
「私にもやらせろぉ!」
分不相応な身体能力しか持たなくとも、ザックはその戦場に足を踏み入れる。
混乱に乗じて、ザックの身に与えられた魔力が再び放出する。所詮は渡された物でしかないとはいえ、魔力はどんどんと彼に手を貸した。
我慢の限界だと言わんばかりに顔は憎悪と興奮で赤くなり、溢れる魔力に毛が逆立つ。とてつもない風と人型の戦争に割り込む為に、魔力の量は今までよりも更に強い物となっていた。
しかし、そんな乱入者の存在をホワルは歓迎しない。必ずや自分の手で復讐を遂げる、その怒り狂った顔が意志を表し、口が言葉として発する
「何だ、お前みたいな腰抜けが何をするつもりだ。俺は自分の手で、自分の手で奴を殺す。あの人が、白の魔王が望まなくても関係無い!」
「黙ってろ! 私も、奴を殺しに行くに決まってるだろうがァぁぁっ!」
二人は言い争いながらも男へ避ける隙間も無い勢いで攻撃を仕掛けていた。
ザックは圧倒的な魔力を無理矢理に用いて、ホワルはその超越的な身体能力で確実に攻め込んでいる。この状況では例え魔王であっても苦戦するに違いない。
「塵が喚くなよ。鬱陶しい、お前等みたいなのに慕われる奴を駆除して、何が悪いんだ?」
しかし、此処にいるのは魔物を狩る事に関しては誰よりも上位に立つ男だ。
挑発的な言葉を一つ吐きながら、迫り来る全ての攻撃を風と槌で逸らし、相手の心理的な状態を読み取って隙を見通している。憎悪の為に周囲が見えなくなった者達の連携は杜撰な物で、彼にとっては幾らでも付け入る隙が窺える戦闘でしかない。
それでもホワルとザックは意志と力を燃やし尽くす勢いで果敢に攻める。守りは最低限で、どんな重傷を負っても退こうとはしない。
当然だ、それだけの理由で彼らは生きているのだから。
「負けるか、負けるかぁっ! 俺は、俺はなぁ……!」
「私は、この瞬間をずっと待っていた、ずっと待っていたんだぞっ……!!」
二つの言葉が重なり、二つの魔力が重なる。
ザックウォーエとホワルが胸にした目的――復讐。
その強くも脆く恐ろしい感情に対して、彼らが取った方法は逆でありながら同じ物だった。
人間を虐殺すれば、白の魔王を殺した人間は必ず現れる。その為にザックは町へ攻め込んだ。
強い魔物を倒していけば、必ず何処かで噂が立って魔物の処刑人と知り合う。その為にホワルは人間の真似をして、同胞の敵へ回った。
二つの魔物の違いは、手段と『白の魔王を殺した者を知っているか否か』、そして『唆されたか否か』程度でしかなかった。どちらも、すっかり正気を失っていた。
感情を力に変えた攻撃は強力だが、無駄も多い。復讐の対象である男の行う一つの究極系とも呼べる巧みな魔力制御によって、全て避けられてしまう。
その余波は森の木々を破壊し、空間に悪影響を及ぼしていく。
とてつもない魔力の塊が収束された風によって弾かれて地面に巨大な穴が開いた時には、傍観するしかなくなっていた魔物達も流石に慌てた。
「おい、このままでは不味いぞ」
「ああ、これでは、どう止めるんだ……」
鎧の魔物と馬の魔物は何とか介入する方法を模索していたが、どうにもならない。幾ら彼らが単体で十分な実力を持っているからと言って、眼前で展開されているのは桁外れの戦いだ。流石の彼らでも荷が重い。
その間にも、世界が軋む魔力が動く。
ザックとホワルは復讐によってその動きを数百倍、数千倍にも高めて、男の方は変わらぬ喜悦でそれを正面から潰している。どちらもこの異界の事など気にしていない。
これを一瞬で解決できると思われる二人は、寄り添う様にして観戦に徹している。誰も手を出さない。
「おい、見てみろ」
「何……?」
そこで何かに気づいた二つの魔物が、周囲の様子を窺う。森だけではなく、この異界全土を見つめているのだ。
それなりの実力が無ければ使えない力によって、魔物達は驚愕すべき光景を目撃した。
この世界中に、山の様な魔物達が並ぶ。
死した者はその身体を修復されて、傷を負った者は治癒されて、問題の無い者はそのままに、全てが『支配』の中で精神を捕らわれたまま立ち上がり、この場を包囲していく。
「蘇生、か……何という無茶苦茶な……!」
「奴め、死ぬ気か!?」
魔物達の驚愕が戦場の中に小さな波紋として響く。
死者蘇生。それはネクロマンサー的な力から現れた生ける屍を生み出す技、などではない。それはまさしく死者を呼び戻し、現世の存在として今一度生命として復活させる力である。
魔王級の力は、それらの生死まで恐るべき出力で覆していた。元々通常の生命体とは違う理で生きる魔物だ、個体事に必要な魔力を提供すれば、人間より遙かに蘇生は簡単だ。
――もっとも、彼が一番蘇生させたいであろう魔物に干渉するには、やはり魔力が足りないのだが。
「来やがったか……」
魔物の接近に気づいて、男が面倒そうに舌打ちをする。その中には生命の危機を覚えた姿は見られず、『踏み潰すゴミが増えた』という残酷で冷たい感情だけが溢れていた。
その反応は、憎悪と怒りに狂っていた二つの魔物の心を更に燃やした。一瞬に現れた炎は両者の魔力を与えられる事で更なる轟炎と化し、空間を浸食しながら焼き払ってしまう。
ザックが炎を作り出し、ホワルがそれを制御したのだ。互いの欠点を戦いの中で把握した連携、それは猛悪な感情に突き動かされるからこそ、発揮された物だ。
「くたばれこの野郎がぁぁぁっ!」
「私達の恨みと一生分の怒り、思い知れぇぇぇぇっ!」
世界を一つ覆い尽くす程に巨大な炎の塊が全包囲から男へと『落ちる』。
それに対して、男は冷や汗を浮かべつつも自らの制御術で大嵐を盾として生み出し、身を守ろうとした。
しかし風は炎に喰われて、世界が悲鳴を上げて――
何かが、壊れた。
+
その瞬間、何が起こったのかを当人達は理解できなかっただろう。それは確かにこの世の存在であったが、同時に居ない筈の存在でもあったのだ。
最後の一撃とばかりに魔力を籠めていたザックも、それを制御していたホワルも、そして彼らを返り討ちにしようとした男も、観客となっていた二つの魔物も、そしてニヴィーですらも、そこに現れた存在の圧倒的かつ大体的な登場に心を奪われる結果となっていた。
男を焼き尽くす筈だった巨大な炎は音も立てずに消滅し、それを弾く筈だった巨大な大嵐は後の余韻の一つも無く消えた。
森に起きていた破滅も破損も全てが元通りになり、地面に生まれていたクレーターは別な物質によって埋め尽くされる。誰もそれを邪魔できない、平伏さずとも、身動きは許されない。
唯一全く動揺の欠片も見せなかったカイムですら、少し関心を抱いた風だ。それほどまでに『それ』はとてつもなかった。
「ひ、っくくく。ひゃはははあ!」
いや、もう一人、動揺はしたが行動していた者が居た。
モーニングスターが『それ』の脳天を襲い、同時に全方向から小さな竜巻を発生させる事で逃げ場を奪い去っている。槌の輝きは今までよりも鈍く深く、紫色の恐るべき液体に満ちていた。
今まで長い間魔物の血を吸い続けた為に、その雰囲気は妖しい。血を求める姿は持ち手に似て残虐で、本能的でありながらも感情的だ。
「無駄だ」
が、攻撃が届かない。全てはあっさりと余韻も持たせずに砕け落ち、風と槌が完全に壊れた。
攻め込む筈だった男は途端に数歩退き、身体を震えさせる。
全ての攻撃が破壊された。
少なくとも、視覚としてはそう感じ取れただろう。
これらは全て、一つの究極とした魔力によって生じた出来事だ。恐るべき巨大さと緻密かつ完璧な制御、その二つが愚かしい程に強い親和性を表したからこそ、実現した。
そして、『それ』はとても自然に戦場へと乱入するのだ。
その瞬間、ザックによる支配が弾け飛び、魔物達は再びこの世界の住人に戻る。
当然だ、それは確かに魔王級の魔力によって作り上げられた強固な力ではあるが、あくまでザックが魔力に物を言わせて無理矢理に押し通したに過ぎない。
そう、『本物』の前には、その程度でしかないのだ。
「は、はは、おい、お前……は!」
喜びに震えた狂笑が響く。
男は復讐に狂う二つの魔物達の存在など、最早視界に入れていなかった。そこに居たのは彼がツーラストに訪れた理由であり、次に殺そうと考えていた処刑対象だったのだ。
魔物という存在の中でも最も上等で、最も恐れられるその存在。
人が、魔物が、それを呼ぶ時に使う呼称は……
「黒の、魔王!」
『黒の魔王』
それは圧倒的に堂々と、微塵の恐れも躊躇も無く、その場に君臨して見せた。
「随分と、派手に戦っているな」
傷一つ無い完全な姿から感じ取れるのは、ただただ暴悪的で凄絶なまでに巨大な魔力と、震え上がる程の『破壊』と『創造』の方向性。
黒の魔王と呼ばれた存在が再びこの世に姿を現したかと思うと、復讐鬼を除く魔物達は揃って平伏する。当然だ、この異界の主であり王である魔物こそこの存在であり、誰もが恐れる化け物なのだから。
しかしながら、魔王自身は部下の姿を気に留めなかった。その顔はひたすらに空を見上げて、忌々しげに顔を顰めている。
珍しい表情と、怒り。それらを籠めて、魔王が呼ぶ。
「よくも、私を生き返らせたな」
一つ言葉を区切り、更に忌々しさを増した視線が上空遙か彼方を貫き、破壊する。
壊れたガラスの様に黒いベールが崩れさり、雲一つ無い虹色の空がそこに広がった。強制的に登場させられたが為にその迫力は少々落ちていたが、しかしながら謎の力が満ち溢れているのは変わりない。
それは天が落ちる様に光っている。少しずつ虹色の不気味な気配は強まるが、今の所は黒の魔王という最大級の魔物が放つ物に喰われていた。
「出てこい」
全てが固まっている空間の中で、魔王の膨大な力と声だけが響く。世界が脈打ち、世界が砕ける寸前にまで音を立てる。
しかし、だから何だというのか。虹色の怪物は世界を喰い荒らし、直し、そして全てを笑い尽くしてしまうのだ。楽しむ為に、喜ぶ為に。そういう事だ。
だからこそ黒の魔王は全霊で受け止める。虹の魔王とは単なる魔王ではない。真に巨大で、正体不明の怪物である。それはまるで……
何であれ、黒の魔王とて虹の魔王は本気で衝突せねば止められないと言う事だ。
そして、とてつもない衝撃が世界に落ち……無かった。
「やっはー! こんにちはっ!」
虹の空が消えて、何時の間にか青年が立っていた。
髪が虹色という事を除けば、全く普通の、つまりありふれた真っ当な人間にしか見えない。いや、そのおぞましい人格の歪みは、常時展開され続ける笑顔が異質さを囁いている。
魔物が恐れている。人間が恐れている。世界がその存在に怯えている。だが、例外は此処に居る。
「虹の魔王」
「やあ、諸君。少しばかり、おっと」
黒の魔王の呼ぶ声に反応すると同時に、青年の身体が暗黒の何かに呑まれた。
その混沌とした球体は一つの青年という姿を飲み干し、少し膨張してから狂おしき音を立てる。破壊しながら創造し続ける無限の連鎖によって崩壊を与えるという技だ。
少なくとも存在を自己の肉体や魂で保っている者であれば一瞬で消し飛ぶ。しかしながら、今回ばかりは相手が悪い、その程度で落とせるエィストではない。
黒の球体が空間上の全てを破壊し続けると、そこは当たり前の様に笑う青年が残されていた。
「無駄だな、あいつがアレで倒せる筈が無い」
「その様だ」
カイムの声にニヴィーが相槌を打つ。特にカイムの瞳は強く青年を見つめていて、そこから見せるのは空虚でありつつ熱気に包まれし『無』の片鱗だ。
自らを消し去る最強の力を宿す男の視線。それを受け取ったエィストは背中を向けたまま手を軽く振っている。
「ねえねえ少しばかり、話を聞いて貰いたいんだ。ダメか。ダメなら無理矢理にでも聞かせるけれど良いね?」
「駄目だ、私を復活させた責任、取って貰うぞ」
覗き込む様に話しかける青年に向かって、黒の魔王の魔力が炸裂する。今度は単に膨大な力で押し潰そうというのだ。
ただ強いというだけの力はそれだけで宇宙を押し潰すに匹敵する威圧を与え、青年の形という形を崩しにかかる。
肉が潰れる音が響く。今度は上手く行ったらしく、人型はどこにも居なかった。ただ、その場所に血溜まりが有るだけだ。
「あっはー、それよりもですね、私は彼に用事がありまして」
何の前触れも無く、エィストは別の場所に立っていた。
確かにその肉は破壊されて血と肉片を散らしている。が、そこに居るのは潰された青年と同一の存在であって同一ではない。別な肉体、同じ肉体を駆使して、当たり前の様に立つ。
そんな不気味極まる怪物が指さす相手は、ザックウォーエだった。
ザックは燃える様な怒りに震えつつも、あくまで動かない。エィストを見つめる瞳は揺れていたが、だからと言って彼に飛びかかる様な真似はしないだろう。
「ザックウォーエ君、いやぁ、よくやってくれた。君は本当に素直で、愚かだったよ」
馬鹿にしつつも、賞賛が混ざっている。そんな嫌味らしき口振りに大きく反応して、ザックは見開いた目と共に感情を剥き出しにする。
「……どう、いう事だ! 私は、白の魔王を殺した者への復讐を……!」
「それだよ、それ。君を踊らせるのは楽しかった。ホワル君もご苦労様、カイム君を飛ばして貰ったから、良い刺激になったよね?」
「貴様……!」
「あっはは、沢山魔力を渡してあげたんだから、感謝して欲しいなぁー?」
そこで初めて、ザックから発せられていた巨大な魔力の正体が明らかとなった。
ただ、驚いた素振りを見せるのは鎧と馬の魔物達だけだ。他の者達はザックの弱さを殆ど知らず、カイムは『貰い物』の正体が見知った何かの物だと気づいていたのである。
そんな淡泊な反応が微妙に不満なのか青年は一瞬だけ頬を膨らませたが、すぐに評定を不気味な笑みへ改める。それは、悪鬼の様な企みを抱く怪物のソレに相違無かった。
「彼女からの頼みでさ、復讐を企む子を助けてくれって、でも……ふふ、『どうやって』助けるかは指定が無かったんだよ。死に瀕していて、言葉に余裕が無かったんだろうね」
「ふざけるな!」
「でもほら、君の願いは叶ったじゃないか。彼女を殺した犯人は今、此処に居るだろう?」
男の事を指さしつつ、迫り来る大嵐をあっさりと無風に変える。
他者の魔力の方向性にまで干渉するとてつもない技能だ。通常なら暴発にまで持ち込む事すら不可能なそれを、おぞましき性能によって実現しているのである。
「やれやれ、見境無しかい。君の中じゃ魔物は最優先で殺す対象なんだろうけどさ」
「お、おおおお! お前が噂の虹の魔王か、うん、これは怖いな、噂通りに意味不明だ。ああ、でも死ね」
虹の魔王を前にしても欠片もブレずに男が砕けたモーニングスターを風で纏めて修理を行い、それを握るより早く踏み込む。
その瞬間には、既に青年の目の前に男が居た。そこには風で形を整えた槌があって、丁度男が掴める場所に飛ばされていた。
一撃を打ち出す為に、彼は全身全霊で青年の身体めがけて腕を振った。
それは、明らかな隙である。
動揺と混乱に包まれていてもホワルとザックは男の動きに隙が出来たと見ると、瞬時に憎悪と憤怒を燃やして動いた。
やはり魔王級の巨大な魔力が纏めあげられ、今度はホワルがそれに飛び込む事で絶大な身体強化へ用いられる。
とてつもない魔力を扱う部分まで全てを強化し、その身に合わない巨大な力から来る地獄程の痛みと軋む肉体に耐えながら、それは瞬くよりも早く男の背中へ一斬を加えようとする。
「だから、無駄でしかないんだがなぁ」
「ああ、通らないか」
見事な連携と隙を突いた一撃。しかし、それが届かない事をカイムは知っている。それを聞いているニヴィーも、直感でそれを理解する。
そして、その通りになった。
男が持つモーニングスターはとてつもない勢いのまま青年の身体に叩きつけられ、その衝撃で砕け散る。
背中を襲っていたホワルは砕けたモーニングスターの破片が剣に衝突した事で身体が逸れて、青年の隣に勢い余って倒れ込んでいく。。
その倒れ込むホワルの足は偶然にも男の足首を裏から蹴り込む形となる。その予想外の衝撃に男は驚き、青年から跳び退いた。
「そら、ザック君」
ザックに向けられた声が響く。
男が退いた先に居たのは、紛れもないザックだったのだ。彼は唐突に来た復讐の機会に微かな驚きを見せたが、そんな物は強烈な感情の前にあっさりと吹き飛ばされて、即座に魔力による攻撃を行う。
「う、おお!?」
これには流石の男も不意を打たれ、自分を殺す為だけに組み上げられた力に対して自身の魔力で防御を行う。
こう唐突に来たのでは制御も完全ではなく、かなり押されてしまう。加えて黒の魔王と虹の魔王への警戒にも意識を裂かねばならず、不利な状況に立たされた男が舌打ちを一つ吐く。
それでも彼は意地を以て死守した。ザックでは魔力の制御と使用に難が有る為、その隙を突破したのだ。
「く、くそ、が……」
肩で息をしつつも、男は青年と黒の魔王を睨みつける。
青年は、何もしていない。ただ槌による一撃を黙って受けただけだ。しかし、結果はこの通りである。
ただ防御しただけで相手を黙らせるこの強さ、異様である。
「私は、正確に言うなら虹の魔王の端末さ」
「どうでもいい。私は、何故生き返ってしまったのかを聞いているのだがな」
ホワルが起き上がり、ザックが力を使った事で疲れはて、男が荒い呼吸をしている時、黒の魔王は再び虹へ攻撃を仕掛けていた。
今度はより巨大な力が異界中に広がり、一気に青年という形、その奥深くに有る存在へと攻め込む。本来は大型纖滅の用途が有るのか、今までは他の者達が邪魔で使えなかったのであろう。
破壊の通り道は明確に青年だけを狙っていく。これにはエィストですら笑みを深め、自らに迫る力を危険な物から避ける。その課程で彼は大きく跳躍し、声を広げた。
「ザック君!」
疲れきったザックがかろうじて顔を上げ、青年の姿を睨む。
エィストの髪は虹色の輝きが強まり、異常さは数割増しだ。破壊によって片手と腹部が消滅したが、気にもしていない。
「私の誘いに乗ってくれたお陰で、イベントを起こす事が出来たんだ。誇ってくれ、おめでとう!」
腐りきった嫌味にも聞こえる感謝と喜びが不気味に響く。
しかしながら、それに対して誰かが感情を抱くその前に、青年という形は完全に滅されていた。
虹の魔王と呼ばれた存在の端末が一つ完全に消え失せたのと同じ瞬間、カイムとニヴィー、特にカイムは嫌そうな顔を晒していた。
普段から強さと力にしか興味を抱かない存在としては珍しく面倒臭さで疲れた顔をしていて、その感情は間違いなくニヴィーにも電波している。
彼女のまた、釣られた様に疲れを表していた。いや、もしかするとカイムとの戦いの疲労が残っているだけかもしれないのだが、今はそうとしか見えない……とはいえ、評定の変化は微々たる物だ。無表情ではないが、冷たい雰囲気は維持されている。
二人ほどの人物にそんな顔をさせる者、それは彼らの横に立ち、黒の魔王が起こした絶対の滅びを面白がっていた。
「やーカイム! おひさ! いや、全然久しぶりじゃねーかな? まあいいや、それより楽しんでる?」
ウルトラハイテンション、そんな奇異なる単語が浮かぶ程に馬鹿らしく、機嫌の良さそうな声が響いている。
大きな声、しかし、この場に居る者達で彼の存在に気づいたのはカイムだけだ。黒の魔王ですら、青年を一時的に撃退したと思っている。
そして、今の彼は通常よりも酷い態度だ。酷すぎたらしく、カイムは自分の手で顔を覆った。
「……はぁっ」
「うわお唐突で意味は分かるけどちょっと理不尽な溜息を受けて私のエンジェルでグラスなハートが軋んじゃいそうだ」
「軋みながら死んでくれると嬉しいんだがな」
「またまた。それで私が死んだら残念がる癖にっ」
「……まあな」
図星を指されたのか、カイムは頷く。百度の戦いで思う所が幾つも有ったのだろう。その瞳に嫌悪や敵意は有っても、憎悪の類は何一つ無い。
罵声を浴びせ、殴る。それもまた選択肢の一つだろうに、彼はそれを取らない。分かっているのだ、エィストという精神には『こちら』の方が有効なのだ、と。
「え、あ、うん。そうだね。さ、流石カイム君、今のはちょっと効いた、かな、えへへ。残念か、そっか」
この存在、大抵は純粋な好意には初な乙女以上に弱いのだ。
化け物の様な、いや実際に化け物の精神と化け物の存在を抱く化け物であり、そこには人にあってしかるべき感情など無い。無いのだが、普段は敵意を向けられるばかりの身だ。好かれる事には基本的に慣れていないのだろう。
欠片も偽らず欠片も隠さずに本心から好意を寄せる事。それはある程度の、つまり会話としての対抗策では十分に有効なのだ。勿論、少しの間の影響しか与えられないのだが。
「いや、お前と俺は一度も戦っていないだろう? 虹の魔王さんよ」
「ふふ、果たしてそうかな?」
何処か意味深げな顔をした時には既にエィストは元の笑顔に戻っていた。
照れる姿も、今の形も、大きな目で見れば変わらない。この存在はそれくらいで何か変わる物ではなく、ある一種の怪物としてはこれ以上無いくらいに強固で揺るがぬ自己を持っているのだ。
カイムは精神的な部分での動揺で隙を生ませる、という策を百度の中で幾らか試し、意味が無い事を知っている。その為か、彼は面倒そうにしながら話題を変えた。
「それで? 何で俺は此処に居る?」
「あ、それ聞きたい? 聞きたいかー、聞きたいよね」
「言っておくが、あの連中と関係が有るなら、怒るぞ」
顔だけで復讐者達を指し、馬鹿馬鹿しい愚者を見る瞳を見せる。
彼らの復讐も怒りも、憎悪にも関心が無さそうだ。少年に向けられた物に至っては、不満の様な物すら感じさせた。
それを見たエィストが盛大に嘆く様な素振りを見せる。
「あんなに可哀想なのにね、冷たいなあ」
「……あのな、良いか? 知っていると思うが、俺には奴等の事情とか、人生とか、運命とか、全くまぁっったく興味が無いんだ。俺が求める物は、アレ等の気持ちじゃない」
『お前だって知っている癖に』
そう言いたげに、彼は朗々と断言する。
「即ち『力』。それだけだ。復讐だの何だのは勝手にやってろよ、奴等が無駄に時間を使うなら、俺はその時間を使って更に己を高めるだけだ。そんな俺の邪魔を、何故お前がする?」
「またまた、気づいている癖に言うじゃない」
一意専心という名の狂気を見せつけた彼に対するエィストの反応は軽い物だ。
場所が場所、時代が時代であればカイムという人物は世界すら滅ぼす悪鬼となる事も有るだろうが、エィストにとっては単なる『自分に挑んでくる楽しい男』くらいの扱いでしかない。
そんなエィストは流れてくる『無』の気配と本人の熱意を受け流し、その隣に居るニヴィーを見つめる。
彼女はまだ、エィストの存在に気づいていない。これほど至近距離での会話が行われているというのに、気づけない。
それもまた『エィスト』による干渉だ。『無』を宿すカイムだからこそ影響から逃れられるが、他の者では無理という物だ。
エィストという名の青年、いや怪物はその軽薄とも混沌とも言える笑顔のまま、彼女に向かって敬礼を行った。
「はじめまして、かな? ニームット・ヴェンヴィーさん。ふふ、いやいや、見当違いじゃなくて良かった。お見合いの仲介人ってこういう気分なんだろうね」
訳の分からない事を述べながら頭を下げている。
そんな挙動を見せつけても、気づかれる筈が無い。真に怪物的な存在を知覚する能力が彼女には備わっていないからだ。
その、筈なのだが。
「ん……? いや、そうか。よろしく」
ニヴィーは挨拶の言葉で青年の顔を見て、微かながら困惑しながらも返礼を行う。
あり得ない光景だ。しかし、エィストは嬉しそうに笑うだけで、驚かずにカイムへ胸を張って見せた。
「ほら、私の影響から逃れたよ。分かってると思うけど、何も変えなかったからね?」
彼女は、エィストの隠蔽を自力で破ったのだ。確かに話しかけられるという形で気づき易くなっていたが、そんな理由で突破できる物ではない事は明らかである。
「……分かってる。で、だから何だ」
それでも彼は驚かなかった。
いや、ニヴィーという人物が抱える『それ』の正体に気づいていたのだ。あの戦闘の中でか、会話の中からか――それとも、共感を抱いた最初からなのか。それは、本人にも分からない。
分かるのは、エィストという存在が二人をとてつもなく面白がっているという事だ。
「いや、背中をね、押そうと思って」
「何の、だよ」
「分かっている癖に」
悪戯っぽい返答に、カイムが口を閉ざす。
彼は分かっていた。この享楽主義者がカイムをこの場に送る理由は一つ、楽しむ為だ。
そして、この怪物はどんな事でも楽しむ存在ではあるのだが、一方で他人の幸せを喜ぶ性格の持ち主なのだ。他人の不幸が蜜である様に、他人の幸福は砂糖なのである。
そんな存在がカイムを幸せにする、『百回目記念のプレゼント』。それは、つまり。
「……虹の魔王、いや、あなたは誰だ」
そのつまりである女、ニヴィーが若干の警戒と共に次元的形容不能存在エィストの端末を見つめる。
身から放つ魔力は巨大で、何故かこの存在にまで僅かな影響を与えていた。一応の損傷は追わせているのだ。
青年の首に亀裂が走る。それこそ無惨で無慈悲な死を思わせるが、半分以上胴体と頭部が離れてもエィストは笑い続けていた。
「あはは、今度話すよ、ニヴィーさん。長い付き合いになりそうだしね、とっても、うん、とっても」
「意図が分からない」
「前からカイム君にもちょっとお休みが必要かなって、大丈夫、君の幸せにもなるよ」
「お前の善意は押しつけがましい上に勘違いが混じってるんだよ、結果はともかく過程が酷くなりそうだから止めろ」
「むむ、信用されていないね。これでもみんなの事を考えて行動しているつもりだよ?」
酷く不審がられていても、青年は全く傷ついていない。むしろこの状況を楽しみ、遊んでいる風ですらある。とてつもない胡散臭さで、到底人に信用されようとは思っていない様子だ。
「……お前」
その奥底に存在する、どうしようもない不気味さ。異質さを感じ取ったのか、ニヴィーとカイムは殆ど同時に目を細めた。
しかし、その時だ。エィストを構成していた何かが劇的に変わる、いや、元に戻ったのはその時だった。
「ほら、ね?」
存在定義、概念、あるいはそれ以外の何か。その当たりの事が一気に変わる。それまでのエィストとはまた違う、もっと雄大で圧巻の存在感だ。正体不明さがより増し、
しかし、その存在を知覚したのはカイムとニヴィーだけだ。その意図と正体を理解したのは、カイムだけだ。
「お前……『エィスト』か!?」
「正解!」
頷くと同時に、カイムの素早い干渉によって青年の身体が砕ける。
しかし、残った身体の一部分だけがニヤニヤ不気味に微笑み、とてつもない力を放出した。
「あっは、さあ!」
叫び声一つと共に巨大過ぎる力が音も無く爆発し、重く狂おしい気配となる。
それは虹の魔王ではなく、『有なるもの』の端末だ。あらゆる概念を越えた先に在る、本当に本物の悪夢だ。そんな物が起こす物事が、真っ当で終わる筈も無い。
誰でも、分かる。
「ふっ……!!」
ニヴィーの絶大な魔力と圧力が一気にエィストに向かって押し寄せ、それらが乗せられた渾身の蹴りが飛んだ。
半壊していた青年という形は最早完全に壊れて、そこに散る。粉塵と化した虹色はどんな毒よりも吸い込む事を嫌悪させ、二人の男女を同じ位置にまで後退させた。
しかし虹は止まらない。世界の何にも悟らせず、気取らせず、ただ侵攻する。進撃する。
「クソッ……」
世界を巻き込む勢いでカイムに干渉が行われていた。百度目の戦いと同じく、『無』を喰う勢いが止まらない。逃げられる筈も無い。
彼でさえそうなのだ。ニヴィーでは耐えられない。
ただし、カイムは庇わなかった。この女が庇護を受ける様な人物ではない事くらい分かっている上に、そもそも他人を気にする余裕が無い。
そして、悔しくもそれが決して有害な物ではない事をカイムは知っていたのだ。
行われているのは精神への干渉。とてつもない強制力が二人へと割り込み、とけ込み、根本的に一体化させていく。痛みは無く、危機感すらも覚えさせずに効力が発生する。
二つの存在が、どんどんと流れ込み……




