第1話 0歳:木漏れ日の揺りかごと言語の壁
ふんわりと暖かい光。まぶたの裏がぼんやりと明るい。耳の奥で風が揺れる音や鳥の鳴き声、そして独特な甘いミルクの匂いと乾いた藁の匂いが溶け合ったスープみたいに、日常の気配が意識の中へ流れ込んでくる。
(……あ、れ……? おれ、たしか……深夜のオフィスでデスクに突っ伏して……)
頭の中はモヤがかかったように重く、まとまらない。前世の記憶——過労死するまでシステムを構築し、エラーログと格闘しながらキーボードを叩いていた自分という存在すら、古い夢の破片みたいにぼやけていく。
「※※※※、※※※※※※※※? ※※※※※※※※※※」
顔を覗き込んできたのは、柔らかい影を落とした栗色の髪の若い女性——のちに母親のエレナだと知ることになる人物だった。彼女の唇が動き、聞いたこともない未知の言語の音が耳を掠めていく。まるで水底から聴く泡の弾ける音のように、言葉の響きだけが耳に届き、意味はひとつも頭に入ってこない。生まれた瞬間に世界の言葉が自動で分かるような、都合の良い翻訳チートなんて俺には与えられていなかったのだ。
だが、直後に口元へ押し当てられた温かい乳首から広がる人肌のぬくもりと、甘く濃密な母乳の味に、思考は完全に停止した。ゴクンと飲み込むたび、喉を通る生暖かい感覚。生きるために無心で乳を啜る自分に、前世の大人の尊厳も何もあったものではない。
(……なにか……はなしてる……。……あかちゃん……なんだ……おれ……)
お腹を満たした後に待っているのは、容赦のない生理現象だった。下腹部に覚える不快な温かさと湿り気。自分では括約筋ひとつどうすることもできず、不快感に耐えかねて「おぎゃあ」と情けない声を上げるしかない。
すぐに駆けつけた若いメイドが、古布のオムツを手際よく外す。ツンと鼻を突く酸っぱい尿と便の匂い。温かい湯で絞った布で、お尻や股の汚れを擦られないよう優しく拭い去られ、仕上げに爽やかな薬草のオイルが塗り込まれる。首のシワや手足のくびれに溜まった汗や汚れを丁寧に拭われるたび、赤ん坊のデリケートな皮膚が外気に晒されて微かに震えた。
身綺麗にされ、再び柔らかい布でふんわりと包まれると、手足の感覚は重たい粘土を抱えているように遠のいていく。
ぼーっとした意識のまま、ただ自分の内側に流れる「へんな感じ」に焦点を合わせてみる。
視界の裏側——肉体の深部で、青白く光る細い糸みたいなものが、ゆらゆらと不規則に脈打っていた。
(……これ……は……)
思考のまとまらない赤ん坊の脳みそでは、それが何なのか言葉にできない。だが、過労死するまでデスマーチの現場で汚いコードを何百万行も削ぎ落とし続けてきた「職人の指先」が、魂の底から拒絶反応を叫んでいた。
——気持ち悪い。歪んでいる。今すぐ直せ、と。
なぜそう感じるのか、理由なんて分からない。ただ、絶望的なまでに「美しくない構造」を見せつけられたときの本能的なムズムズ感と、最適化せずにはいられない強迫観念だけが、未熟な肉体を突き動かしていた。
体内のそれは、あまりにもお粗末だった。糸の太さは不均等で、あちこちが不自然に折れ曲がり、熱を帯びた澱みとなって絡み合っている。
理屈ではなく、ただ魂の底に刻み込まれた習性が、歪んだ回路を放っておくことを許さない。言葉もまともに通じないこの世界で、俺の幼い意識は、極細のピンセットを手繰るようにして絡まった青い糸へと無意識に手を伸ばした。
——バチッ。
(っ……あ、つ……!?)
絡まった糸の一本を、ほんの少し強引に引き剥がそうとした瞬間。
体内で小さな衝撃が弾けた。一過性の熱が血管を逆流し、華奢な心臓がドクンと激しく跳ね上がる。制御を失ったわずかな魔力の暴走。赤ん坊の脆弱な肉体には、それだけで呼吸が焼き切れるほどの負荷だった。
「※※※!? ※※※※※※※※!?」
突然顔を真っ赤にして苦しそうに呼吸を乱した俺を見て、覗き込んでいた影——母親が弾かれたように悲鳴を上げる。廊下をドタドタと走ってくる重い靴音、慌ただしく交わされる意味の分からない怒号。俺の拙い「手出し」のせいで、館中が一瞬にしてパニックに陥ってしまった。
(……くそ……。一気に……引きちぎっちゃ……ダメ、だな……)
激しい疲労感と、熱病のような気だるさに包まれながら、俺は大人たちの慌ただしい声を聞きつつ、強制終了されるように深い眠りの底へと沈んでいった。




