青春とは程遠い生活
二作品目の短編です。
人生をゲームとして捉えた時、恋愛は最高難易度のミニゲームになると思います。
2026年06月24日 21時19分に修正しました。
令和八年。桜が遥か飛んで行った季節。涼しげな新緑が生き始めた。そんな中、柔らかい微笑みを晒しながら肌を撫でる風と、甘えを許さない日照りが日本列島を右往左往しながら歩いていた。
人間たちは翻弄されながらも、常に進んでいく日常に追いつくためにマラソンを続けている。身体中から塩っ気を含まれている無色透明の液体が浮かんでいた。
例にもれず、緊張状態からゴールデンウイークを経て心身の不調が表面化している人が多い。どれほど不調を訴えても授業は進み、体力テストは行われる。部活は活性化し、顧問たちの怒号が響き始める。そんな世界に趣を感じるのかは、各個人にしか分からない。
リノリウムの床に力を与えながら、スラックスが前へ移動していく。ホワイトブロンドの髪は、廊下の先から流れていく薫風で前髪が微かに浮き上がる。さほど広くないおでこが晒されるが、高校生にしては珍しく、目に見える肌トラブルが少なかった。
色素の薄い肌からは、いかに外で活動していないのか。はっきりと見える物的証拠になっている。
少年の視線の先には、閑散とした教室棟二階廊下。五月に形容されるような温もりは、既に撤収したようで。残るのは反射を繰り返す音と、ノイズになりえる外部の音だけだった。
少年が足を止めたのは、図書室。引き戸の扉を開けると、小さく空気の濁流に身を任せている埃が光に反射している。司書は見渡す限り居ない。
握り持っていた手持ちかばんを、カウンターの上に置いた。カウンターを周り込むように内側に入ると、決して表側から見えないように出欠表がある。少年は縦軸にある名前、灰先霞を左指で指さす。
そのまま、横軸の日にちを見ながら指を横に動かしていく。安いコピー用紙の結果、表面の凹凸が少しあり、インクやトナーの乗りが明らかに粗い。
出欠表近くのボールペンを手に取り、ボディーとグリップを右人差し指から右小指で完全に握る。余った右親指の指腹でノックボタンを押した。アナログなボタン音が静けさの壁を貫く。
握っていた四本の指を解く。そのまま中指の側面で土台を作り上げてから、親指と人差し指の指腹で支える。
出欠表のセルを指さしている左指の所に、ボールペンで起点と終点が整っていない雑な円を描く。再び人差し指から小指で握り、ノックボタンを親指の指腹で押し込んだ。そのまま、雑にその場に置くと、重力に従って出欠表の上に軽いプラスチックの音が木霊した。
その音は、静かな図書室の中を明確に空気を切り裂いていく。
そのまま、灰先は視点を上げた。彼が向いた先には貸し出していた書籍を戻す、返還ボックスが置かれていた。段ボールの箱に積み重なっている書籍は、遠目から見てみれば二桁は積み重なっていそうなものだった。
返還ボックスそのものを持ち上げて、インナーデスクに置いた。ゴトッと重々しい音を鳴らして、存在感を示す。近くの椅子を引き寄せて、インナーデスクの引き出しから貸し出し表を取り出す。未だにアナログ染みている物だが、心理的安心感は格別だった。
出欠表の上に落としていたボールペンを拾い上げて、書籍のタイトルと貸し出し表に書かれているタイトルを照らし合わせる。出欠表と同じように縦軸と横軸を確認しながら、セルに雑な円を描く。この行動を何度も繰り返していく。
世間が話すような青春はここには存在していなかった。友人らと遊ぶ。部活で本気になる。異性間、同性間関係なしに恋愛をする。灰先には無縁のものだ。
黙々と処理していくと、ライン業務のような手つきになっていく。自然と最適化していく腕の動きを見ながらも、余計な仕事を増やしたくない一心が垣間見える。
確認作業そのものは、数分もあれば完了する話だった。確認作業そのものが終わった後、ページをパラパラと漫画のように流す。汚れや傷が無いのかを確認していく。
「高校生にもなって、変なことをする人間は居ないと思うけど」
口では、文句を垂れながらも作業をしていく。元々与えられたタスクをこなしているだけ。ふと、灰先は、手に持っていた書籍をインナーデスクに置いて立ち上がった。窓を開けた。換気をすると、すぐに効果が表れた。
微かに汚れた空気は外へ流れ、空白を埋めるかのように真新しい空気が図書室へ流れ込んでくる。呼吸がしやすくなった感覚が生まれた。
俗に言うプラシーボ効果だとしても、実際に経験している人間が感じてしまえば、それは感性に基づいた個人の感覚に過ぎない。外野がどうのこうの口にしたところで、本人には関係ない。
修正したがる現代人らしいと言えばそうらしいが、個人主義に動こうとしても個人に成れない気質が見える。
灰先は再び元の場所に戻ると、やるべきことを続けていく。早く終わらせれば、残りは自由時間になる。給与は発生しないが、莫大な書籍を無料で読めると思えばいいものだ。好き勝手に知識を蓄えることができる。
これを幸福と呼ばずして何と呼ぶのか。灰先には分からない。
図書室の向こう側から足音が苛烈になっていく。微かに開いていた引き戸と、壁の隙間から手が流れ込んでくる。灰先と似たような色素を演じている。
ガラッと音を立てて、図書室内に駆け込んでくる。茶髪のミディアムヘアは、軽く乱れている。額から液体が零れている。汗なのか冷や汗なのか。彼女にしか分からないものだった。
軽く図書室内をぐるりと一瞥してから、灰先を見る。
「ごめん。灰先くん、君の足元に隠れてもいい?」
「構わないけど。宮水はあっちから回り込んできて」
駆け足で回り込んで、インナーデスクの下に隠れた。宮水と呼ばれた彼女は、息を潜ませた。ただの鬼ごっこにしては切迫しすぎていた。灰先は気にすることなく作業を進めた。四つん這いで、膝が汚れることすら顧みることなく。彼の脚の間に入る。自然と灰先のふくらはぎを掴む。
廊下から歩みが明らかに遅い振動が図書室内まで響いていた。灰先は視線を一瞬下に向けた。宮水が露骨に恐怖心を抱いているのが、対外的に見ても明白だった。ふくらはぎを通じて震えは信号として、彼の脳内に伝えられる。さらに言えば、彼女は頭を下げて地面と向き合っていた。
外に居る人間を見たくないかのようで。
灰先からできることが少ないのは、嫌でも理解できる。
一教室、一教室と。宮水が恐怖を抱いている人間は巡回しているようだ。この時間というのもあって、開かない教室も当然ある。その教室を開けようとしているときが、最も音が響く。教師たちが異変に気付いて二階に上がってきそうなものだ。
しかしながら、ここは教室棟。
放課後の教室棟に来る教師なんて少ない。来たら奇跡だと考えた方が良いだろう。
近づくたびに、音と比例して宮水の震えが増していく。呼吸すら乱れている。カウンターに置き続けていた手持ちかばんを引き寄せて、中から開けていない水入りペットボトルを差し出す。
意外と素直な話で。
宮水は素直に受け取って、安定しない手元を抑えながら蓋を開けて飲む。
「ありがとう……」
「気にしないで。本当なら飲ませてやれば良いんだけど」
灰先は手首を掴むようなジェスチャーをしながら、小声で言語化した。
宮水は軽く首を横に振る。今の彼女に小動物のような愛くるしさを見出してしまう。極度のサディズムを持っているのかと。自覚する材料になってしまう。
露骨に灰先は重たすぎる呼吸を口から吐き出した。ため息と呼ぶにはネガティブは含まれていない。かといって深呼吸のような清廉さは含まれていない。
図書室へ来客者が現れた。灰先は表面上は図書室での業務を淡々と済ませている。ただ、宮水が居る足元では別の感情が渦巻いている。
彼女から震えが消えた。友人かと思われるが、そうでは無さそうだった。宮水の反応はまるで、闘争か逃走か反応のよう。身体が一時的にパニックになっている。
入って来た来客者に対して灰先は視線を運ぶ。そこには、学年一の優等生であり度々王子様だと揶揄される女子生徒が立っていた。ブレザーのボタンは外し、ネクタイやリボンの類は見えない。豊満な胸を隠すことはなく、第二ボタンまで開けている。典型的な記号を身に着けている。
「灰先くん一人だけ?」
「うん。王子様の白崎がわざわざ図書室に足を運ぶなんてね。珍しいこともあるもんだね」
「……そうかな。そんなことはどうでもいいじゃないか」
軽く手を挙げてから、図書室内を歩き始める。その動作は、目当ての書籍を探すようではない。興味のあるタイトルを探しているようだったが、視線の動かし方が不安定で揺れている。長らく図書委員として、過ごしていれば自然と分かってしまうものだ。
そろそろ人間観察が趣味の領域に入りそうで、拾い上げている書籍を掴む手が強くなる。文庫本の表紙に親指が乗る。そこを起点にⅤ字へ割れてしまいそうだ。すぐに、親指は文庫本の背へ移動していく。器物破損をするわけにはいけない以前に、書籍に対して乱暴に手を動かすことができなかった。という方が正しいのかもしれない。
宮水の様子は変わらない。完全に凍結してしまっている。白崎が居る限り今から改善しないのは明白だった。ただ、灰先から出るように指示を出してしまえば、疑われるのは自然の摂理。
ただ、飽きて出ていくことを祈るしかない。無力の塊である灰先は如何にして、カウンター側に寄せないか。そう考えるしかなかった。首を先行して白崎で確信できるものだ。
白崎の歩幅が狭くなってきた。足の回転数を上げて刻むように図書室内を歩き回っている。同時に、上半身が前かがみになっていた。
小さな舌打ちが聞こえた。
灰先は気にする様子はなかった。淡々と目の前のタスクをこなしていく。ただ、溜まっていた書籍は確実に減っていた。できることならば書籍が消える前に、白崎が退室していくことに賭けるしかない。
「灰先くん。椿を見てないかな?」
「椿……あぁ。宮水ね。見てないよ。宮水になにか用事でもあるの?」
「用事って言うほどじゃないけどね」
カウンターの方へ歩いてくる。迂回して灰先の隣に来る気配はない。そのまま、白崎はカウンターで頬杖をつく。胸が押しつぶされて溢れている。ただ、彼女自身は身体のことよりも、目の前の灰先を見ていた。
ただ、瞳には灰先は映し出されていない。なにを映しているのかは、灰先から見えることはない。サトリの能力なんて持っていないのだから。
「匿っていたりしない?」
「急にどうしたのさ。脈略なさすぎるでしょ。普段の白崎からとは思えない言葉の運び方だよ」
「そんなことないと思うけど。質問に答えてもらっていいかな?」
「質問の答えはノーかな。匿う理由もないしね」
灰先の回答はつまらなそうだった。ここで、匿っていると答えてくれるのならば、どれほど楽なのか。白崎の立場を考えたくなくとも、自然と考えてしまっている灰先。できることならば、このまま諦めてくれるのならば、彼の立場から見ても嬉しいこの上ないだろう。
ただ、白崎はそう簡単に諦めてくれる様子がなかった。「ふうん」とありがちな挑発言葉を口にしてみる。一般的な挑発に乗るほど、灰先は綺麗な人間ではなかった。書籍を確認をしながら、白崎の言葉を待っている。無駄に口を開く必要性が無いと理解しているようだ。
「場慣れしているの?」
「どういう場なのさ。一対一で会話することならば慣れているのかもね」
「それもそっか……話は変わるけどさ、カウンターの下には何があるの?」
急な方向転換。ただ、求めていることは同じだろう。灰先はインナーデスクの下から取り出したのは、入りきれなくなって段ボール詰めにされている古い参考書たち。平成の分が詰められている。予想外のものが出てきたことに、白崎は小さな笑みを浮かべた。
本心なのか。出ていくための方便なのか。常に二択が現れていたが、触れなければ問題なんて起きやしない。灰先は軽く頭を傾げて、質問に答えてやったと。言葉にせずとも伝える。白崎は頬杖を解いた。まるで、降参と言わんばかりにカウンターから少し離れる。
「そういうのばっかり置いてあるんだ」
「基本はね。申し出てくれれば、この年代の参考書も貸し出せることできる」
「思った以上に逞しいものだね。ごめんね。仕事の邪魔をしてしまって。また明日」
白崎はそう言いながら、図書室の出入り口に足を運んだ。一度だけ、扉の方から視線を感じるが、灰先が向いた時点では白崎の足音が遠くへ離れ始めていた。途中はどうであれ、目的は達成できた。
彼が横目で出入り口の方を流し見した後に、宮水の頭を軽く二回たたく。髪の弾力が生じて、灰先の手のひらを押し返す。それだけで、水宮がどれほどに良い生活を営んでいるのか分かるものだ。
微かに頭が動き、前髪の隙間から彼女の瞳は見上げた。その視野の先には灰先の瞳がある。
引き込まれる。
感情の変動が少なくて、好みが別れる瞳。
高校生にしては、インパクトがあったようだ。
「どうしたの」
灰先が見下ろしながら、言葉を重力に従わせて落とした。平凡な言葉の声掛けであることに間違いはないのに、頭に降り注いだ彼の言葉の重さを堪能する。人の言葉を身を使って感じられるのは、贅沢なもので間違いはないだろう。
灰先のふくらはぎを掴んでいた手は、自然と頭の頂に重ねられた。言葉を閉じ込めるかのように。躊躇いは何一つもなかった。
「なんでもない。ありがとう灰先くん」
「どういたしまして」
お礼に対する謙遜の言葉を口元から零れ落としながら、椅子を後ろに押しながら立ち上がる。視野が広がると、宮水は目元を細めていく。
ただ、数十秒もすれば明順応と同じプロセスを経る。ある程度慣れてくると、そのまま両膝だけで前へ進めようとする。
当然のようにスカートを巻き込んで前に倒れ込んでしまいそうになる。「きゃっ」と子猫のような声を漏らしながら、両手を前に着く。
灰先へ頂点部を晒すことになるが、宮水は焦る様子はなかった。床を見ていた視線は上がり、彼の方に向けられる。
下手な笑みを浮かべながら、右の踵を床につけてから立ち上がる。足を痺れてしまっているのか、膝の脱力感が声なき産声を上げていた。
そのままフラフラと足元は笑う。
そのまま、前のめりに身体を遊ばせて倒れていく。目の前には灰先。そのまま彼の両二の腕を掴んで、立ち止まる。不信はない。白崎に差し出さなかっただけで、ここまで距離が近づくことが問題だと思いながらも、灰先は避けることはしなかった。
「大丈夫か?」
「大丈夫……じゃないかも。落ち着くまでこうさせて」
方便なのは理解できてしまう。ただ、恐怖の吐きどころを探していただけのようだった。目の前に灰先というちょうどいい男がいただけ。
ただそれだけだろう。
灰先は彼女の背に手を回したりしなかった。ここで、一か八かに出るほど妄想的な人間ではなかったようだ。しかしながら、明確に空想と現実を分けている時点で、他人よりかは成熟しているのかもしれない。
何分経過したのだろうか。宮水は離れた。彼の袖がしわくちゃになっている。灰先は視線だけ動かしてみるだけで、それ以上のことはしなかった。
というよりも、宮水が声になっていない言葉を口の動きだけで表現して、袖のしわを直してくれている。灰先は完全に彼女の好きにさせていた。
一歩だけ離れて、灰先の目を見た。
「灰先くんって、受動的なんだね」
「そうだね」
「否定しないんだ」
「事実を否定した所でメリットないから」
淡白な会話の応酬だった。それでも、宮水の機嫌は変わることはなかった。今どき珍しいタイプの人間だった。味付けが薄いものを差し出されても、最後まで食べきる人間は少ないだろう。
彼女はカウンターを回りながら、言葉を探している。出入り口前に身体を移動しきった時、灰先の方を向く。
「邪魔したね。改めてありがとね」
「どういたしまして。ゆっくり帰りな」
「うん……灰先くん。明日もここに来てもいいかな?」
「好きにしな。基本的に、昼休みと放課後は開いているから」
事務的な声の反射。それでも、満足したように綻ばせた。
「また明日。灰先くん」
宮水は言葉の置き土産を預け、そのまま警戒するように図書室の外を見る。一度、深呼吸をしてから廊下に出て、歩き出した。灰先はその足音を聞きながらインナーデスクに目を向ける。
「恋は普通の娘を女神と間違うこと。とはよく言ったもんだ。まして一神教が基本のこの世界じゃ当然のことか。ただ、生きている人間に妄信しているだけマシなものかもしれない」
そう呟きながら、最後の書籍を確認をした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
短い物語にお付き合いいただけて、とても嬉しいです。




