第3話 四天王の要件定義は5秒で崩れる
午前9時55分。
魔王城中枢・第零会議室。
その空間は、物理的な広さに対して異常なほど酸素が薄く感じられた。黒曜石で設えられた円卓は、およそ50人が座れるほどの巨大なサイズだが、現在そこに座っている生身の肉体はガルム・フォン・アッシュただ一人である。
円卓の周囲には、四つの巨大な念話水晶が等間隔で浮遊していた。そこから投射されるホログラムの柱が、部屋の天井近くまで伸びている。四天王たちの立体映像だ。彼らはそれぞれ自室や前線基地からリモートでアクセスしている。
ホログラムが発する青白いノイズ光が、ガルムの網膜をチリチリと焼いた。ただの光学現象ではない。彼らが無意識に垂れ流している圧倒的な魔力(システム権限)が、映像データという皮を被って物理空間に干渉しているのだ。ガルムは喉仏のあたりに、飲み込みきれない鉄の塊が詰まっているような錯覚を覚えた。極度のストレスによる自律神経の不調だ。
「――時間だ。第七ダンジョン防衛作戦会議を始める」
重低音。いや、空気を物理的に圧縮するような振動が、第一席の水晶から響き渡った。
魔剣のザルガン。
黒い仮面で顔の半分を覆った巨漢のホログラムが、腕を組んでガルムを見下ろしている。その真っ赤な右目だけが、データ欠損のように不自然な極彩色で光っていた。
「ガルム。昨夜の遅延処理は評価する。だが、時間がかかりすぎだ」
ザルガンの声が鼓膜を打つたび、ガルムの側頭部に鈍い痛みが走る。
「現在、バグ(英雄)は第一層の第二区画で停滞しているな。ならば話は早い。コアフォーステュラ(古竜)を、今すぐ第一層の現在地に配置せよ。一撃で消し飛ばす」
ガルムの呼吸が、ぴたりと止まった。
コンマ2秒。
そのわずかな時間の中で、ガルムの脳内では数千行のデータベース・クエリが走り、絶望的な試算結果を弾き出していた。
コアフォーステュラだと? 正気か?
ガルムの視界の色が、スッと抜け落ちた。世界がモノクロームに反転し、立体映像のノイズだけが異常な解像度で迫ってくる。
コアフォーステュラ。魔王軍が誇る最高位の物理リソース。レベル99相当の超絶ステータスを持つ、いわば戦術核のような存在だ。
試算第一項。古竜1体を稼働させるためのリソースコストは、第七ダンジョン全体の維持費の実に80パーセントに相当する。配置した瞬間に、第二層から第九層までのすべてのギミック、すべてのモンスターへの魔力供給がストップする。
試算第二項。バグ(HERO-009)の現在の吸収効率とレベル。
勇者は今、序盤のバフを過剰に吸い上げて「勢い」がついている状態だ。ここに古竜のような莫大な経験値の塊をぶつければどうなるか? システム上のダメージキャップにより、勇者は一撃では死なない。絶対に死なない。物語の因果律というシステム保護が働き、奇跡の連続回避や友情のシールドといった理不尽なプロセスが自動生成される。
そして、古竜の莫大な経験値を吸収した勇者は、バースト状態となってオーバーフローを起こす。
結論。
やれば、100パーセントの確率で経験値爆発が起きる。世界の崩壊が、推定300時間は早まる。
ガルムは昔の記憶の底に沈みかけた。5年前の「第一インシデント」の光景。無能な前任PLが、序盤の勇者相手にいきなり上級デーモンを投入し、結果として勇者が「覚醒」してしまったあの地獄。焼け焦げたサーバー(大魔導コア)の匂い。飛び散る火花。連日連夜の徹夜ロールバック作業……。
ガルムは奥歯を強く噛みしめ、意識を現在に引き戻した。口の中に鉄の味が広がった。舌の端を少し噛んでしまったらしい。
「……ザルガン様。ご提案の件ですが」
ガルムの声は、氷のように冷たく、そして平坦だった。
彼は手元の魔法陣キーボードを叩き、空間に三つの立体グラフを展開した。全てが赤字(致死ライン)を示している。
「試算的に、それは不可能です。古竜の稼働コストは第七ダンジョンの現行予算を80パーセント圧迫します。また、現時点の勇者のパラメータに対し古竜をぶつければ、ダメージキャップによる討伐失敗と、その後の経験値爆発を誘発します。世界の寿命を確実に300時間削る結果となります」
反論は完璧だった。数字は嘘をつかない。
データとロジック。それこそが、中間管理職が上層部と戦うための唯一の武器であるはずだった。
だが、ザルガンは鼻で嗤った。
「細かいことはいい」
ガルムの右目の端が、ピクリと痙攣した。
「我々は魔王軍だ。圧倒的な力で絶望を与えるのが仕事だ。予算だのリソースだの、下級役人のような小言を並べるな。根性でなんとかしろ。俺の時代はそれで通ったぞ。……やれ」
ロジックは、たった5秒で粉砕された。
要件定義という言葉が存在しない世界。数字の通じない上層部。「俺の時代」という最も呪われたワード。
ガルムの胃の底で、冷たい泥が泡を立てて煮え滾るような感覚がした。殺意ではない。もはや一周回って、笑い出したいような乾いた絶望だ。
反論の言葉を紡ごうとしたガルムの肺から、空気が抜け出そうとした。
その瞬間だった。
「ザルガン、口を歪める暇があるなら数字を見ろ」
もう一つの水晶から、硬質で冷徹な声が響いた。
鋼鉄のレイナ。四天王第二席、実務と品質管理を統括する冷酷なる完璧主義者。
短い白髪に黒いスーツ型の鎧を纏ったホログラムが、腕を組みながらザルガンを睨みつけていた。
「ガルムの試算は完全に正しい。現時点でのコアフォース投入は、プロジェクトのフェーズに合致していない。勇者のレベル曲線に対してオーバーキルを狙えば、ナラティブエンジンの反発を招くだけだ。お前のその非合理な案は、この場で棄却する」
「なんだと!? レイナ、貴様、俺の戦略に口出しする気か!」
「戦略と呼べる代物ならな。お前のはただの暴走だ。だいたい、先月の第三ダンジョン崩壊も、お前が無計画にキマイラを投入したせいだろうが」
「あれは現場の練度が低かっただけだ!」
四天王二人の間で、高密度の罵倒の応酬が始まった。
物理空間にすさまじい魔力のノイズが走り、会議室内の空気がバチバチと静電気を発する。ガルムの髪の毛がふわりと逆立ち、肌がピリピリと痛んだ。
だが、会議の進行そのものは完全に「フリーズ」していた。
上層部同士の派閥争い。現場にとって最も不毛な時間が流れている。
しかし、経験豊富な中間管理職であるガルムにとって、この「空白の時間」は黄金に等しい価値を持っていた。
今だ。
ガルムは机の下で、隠し持っていた予備の念話デバイスを起動した。
接続先は、自身の執務室。相手は――
『はいっ! PLさんですか!?』
耳の奥の魔石イヤフォンから、ゴブ太の能天気な声が響いた。その後ろで、ズズッとお茶をすする音がする。
ガルムは口をほとんど動かさず、レイナとザルガンの罵声の影に隠れるように小声で囁いた。
「ゴブ太、聞こえるか」
『聞こえてます! どうしました?』
「今から言う通りに、机の上にある書類の束――第二次配置案のテンプレートだ――にペンで書き込め。いいか、一切のアレンジは加えるな。俺の言葉だけを文字にしろ」
ガルムは上層部の口論をBGMにしながら、脳内にストックしていた代替案を高速で詠唱(口述筆記)し始めた。
「第一フェーズ。第一層第三区画にポイズントードを5体配置。第二フェーズ。第四区画の通路にトラップ連動型のスケルトンアーチャーを3列。第三フェーズ……」
『ちょ、ちょっと待ってください! ポイズント……ええと、漢字ってこれで合ってますか!?』
「ひらがなでいい! 早く書け!」
『か、書き方が……というか、お茶こぼしちゃいました!』
「……お前が書け。お前の魂を燃やして書け!」
『わかりました!! 燃やします!!』
ゴブ太の元気な返答と、紙を破くような凄まじい筆圧の音がインカム越しに聞こえてくる。
ガルムの額から、一滴の冷たい汗が流れ落ちた。会議室の異常な冷気の中で、その一滴の汗だけが不自然なほど生々しい温度を持っていた。
十分後。
レイナとザルガンの口論が、互角のまま疲弊によって落ち着きを見せた頃合いを見計らい、ガルムは第二次配置案を再展開した。先ほどゴブ太に書かせた案を、システムネットワーク経由でこちらに同期させたのだ。字が壊滅的に汚かったが、読めれば問題ない。
「……両名のご意見、拝聴いたしました。つきましては、折衷案としてこちらの『段階的モンスター配置案』を提出いたします」
ガルムは淡々と説明を続けた。
「コアフォースの投入は見送り。その代わり、勇者の進行速度を1.2倍まで許容し、段階的なトラップと低級・中級の中毒系モンスターで細かいリソース遅延を狙います。また、これに伴う現場の負荷増大に対応すべく、『人員増員申請書』を別途提出させていただきました」
ザルガンは不満そうに鼻を鳴らした。
「ちっ……ぬるい真似を。だが、お前がそこまで言うなら、失敗した時の責任は分かっているな」
レイナが眼鏡(ホログラムの装飾だが)を押し上げた。
「方針の妥当性は認める。だが、増員申請については冥府のドレインの管轄だ。私が口出しすることではない」
常に沈黙を守っていた第四席のドレイン(骸骨の姿をしたホログラム)の目が、チカッと赤く光った気がした。
「会議は終了だ。各員、解散」
ホログラムの柱が、次々と電源を切られたように消滅していく。
重圧から解放された会議室に、元の静寂が戻ってきた。
ガルムは椅子に深く腰掛け、長く、細い息を吐き出した。
三つの目的。「コアフォース投入阻止」「段階的配置の承認」「増員申請の提出」。すべて達成した。完璧な綱渡りだった。寿命が3年は縮んだ気がするが、世界の崩壊を300時間早めるよりはマシだ。
立ち上がり、重い足取りで出口に向かおうとした瞬間だった。
――ガルム。
直接、脳内にレイナからのプライベートな念話通信が飛び込んできた。
ガルムの足が止まる。ふくらはぎの筋肉がビクリと痙攣した。
ザルガンの暴走を止めてやったのだ。感謝しているだろう?
「……はい。レイナ様の的確なご判断に救われました」
結構。ならば、その感謝を形で示せ。今月の第七ダンジョンの稼働報告書だが、いつものフォーマットに加えて、勇者のリソース消費動向のクロス集計と相関分析を追加した【詳細版】で提出するように。期限は明後日の朝イチだ。
プツン、と通信が切れた。
ガルムは暗い会議室の廊下で、完全に動きを止めた。
思考が停止したのではない。脳味噌が、追加された作業工数を計算することを完全に放棄したのだ。クロス集計。相関分析。明後日の朝。
廊下の窓から、外界の景色が見えた。
アルゲリアの世界は、静かで美しい夕暮れに染まっていた。
神が創り出したシステムは、今日もバグに浸食されながらも、一見平和な顔をして太陽を沈めていく。
「……残業申請」
ガルムの声は、空っぽの廊下に虚しく吸い込まれた。
「どうせ却下だろうな」
彼はうつむいたまま、第七ダンジョンの執務室へと向かって歩き出した。
ゴブ太の淹れたお茶が、まだ温かいことを祈りながら。
世界終了まで:88日と19時間。




