第2話 ゴブリンのオンボーディングは3時間で終わらない
午前3時42分。
第七ダンジョン管理室の空気は、腐った泥水のように重く、そして冷え切っていた。
ガルム・フォン・アッシュの網膜には、羊皮紙を模した魔法陣スクリーンの強烈なバックライトが焼き付いている。瞬きをするたびに、まぶたの裏側で網目状のノイズが走った。眼球の奥にある視神経が、まるで古い錆びたワイヤーでギリギリと引っ張られているような鈍痛を発している。
疲労の限界を超えると、人間も魔族も、自分の身体が自分のものでなくなる感覚に陥る。ガルムは今、自身の肉体を「酷使されすぎた安物のゴーレム」のように感じていた。首を回すと、頸椎の隙間から砂がこぼれ落ちるような幻聴が響く。
左手には、彼が先ほど3時間ぶっ通しで書き上げたばかりの即席ドキュメントが握られていた。
表題:『緊急代替配置マニュアル v0.1』。
逃げ出したゴブリンたちの穴を埋めるため、経験も知識もない素人を「いかにしてダンジョンの壁として機能させるか」を記した、血と涙の結晶である。
そしてガルムの目の前には、その血と涙の結晶を最も必要としている存在が座っていた。
「あのー、PLさん」
入社3日目の新人ゴブリン、ゴブ太である。
部屋の空気がどれほど淀んでいようと、ガルムの顔色が悪魔のように真っ青であろうと、ゴブ太の瞳だけは底抜けに澄み切っていた。春の陽光を反射する湖面のようにキラキラと輝いている。その輝きが、今のガルムには致死量の紫外線に思えた。
「なんだ」
ガルムは声のトーンを極限まで平坦に保った。ここで少しでも感情を乗せれば、怒りか諦めのどちらかが決壊してしまう。
「この『ダンジョンの壁に擬態せよ』って書いてあるところなんですけどぉ」
ゴブ太は短い指で羊皮紙の一文を指差した。
「そもそも、ダンジョンの壁って何でできてるんですか?」
ガルムの呼吸が、1.5秒だけ停止した。
コンマ数秒の世界で、ガルムの脳内処理能力がフル稼働する。空間の時間が凍りついたかのように、ゴブ太の無垢な瞬きがスローモーションでコマ送りになる。ダンジョンの壁の材質だと? それを知ってどうする。お前は壁の前に立って、勇者が来たら棒を振り回して死ねばいい。そのためのマニュアルだ。材質が石だろうが魔力凝縮体だろうが、お前の業務フローには1ミリも影響しない。なぜそんなことを聞く? 純粋な知的好奇心か? それとも俺の精神力を削るための高度な精神攻撃か?
思考の海の中で、ガルムは過去の記憶に引きずり込まれる。魔王城の士官学校時代、偏屈な古代魔法学の教授が「壁の魔力伝導率」について3時間も語り続けた、あのクソみたいな講義の記憶。黒板をひっかくチョークの音。窓から差し込む気怠い午後の光。隣の席で口を開けて寝ていた悪魔族の同期。そうだ、あいつらも今のゴブ太のように、何も考えていない顔をしていた――。
現実世界のガルムの右目が、ピクリと痙攣した。
彼はギリッと奥歯を噛み締め、現実の五感を引き戻す。喉の奥に酸っぱい胃液の味がした。ストレス性の過酸症だ。
「……岩石と低級魔力の合成体だ」
ガルムは答えた。答えてしまった。
「へえー! じゃあ、勇者さんが倒したときに出てくる『経験値』って、その壁のどこに貯まってるんですか?」
「壁には貯まらん。世界の深層マナプールから直接付与される」
「マナプールって、泳げるんですか!?」
「泳げない。概念的な話だ」
「概念って、美味しいんですか?」
ガルムの右手の指が、机の端に置かれたペンの軸をメキメキと握り潰しそうになった。こいつは、だめだ。根本的な前提知識からインストールしてやらないと、一行も前に進まない。だが俺にそんな時間はない。あと数時間で夜が明ける。勇者は一時的な遅延を突破して再び動き出す。それまでに防衛ラインを……。
頭の中で警告音が鳴り響いている。
オンボーディング(新人教育)は、3時間で終わるどころか、最初の1文字目から一歩も進んでいなかった。
その時だった。
サブモニターとして起動させていた水晶玉が、赤と青の光を明滅させた。ガルムは反射的にゴブ太から顔を背け、水晶玉からのデータストリームを受信する。
【追加タスク発行:逃走したゴブリン班(23体)の現在位置調査および回収】
文字の羅列を見た瞬間、ガルムの膝から不意に力が抜けた。
座っているにもかかわらず、急激な重力の変動を感じる。まるで足元の床板が消失し、底なしの暗闇へと落下していくような、強烈な無重力感と絶望感。
そうか。あいつら、まだ第七ダンジョンの敷地内にいたのか。
ガルムは無表情のまま、水晶玉に魔力を流し込んだ。広域スキャン用のエクセル魔法陣が展開される。ダンジョン内の生体反応(MACアドレスのようなものだ)を一つ一つフィルタリングしていく。
検索条件:種族ゴブリン、ステータス『逃走中』。
ピコン、と軽快な音が鳴り、魔法陣の上に赤い光点が固まって表示された。
場所は、第三層の第4区画。従業員用の休憩所だった。
「……ゴブ太」
「はいっ、PLさん! 概念の美味しい食べ方、思いつきましたか!?」
「お前はここで、このマニュアルを声に出して100回読め。俺は少し、散歩をしてくる」
「散歩ですか! いってらっしゃいませ!」
ガルムは椅子から立ち上がった。足元がふらついたが、強引に床を踏みしめて執務室を出る。
歩きながら、彼は自分の胸部に手を当てた。心拍数は正常値より15パーセント高い。筋肉はこわばり、呼吸は浅い。怒りではない。殺意ですらない。それは純粋な「徒労感」だった。
これから自分は、世界を救うために、ダンジョンの奥深くに隠れているゴブリンたちを見つけ出し、「お願いだから仕事に戻ってくれ」と頭を下げに行くのだ。中間管理職としてのプライドなど、とっくの昔にすり減って消滅していた。
第三層の休憩所の重い鉄扉を開けた瞬間、ガルムの視界は一瞬だけ白黒のモノクロームに反転した。心象風景の投影バグだ。極度の精神的負荷がかかったとき、世界の色彩情報を処理する脳内リソースがカットされる。
灰色の視界の中で、23体のゴブリンたちは――車座になって座り込んでいた。
「最初はグー!」
「ジャンケン! ポン!」
「やったー、俺の勝ちー!」
キャッキャと騒ぐゴブリンたちの声が、ガルムの鼓膜を物理的な凶器として打った。
ピーーーーーーッという、耳鳴り。
それはかつて、ガルムが新兵時代に経験した鼓膜を破鳴させる爆発音のトラウマとリンクしていた。血の味が口の中に広がる。いや、実際に舌を噛んだのかもしれない。
「……お前ら」
ガルムの声は、地を這うような低さだった。
ゴブリンたちが一斉に振り返る。彼らの肌が灰色から本来の黄緑色に色づいて見えた。ガルムの色彩処理が復旧したのだ。
「ぴいっ!」
「PLだ! PLが来た!」
「逃げろ……いや、壁しかない!」
パニックに陥るゴブリンたちを前に、ガルムは扉を背にして立ち塞がった。
「怖かったんです、PL……!」
班長のゴブゾウが、床に這いつくばって泣き叫んだ。
「勇者なんて、俺たちゴブリンじゃ刃が立ちませんよ! 一太刀で消し飛びますよ! 痛いのは嫌だ、死ぬのは嫌だぁ!」
ガルムはゴブゾウを冷たく見下ろした。当たり前だ。お前たちが消し飛ぶことで、システムリソースに0.003秒の負荷関数を発生させるための配置だぞ。お前たちに勝てなどと誰が一言でも言ったか。
正論をぶつけるのは簡単だ。だが、それでは現場は動かない。ガルムは感情の引き出しから、最も「班長たちの心に響く」パラメータを検索した。
「……お前たちが恐れる気持ちはわかる」
ガルムは、あえて声のトーンを一つ上げた。芝居がかった、しかし温かみを含んだ声帯の設定。
「だが、特別手当だ。今夜のシフトに戻れば、危険手当として時給を1.5倍に引き上げる許可を……俺が責任を持って上層部から取ってくる」
完全な嘘だった。上層部が残業代すら払わないのに、危険手当など承認するはずがない。後でリソース予算の帳簿をごまかして、ガルム個人の財布から補填するしかない。胃の底が鉛を飲んだように重くなる。
「じ、時給1.5倍……!」
ゴブリンたちの目の色が変わった。
「ほんとですか、PL!」
「それなら、スライムの盾の後ろから石投げるくらいなら……」
空気が変わった。ガルムは内心で安堵の息を吐き出しそうになった、その直後だった。
ピコン。
ピコン。ピコンピコンピコンピコン。
ガルムの懐に収まっていた念話デバイスが、狂ったような速度で連続着信音を鳴らし始めた。
赤と黒のフラッシュ発光。最高レベルの緊急割り込み(割り込み不可避)のサインだ。
嫌な予感が、ガルムの内臓を直接鷲掴みにした。心臓の鼓動が不規則なリズムを刻み始める。「スキップビート」なんてものではない。もはや心不全の一歩手前だ。
ガルムは震える手でデバイスを取り出し、空中にスクリーンを展開した。
二つのアラートが、並んで表示されていた。
【四天王からの緊急Ping通知】
送信者:ソシア・ヴェイル(情報戦略担当)
件名:明朝10時の作戦会議について
本文:『明朝10時、魔王城中枢にて第七ダンジョン防衛作戦会議を実施します。関係各PLは全員参加必須。遅刻および欠席者はリストラ(物理的な消去)対象となります。よろしくね♪』
【第一層からのシステムアラート】
送信者:フィールド環境監視センサー
件名:重大なインシデント発生
本文:『スライム改造品27体、想定以上の自重と塗料の化学変化により、融解(溶け)はじめました。防衛ラインの維持が不可能です』
ガルムの瞳孔が、極限まで開いた。
会議まで、あと7時間。
現場の壁は溶け始めている。
目の前には、時給アップの約束でようやく重い腰を上げかけた23体のゴブリン。
時間が、止まった。
いや、ガルムの脳が過剰な情報処理に耐えきれず、現実の時間の流れを拒絶したのだ。
頭の中に、どこからともなく陽気な音楽が流れ始めた。大昔の酒場で聞いた、安っぽいリュート弾きのメロディ。ああ、明日の晩ごはんは、カリカリに焼いたベーコンがいいな。あれを塩漬けのキャベツと一緒に……。
思考が完全に現実逃避の宇宙へと脱線していく。走馬灯のバリエーション違いだ。人間は(魔族も)、真の絶望に直面すると、脳を守るためにどうでもいいことを考え始めるようにできているのだ。
ガルムは奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばり、理性を無理やり現世に引きずり戻した。
「……ゴブゾウ」
「は、はい!」
「今すぐ第一層へ向かえ。溶けかけているスライムを型枠に流し込んで固めろ。第二防衛ラインを構築しろ。急げ!」
「了解っス!」
ゴブリンたちが弾かれたように駆け出していく。
ガルムは一人、第三層の休憩所に取り残された。
彼は無表情のまま、デバイスの社内SNSアプリ(念話チャット)を開いた。「第七ダンジョン防衛部・雑談&業務連絡」というグループチャットだ。
『ガルム:至急。明朝10時の四天王会議用の資料作成、誰か手伝ってください。稼働状況の集計だけでも構いません』
送信。
3秒後、【既読:18】の文字がついた。
そこから、1分待った。5分待った。
誰からも、スタンプ一つ返ってこなかった。
「……知ってた」
ガルムは呟き、ゆっくりと壁に背を預けてずるずるとしゃがみ込んだ。冷たい石の壁の感触だけが、彼を現実に繋ぎ止めていた。
午前5時20分。会議まで残り5時間を切っていた。
モニタールームに戻ってきたガルムは、まるで屍鬼のような足取りだった。
両手は魔法陣のキーボードを高速で叩いている。展開された複数の空中に浮かぶスクリーンには、四天王に提出するための『防衛被害予測および追加予算申請書』のグラフが次々と描画されていた。
「あのー、PLさん」
部屋の隅から、明るい声がした。
ゴブ太だった。100回読めと言われたマニュアルを、律儀に正座して抱えている。
「マニュアル、12回目まで読みました! なんかボクでも手伝えること、ありますか!?」
ガルムは画面から目を離さなかった。
ゴブ太の能天気な声を聞くと、奇妙なことに、さきほどまで張り詰めていた殺伐とした空気がほんの少しだけ緩んだ。張り詰めていた糸がふわりと弛むような、そんなマイクロジェスチャーがガルムの指先に現れる。タイピングの速度が、わずかに柔らかくなったのだ。
「……お前は、俺の隣で座ってろ」
ガルムは言った。
「それだけでいい」
「えっ、でもボク、戦力外ですよね? 何か仕事を!」
「……なら、お茶だ。アツアツのやつを頼む」
ゴブ太の目が、パァッと輝いた。
「はいっ! 極上のお茶を淹れてきますね!」
小さな足音が、ドタバタと廊下へ駆けていく。
その後ろ姿を、ガルムは視界の端で捉えていた。
彼の口元が、自分でも気づかないくらい、ほんの一瞬だけ、ゆるむ。
それは笑みと呼ぶにはあまりにも微小な筋肉の変化だったが、確かに、この数日間で初めて訪れた「安らぎ」の形だった。
「……お茶なんて、俺のスケジュールには組み込まれてないんだがな」
独り言は、キーボードを叩く音に掻き消された。
モニターの片隅。
世界終了のカウントダウンが、無情にも時を刻み続けている。
世界終了まで:89日と2時間。
今日もまた、残酷で長い朝がやってくる。




