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魔王軍の運用保守プロジェクト ~勇者(バグ)の過負荷攻撃から世界(システム)を守る辺境の中間管理職~  作者: AItak
世界(システム)は今日も限界稼働中

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第1話 勇者、来訪。インシデント発生


 警報が鳴ったのは、午後3時17分のことだった。


 魔法陣スクリーンの右端に赤いアイコンが点灯する。ガルム・フォン・アッシュは、書きかけの配置計算書から顔を上げた。首の骨がゆっくりと、気持ち悪いほど丁寧に鳴った。


 バキ、と。


 まるで世界が「お前、今日も長い一日が始まるぞ」と宣告してくるような音だった。


 ガルムは立ち上がらなかった。立ち上がる前に、まずスクリーンの数字を確認する。これは彼が10年かけて身につけた習慣だ。感情より先にデータを読め。パニックになる前に試算しろ。現場に動く前に想定しろ。


 赤いアイコンをタップすると、浮かび上がったのは――


 【第七ダンジョン侵入警報 / 速報 / レベルSS】

 識別コード:HERO-009

 リソース消費速度:通常比340%

 現在地:第一層・入口付近(外周防衛圏を突破)

 観測パーティ規模:推定4名


 ガルムの目が、数字の上を2度なぞった。


 340パーセント。


 それはもはや数字ではなかった。爆弾だった。このシステムの全リソースを80日で食いつぶせる計算値だ。現在の世界(アルゲリア v1.9.8)のメモリは現時点で72パーセントを既に食われている。マイグレーション完了まで89日と14時間。バランスシートがそのまま頭の中で展開された。


 間に合わない。現状維持なら、25日以内に97パーセントを超える。


 ガルムは右手のペンを置いた。正確には、「置いた」というより「指から力が抜けて転がった」だ。ペンは机の端まで滑り、コトン、と落ちた。それを目で追うことなく、ガルムはスクリーンを展開し始める。


 第一次防衛ライン設計書。フォルダを開く。テンプレートを引っ張り出す。配置シミュレーション用のエクセル魔法陣を起動する。ゴブリン班の配置可能リストを呼び出す。


 息を整える。喉が、ひりついていた。乾いているのではなく、何かべたついている感覚。緊張のせいだとわかっているが、身体はそれを「渇き」と「鈍い熱感」に変換して訴えてくる。あのときと同じ感覚だ、と一瞬だけ頭の隅がつぶやいた。3年前の「第三インシデント」のときと。あのとき喉を焼いた感覚が、今も皮膚の一枚下に貼り付いている。


 関係ない。今は今だ。


 ガルムは感情に蓋をして、数字の海に飛び込んだ。



 防衛ライン第一案の骨格が完成したのは、警報から6分後だった。


 ゴブリン班24体を三列に配置。第一列に8体(囮・遅延担当)、第二列に10体(疑似壁・密度担当)、第三列に6体(経験値バランサー・調整担当)。合計消費リソース:1.7ポイント/時間。勇者の進行速度を理論値で1.4倍に抑制できる計算だ。完璧ではないが、今夜を凌ぐには十分だった。


 あとはゴブゾウに伝達して――


 念話通信の鈴が鳴った。


 「PL! た、大変です!」


 ゴブゾウの声だった。いつもは落ち着いているはずの班長の声が、今日は雨に濡れた犬みたいにふるえている。ガルムの背筋に冷たい予感が走った。


 「何が起きた」


 「班員が……」


 「班員が?」


 「全員……逃走しました」


 部屋の空気が一瞬、止まった気がした。


 ガルムの脳内でそれまで走っていた計算のプロセスが、ブツ、と途切れる感覚。言葉の意味を処理するのに、コンマ3秒ほどかかった。


 「……今、なんと言った」


 「24体のうち23体が、自主的なサービス終了を選択しました。要するに逃げました。めちゃくちゃ速かったです。勇者の接近警報が鳴った瞬間に、もう誰もいなかったというか、砂煙だけ残っていたというか、セミが脱皮したあとみたいな感じで」


 「……ゴブゾウ」


 「はい」


 「今の説明に必要だったのは『逃げました』の4文字だけだ」


 「……す、すみません」


 電話口の向こうで、ゴブゾウが小さくなるのが想像できた。ガルムはすでに次の計算を始めていた。感情を処理している時間は0秒だった。ゼロ。感情を今ここで発動させることには何のメリットもない。怒りをリソースに変える意味がない。


 代替リソース。何がある。


 ガルムは全身のデータマップを1.2秒で舐め回した。第七ダンジョン管理下の戦力リスト。アクティブ:ゴブリン現役班、スライム初期型、オーク(長期休暇中)、大コウモリ(第三層に固定配置)。


 スライム。


 廃棄予定の旧型スライム群。倉庫で眠っているあれだ。



 倉庫は第七ダンジョン管理施設の地下2階にある。


 ガルムが到着すると、湿った石造りの部屋に、ぼてぼてとした丸いシルエットが整然と並んでいた。全部で32体。どれも動作が遅い。処理速度が今の標準スライムの30パーセントしかない。廃棄対象としてマークされてから、もう9ヶ月が経っていた。


 ガルムはその中の一体を、無表情で見下ろした。


 スライムも、同じように見上げてきた。


 ぐにゃり、と変形して、なんとなく「ご主人様?」みたいな雰囲気のシルエットになった。


 ガルムは一呼吸置いてから、口を開いた。


 「お前たちに頼む気は起きないが、他に選択肢がない」


 スライムが、ぷるぷると震えた。


 「今日一日だけ働け。報酬は……」ガルムは一瞬考えた。「報酬という概念がお前たちにあるかわからないが、今日の夜に廃棄リストから外してやる」


 スライムたちが一斉に震えた。


 交渉成立、とガルムは判断した。



 問題は、スライムをゴブリンとして「見せる」必要があることだった。


 勇者(バグ:HERO-009)は視覚情報を元に経験値の吸収効率を計算する。スライムがスライムとして配置されれば「雑魚敵」として瞬殺され、リソース遅延効果はゼロに等しい。しかしゴブリン型の外装を被せることで、パーティに「ゴブリンだ」と認識させれば、適切な戦闘AIが発動し遅延効果が発生する。


 問題は、その「外装」がない。


 第七ダンジョンの予算でゴブリン偽装キットを調達するには、稟議書を提出して、上位マネジメントの承認を得て、発注して、配送して……最短でも5営業日かかる。今夜には間に合わない。


 ガルムは倉庫を見回した。


 あった。古い植物染料のたる。ゴブリン特有の「緑」に近い色合い。それと、廃棄された防具の切れ端。それから――


 「……俺は今から、スライムに化粧をする」


 独り言だった。聞いている者は誰もいない。


 しかし心の中でガルムは3年前の自分に語りかけていた。当時の俺に言っても信じないだろうな、と。魔王軍の精鋭として配属されたあの日、こんな業務フローになると想定していたか。スライムに緑のペンキを塗り、それを兜で飾り付けし、ゴブリンとして偽装する現場作業が、世界の命運を左右する仕事になるとは。


 ……おかしいな。指、すでに緑になってる。


 ガルムは淡々と作業を続けた。



 作業開始から40分後、念話通信が鳴った。


 それはガルムのメインデバイスに表示された瞬間、画面が赤く輝いた。四天王専用の着信コードだ。


 嫌な予感という言葉では足りない感覚が、胃の底から這い上がってきた。胸の中央で、何かが微妙に収縮した。心臓だった。1拍、ほんのわずかに乱れた鼓動。医学的には「スキップビート」と呼ぶらしい。ガルムはそれを知識として知っていたが、自分の心臓がこれほど忠実に反応するとは思っていなかった。


 応答する。


 「ガルム。状況報告せよ」


 ザルガンだった。声の密度が違う。四天王の中でも、この男の声には「空気が圧縮される」感触がある。物理的な圧力ではなく、心理的な重力だ。


 「HERO-009が第七ダンジョンへの侵入を確認。現在第一次防衛ラインを構築中です。ゴブリン班は――」


 「それより先を言え。結論だけ言え」


 「……夜半までに、一時的な遅延ラインの構築が完了する見込みです」


 「夜半か。今夜中に進行を完全に止めよ」


 ガルムの手が、止まった。


 スライムに塗っていた緑色のペンキが、ぽた、と床に落ちた。


 「ご確認ですが」ガルムは声のトーンを変えなかった。「"完全に止める"というのは、第七ダンジョン内での全進行を今夜までにゼロにするという意味でしょうか」


 「そうだ」


 「試算的には、それは不可能です。現行リソースで完全停止を目指した場合、経験値爆発リスクが341パーセント上昇します。弱い障壁ほど飛ばされたときの反動が大きくなる。今の状況で力押しをすれば、かえって進行が加速します」


 「お前が何とかしろ」


 通話が、切れた。


 ガルムは念話デバイスを持ったまま、1秒間だけその場に立っていた。


 「……残業申請、どうせ却下だろうな」


 声に出すと、少しだけ楽になった。気がした。



 日が西に傾いて、空が赤っぽい橙色になった頃。


 ガルムが偽装スライム27体をとりあえず第一層の第二区画に配置し終えた直後、廊下の向こうから足音が聞こえた。ちいさな足音だった。でも変に元気があった。


 「PL! いましたか!」


 ゴブゾウだった。そしてゴブゾウの後ろに、一体のゴブリンがくっついていた。


 小さい。まだ子供みたいな体格だ。黄緑色の肌に、まんまるの目。背中にそれより大きい荷物を背負っている。


 「こいつだけ……残ってました」とゴブゾウが申し訳なそうに言った。「入社3日目のゴブ太です」


 ゴブ太は、にぱ、と笑った。


 「よろしくお願いします、PLさん! ゴブリンってどこに配置されるんですか? ダンジョンって中どうなってるんですか? あ、化粧してるスライム、なんか可愛いですね!」


 ガルムは3秒間、ゴブ太を見つめた。


 頭の中で試算した。ゴブ太一体の戦力係数:0.3(基準値1.0に対して)。教育コスト:未知。即戦力への変換可能性:低い。現時点で戦略的価値を発揮する確率:10パーセント未満。


 「お前に今から説明している時間はない」


 「あ、じゃあ後でいいです!」


 「……走れるか」


 「走れます!!」


 「では走れ。第一区画の右端から第二区画の入口まで、30秒で行け」


 「えっ、なんで??」


 「試算だ」


 ゴブ太が全速力で走り出した。足音が廊下の向こうに消えていく。ガルムは無言でタイムを計った。28秒。戻ってきた。はあはあ息を切らしながら、目をきらきらさせている。


 ガルムの中で何かが小さく動いた。何だろう、と思ったが、追いかけなかった。



 その日の夜、午後9時43分。


 モニタールームのスクリーンに映し出された数字が、ガルムの目の前でゆっくりと動いた。


 世界リソース消費率:74% → 71% → 68%


 勇者(バグ:HERO-009)の進行が、一時的に鈍化していた。偽装スライムによる第一次遅延ラインが、3時間だけ機能したのだ。


 「……3時間か」


 それだけのことだった。3時間。世界の寿命を3時間延ばした。89日のうちの3時間。


 ガルムは椅子の背もたれに体を預けた。背中を受け止める感触が、今日はいつもより少しだけ温かい気がした。疲れているせいだとわかっていた。


 机の上に報告書を広げる。今夜中に第一次対応の記録と明日の計画を書かなければならない。残業申請は、提出したところで冥府のドレインに却下されることを知っている。それでも書く。記録は残す。それがガルムの流儀だった。


 「PLさん」


 声がした。


 ゴブ太だった。部屋の入口に立って、小さな木の器を両手で持っている。湯気が出ていた。


 「キノコ汁、作ってみました。味、合ってるかわかんないですけど」


 ガルムは報告書から目を上げた。


 ゴブ太の丸い目が、ガルムの顔を心配そうに覗き込んでいる。


 「……なんでお前がキノコ汁を持っている」


 「お腹すいてるかなって。あと、ゴブゾウさんが作り方教えてくれました」


 ガルムは3秒間、考えた。こういう状況のコストパフォーマンスを計算するのは不可能だった。試算ができない。感謝という感情の変換レートがわからない。


 「置いとけ」


 「はい!」


 ゴブ太が器を机の端に置いた。足早に廊下へ引っ込んでいく。元気のいい足音が遠ざかった。


 ガルムは再び報告書に向かった。


 報告書の一行目を書く前に、一口だけキノコ汁を飲んだ。


 温かかった。少しだけ塩が多かった。でも悪くなかった。



 モニタースクリーンの片隅にカウンターが光っている。


 世界終了まで:89日と11時間


 今日も定時には帰れなかった。


 ガルムは静かにペンを走らせた。


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