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異端審問 ー炎に包まれた聖女ー  作者: 北海 犬丸


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「何故彼女を助けない?」

 冷たい石畳の廊下を歩いていると、後方から声がした。

 気配は察していたので、ルーファスは振り向かない。

「何故、助ける必要があるんです?」

「彼女は私が遣わした者だ。これは神のご意志でもあるんだぞ」

 声は責め立てるように飛んでくるが、ルーファスは振り向かない。

 声の主が痺れを切らしてルーファスの肩を掴み、向かい合わせにさせる。

 金色の髪と蒼穹の瞳を持ち、大きな一対の翼から雪のように羽根を降らせる青年の姿が目に入ってきた。

「何故、私を見ない」

「貴方がその姿で来ることが分かっていたからです。僕には貴方の本当の姿は見えないからね。人間と同じ扱いをされるなんて、屈辱以外の何物でもない。分かっているでしょう、兄上」

 天使は人前に表すとき、人に知覚できるように姿を変える。その姿は、愛すべき兄が人間のためにこさえた姿だ。

 ルーファスはそのことが酷く屈辱的で、煩わしかった。

「ではなぜ、再び天へ戻ろうとしないんだ。天へ戻りさえすればお前は前のように私を見ることが出来るようになろう」

 人ではあり得ないほどに整った面立ちが、悲しそうに陰る。

 神から最も寵愛を受けている者の一人である彼は、その愛をすでに天より堕とされた自分にまで向けてくれていた。

 そのことが嬉しくない訳ではない。しかし同時に、煩わしかった。その愛はあの穢れた存在にも向けられていると知っているから。

「兄上。僕はすでに堕ちた身だ。天へ行くことは二度と適いません」

「罪を償えばきっと、我らが主は戻してくださる」

「……兄上は、本当に心根が優しくていらっしゃる」

 ルーファスは、皮肉交じりにそう言った。彼の真っ直ぐさは愛しい部分でもあるが、今のルーファスにとっては残酷だった。

 もうずっと遥か昔のあの戦いを、彼が忘れたわけではないだろう。

 ――さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。

 ヨハネの黙示録として語られるこの一節は、正確ではないけれど、嘘偽りを伝えたものではない。

 確かにあの戦いで、ルーファスは地へと堕とされたのだ。

 その罪を、我らが主がそう簡単に赦してくれるとは思えない。人間はもう天へは戻れないのだから。

 ルーファスの言葉に、天使は訝しげに尋ねる。

「どうしてお前は、人間を唆すなんて馬鹿な真似をしたんだ? それほど我らが主からの寵愛を受けた人間が憎かった? お前だって、確かに愛されていたのに」

 問いに、ルーファスはかつての華々しい日々を思い出す。

 人間が誕生する前は兄と二人、穏やかで楽しい暮らしをしていた。朗らかな春が永遠に続くような、そんな静かな温かみがあった。

 人間が誕生し、すべては一変した。我らが主は彼らを大切にし、天使たちも人間の良き友であり、親兄弟であり、腹心であった。しかし皆が皆、それを受け入れていたわけではない。

 他ならぬルーファスも、その様子を受け入れ難く感じていた。

 今でも人間を見ると憎たらしくて仕方がない。その口が我らの創造主を口にするたび、腸が煮えくり返りそうにすらなる。

 その気持ちを隠しもせず、ルーファスは彼の言葉を否定した。

「いいえ、兄上。僕は別に、あいつらに嫉妬してあんなことをしたんじゃありません。ましてや、我らが主の代わりに世界を統べてやろうなんて気持ちもない」

「では、どうして」

「兄上、人間という存在は愚かで優れたところはなく、我が主からの寵愛など不釣り合い。天にいる価値もない者たちです」

「それはお前が決めることではないだろう。主は彼らを愛したのだから」

「ええ、そうです。僕もそう思いましたよ。だから彼らを唆したのです。彼らが主の深い愛に値するのであれば、愚かな行動に出ることなどないでしょうから」

 姿を変え、女に近づいた。果たして女は男を誘い、二人は禁断の果実を口に含んだのだった。

 それまでは僅かでも信じる気持ちがあったと、ルーファスは思う。けれどあの瞬間、すべてが失望に変わった。

 創造主の寵愛を受けておきながら、彼らは主を裏切る行為をしたのだから。

 そのあとは書物の通り。人間は地に落とされた。そして、ルーファスも。

「彼らは、他の動物たちと異なり争いを起こしては方々を破壊して回る。いずれ主が造られた世界を壊してしまうでしょう。そのような愚かな存在を、何故未だに気に掛けているのか理解できませんね」

「では、お前が我らの遣わした使徒を妨げているのは、人間が憎いからか」

「ええ。どれほど崇高で清らかな聖女と言えど、いつかは堕落するものです。天へ昇る者にはわずかな陰りなど許されないのです」

 天使は時折人間の下に現れ、お告げを与える。

 それは創造主の創り出したこの世界が平穏に、光にも闇にも傾くことがないよう保たれるようにするため。光と闇の均衡が崩れれば、この世界は崩壊しかねないのだ。

 そして天に遣わされた者の魂は使命を果たすと、天へと誘われる。それが使命を果たした者への褒美の代わりである。

「僕はね、兄上。地上に堕とされたことはむしろ僥倖なのです。ここならば愚かな人間を監視し、裁くことができますから」

「……異端審問官、か」

「ええ、ピッタリな仕事だと思いませんか。僕は誰よりも敬虔な信徒ですから。天へ還る気は毛頭ありませんよ」

「もう何度、お前は邪魔をすれば気が済む? 彼女の件も」

「何度だって。そもそも天への道を約束されていながら、使命を果たす途中で悪魔に唆されて身を堕とす者が悪いのですよ。そのような人間が主のもとにいては、主を穢しかねません」

「お前が何もしなければ穢れることもないだろうに」

「いいえ、穢れる心を持つ人間が愚かなのです」

 ルーファスの言葉に、大天使はその瞳を辛そうに揺らした。

 人間が誕生するまで、二人は分かり合っていると思っていた。実際、分かり合っていたと思う。

 けれど、もう二度と二人が交わることは無い。

 ただ神を愛し彼のために動いていることは違わないけれど、立場が違い過ぎたのだ。

「あの娘を助けてやってはくれまいか」

「お断りします。僕はあの子を地獄へ連れて行くと決めているのですから。助けたいのなら、貴方が動けば良いでしょう?」

「私は人間には干渉できない。分かっているだろう? お前とは違うのだから」

「……僕とは違う、ね。そうでしょう。貴方は天高く誰よりも創造主の信頼が厚いお方ですからね、ミカエル兄上」

「そういう意味で言ったわけでは!」

「良いんですよ。天使は人の心に干渉することはご法度。その点、堕天使の僕は人間の心を揺さぶることも、彼らを取り込んで操ることも、何でもできる」

 堕天使と悪魔は、闇を孕む者。闇を孕む者は人間の闇に潜み、闇を深く浅くと操作して、堕落させることが出来る。

 天使たちは人間の光に干渉することが出来るはずだが、主により秩序のためにそれは制限されていた。

 しかし堕天使は、もとより創造主による制約を破った者が天より堕とされている。天使にとってご法度なこともできるのだ。

 逆に言えば、あの憐れな少女を助ける手助けだった出来るということで。

 大天使であるミカエルがこうしてルーファスに会いに来たのも、彼女を処刑せんと奔走する神官たちを止めるためだろう。

 だが、それは天使たちの都合だ。ルーファスが取り合うはずもない。分かっていただろうに。

「……彼女の心は、穢れることはないぞ」

「兄上やガブリエルたちの力で、あの娘の光が守られているのは分かっています。闇の欠片もない彼女に内部から干渉することはできないでしょう。でもね、人の心は弱く移ろいやすいものだ」

「我らは手出しは出来まい。しかし彼女の魂を守ることは出来よう。お前には渡さない」

「さて、どうでしょうか。時間はまだたっぷりとあります。彼女の審議はまだ始まったばかりで、先はまだ長いですからね」

 ルーファスは赤い瞳をつと細め、にやりと笑った。そして、ばさりと、取り出した翼を大きく振る。

 背中にある一対の大翼は、光をすべて飲み込んでしまいそうな漆黒だった。

「ミカエル兄上。たとえ貴方がどれだけの聖者を見出そうとも、僕は誰一人として天へ昇らせやしません」

「……残念だよ。私はまたお前と、天で主のために働きたかったのだが」

「僕も兄上と一緒に居られたら幸せですよ。けれど、貴方は堕ちて来てはくれないでしょう? さあ、交渉は決裂。早く去ってください。僕は貴方と争いたいわけではない」

「では、また会おう。――ルシフェル」

 眩い光が、辺り一面を覆った。神の威光を示すかのような光は、闇に潜む身には鋭く突き刺さる。

 ルシフェルは翼で体を覆いそれを耐え、光が失われてからゆっくりと翼を仕舞って瞳を開いた。

 愛すべき兄も、天を統べる王も、どれほど人間の堕落を目にしても決して見放すことはしない。

 けれど、いつか。目を覚ましてくれる時が来るかもしれない。

 いや、もし目を覚まさないのだとしても構わない。神を穢しかねない人間を地の底へ堕とすのが自分の勤めであり、それは見返りを求めるものではなかった。

 主のことを二度と見ることは出来ないとしても、それでも構わない。ただ、自分の使命を全うするだけだ。

 愚かな人間を裁き地の底へ送り出す。その、役目を。

 ルシフェルは久しぶりに見た兄が存外元気そうだったことに少し安堵を覚えながら、誰もいない廊下を進む。

 彼の足音は闇に消えた。


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