2-3. 血の記憶と、氷の融解(美玲視点)
社長室の隅にあるデスクで、私は龍一さんに渡された予習用のプリントを整理していた。
少し離れたメインデスクでは、龍一さんがスマートフォンを耳に当て、難しい顔でパソコンを睨みつけている。
(龍一さん、お仕事大変そうだな……。邪魔をしないように静かにしてよう)
そう思って、バラバラになった紙を丁寧に揃えようとした、その時だった。
「あ……っ、痛っ」
勢いよく揃えた紙の端が、カミソリのように鋭く私の指先を滑った。
本当に小さな、独り言のような声。自分でも、口から漏れたのかさえ怪しいくらいの小さな呟きだった。
けれど次の瞬間、部屋の空気が一変した。
ガタッ!! と、椅子が激しく床を叩く音が室内に響き渡る。
「……っ、今の電話は後だ。切り上げる」
龍一さんはまだ話の途中だったはずのスマートフォンを、叩きつけるようにデスクへ置いた。驚いて顔を上げると、彼は形相を変えてこちらへやってくる。
「っ、龍一さ……」
「指を見せろ!」
言い終わるより早く、私の右手は彼の大きな手に強引に掴み取られていた。
「あ、あの、大丈夫です! 紙でちょっと切っちゃっただけで……」
「黙れと言っている!」
怒鳴り声に近い鋭い声に、私は思わず肩をすくめた。
見上げた龍一さんの顔は、信じられないほど真っ青だ。まるで、目の前で誰かが殺されでもしたかのような、絶望と激しい恐怖に満ちた瞳。
彼は震える指先で、けれど壊れ物を扱うように私の手を引き寄せると、自分のポケットから出した真っ白なハンカチで私の指を包み込んだ。
「……血が、流れている……」
ぽつりと漏れた、消え入りそうな声。
その瞳は、指先の小さな傷ではなく、もっと別の、もっと深い「何か」を凝視しているようだった。
「……すまない。俺が……」
自分の口から漏れた言葉に、龍一さん自身がハッとしたように息を呑み、手で口元を押さえた。
その瞳が激しく揺れている。まるで、自分が何を言ったのか理解できていないような顔だった。
(……龍一さん?)
彼は数秒の間、呆然としていたけれど、すぐに我に返って無言のまま救急箱を取り出した。
消毒から絆創膏まで、まるでもう二度とこの指を傷つけさせないという誓いを立てるような真剣さで、処置をしてくれる。
すべてが終わると、彼はふう、と深く重い吐息をついた。
まだ少し顔色が悪い。私は申し訳なくなって、そっと手を引こうとした。
「あの、龍一さん……本当に、もう平気ですから。仕事に戻ってください」
私がそう言うと、彼は何かを堪えるように一度強く目を閉じ、次に開けたときには、いつもの鋭く冷徹な「氷の皇帝」の瞳に戻っていた。
「……今日の分の予習は、もう終わったのか?」
「えっ? あ、はい。一応、最後まで解きましたけど……」
私の返事を聞くやいなや、彼は迷うことなく私の隣にある予備の椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。
「――っ」
私は反射的に体を強張らせた。さっきの怒鳴り声の余韻が残っていて、また怒られるのではないかと身構えてしまったのだ。
けれど彼は、そんな私の怯えに気づいたのか、ため息交じりに少しだけ椅子を離し、静かな声で言った。
「……見せてみろ」
「は、はい」
逆らえずにノートを差し出すと、龍一さんはそれを手に取り、私の拙い解答をじっと見つめた。
しばらくの沈黙。静かな執務室に、彼が紙をめくる音だけが響く。
「……この三番の問題。公式の使い方は合っているが、計算をミスしている。ここを見直せ」
彼はそう言って、私のノートにすらすらと美しい字で数式を書き足していく。
「あ、本当だ……。うっかりしてました」
「お前は詰めが甘いんだ。……指の傷もそうだろう。もっと自分を大事にしろ」
ぶっきらぼうな言い方。
けれど、ノートを指し示す彼の長い指先が、時折、私の手に触れそうになる。
さっきまで「不愉快だ」と突き放されていたのが嘘のように、今は彼が私の間違いを一つ一つ丁寧に、根気よく教えてくれている。
(怖い人だと思ってた。冷たくて、私のことなんて見てないって……)
けれど、私の小さな声を拾い、小さな傷に真っ青になって駆け寄ってくれた。そして今は、仕事の手を止めてまで、私の隣で勉強を見てくれている。
「……龍一さん」
「何だ。分からないところがあるのか?」
「いえ、そうじゃなくて……。ありがとうございます」
私が小さく笑うと、龍一さんは一瞬だけ言葉を失ったように私を見つめた。
その瞳には、さっきの絶望的な色とは違う、もっと優しくて、どこか切ない光が宿っている。
「……礼を言われる筋合いはない。お前が蒼家の恥にならないようにしているだけだ」
彼はわざとらしく顔を背けたけれど、その横顔は少しだけ赤くなっているように見えた。
外は少しずつ夕暮れに染まり始め、広い社長室には私たち二人だけの時間が流れている。
(……龍一さんの隣、なんだか少しだけ……あったかいな)
紙で切った指先の痛みは、いつの間にか、胸の奥の不思議な高鳴りにかき消されていた。




