1-4. 夜の旋律(美玲視点)
あてがわれた部屋は、これまで母と暮らしていたアパートがいくつも入るほど広く、豪華だった。 けれど、窓の外に広がる手入れされた庭の闇は、美玲の孤独を深くするばかりだった。
(……私の視界に入るな、か)
昼間、龍一から投げつけられた冷酷な言葉が、呪いのように頭の中で繰り返される。 その後の時間は、針の筵のようだった。 夕食の席、新しい父は懸命に場を和ませようとしてくれたが、次男の瑞と三男の麒の視線は氷のように冷たく、会話はすぐに途切れた。 カトラリーが食器に当たる微かな音さえ、罪悪感に変わるような静寂。 母から教わったテーブルマナーを必死に思い出しながらも、美玲は料理の味など何一つ分からなかった。
この館での初日は、予想以上に苦しいスタートになった。 誰にも言えない不安を鎮めてくれるのは、幼い頃から傍にある古琴だけだ。 父が「気兼ねなく弾くといい」と用意してくれた防音の演奏室だけが、今の美玲にとって唯一の避難場所だった。
美玲は琴を調律すると、窓から差し込む青白い月明かりの下、静かに弦に指をかけた。 震える指先が糸に触れた瞬間、ふわりと空気が変わる。
(ああ……やっぱり、この曲だ)
楽譜などない。誰かに教わった記憶もない。 けれど、目を閉じれば指が勝手に物語を紡ぎ出す。 深い森の湿った匂い、木漏れ日の温かさ、そして――名前も顔も思い出せない誰かが、隣で優しく微笑んでいるような、温かくも哀しい旋律。
「……っ」
一筋の涙が頬を伝い、琴の胴に落ちて染みを作った。 この曲を弾いているときだけは、独りではない気がする。理由のわからない喪失感に突き動かされるように、美玲は無我夢中で弦を弾き続けた。
「……その曲を、どこで知った」
不意に、闇の中から低く鋭い声が響いた。 美玲の指が止まり、余韻が不協和音となって消える。 心臓が口から飛び出しそうなほど跳ねた。恐る恐る振り返ると、そこには昼間よりもさらに険しい、鬼のような形相をした龍一が立っていた。
「龍一さん……! うるさくしてしまって、申し訳ございません」 換気のために窓を少し開けていたことに気づき、美玲は慌てて立ち上がり謝罪した。 けれど彼は、影のような速さで美玲に肉薄すると、その細い肩を壊さんばかりの力で掴み上げた。
「――っ!」 痛い。けれど、それ以上に怖い。 彼の瞳には、今にも自分を飲み込みそうなほどの激しい怒りと、何かに飢えたような切実な光が渦巻いている。
「答えろ。その曲を、誰に教わった!」 「わ、わからないんです……。ただ、昔から、指が覚えていて……」
恐怖で声が震えた。肩に食い込む彼の手指から、火傷しそうなほどの熱と拍動が伝わってくる。 彼を怒らせてしまった。母の大切な再婚相手の、最愛の息子を。 最悪の事態に思考が真っ白になる美玲に、龍一はトドメを刺すような、残酷な命令を突きつけた。
「二度と……。二度と、私の許可なくその曲を弾くな」
その言葉は、美玲の耳にはこう届いた。 ――お前の奏でる音など、二度と聴きたくない。不快な真似は二度とするな。
「……っ、はい……。申し訳、ございませんでした」
絞り出すように答えた美玲の視界が、涙でゆがむ。 龍一は何かを言いかけ、苦悶の表情を浮かべたまま、掴んでいた手を乱暴に振り払った。 そして、背を向けて闇の中へと消えていった。
残されたのは、震える肩と、主を失った琴の静寂だけ。
(ごめんなさい……。お母さん、私……やっぱりこの家にはいられないかもしれない)
美玲は、自分の魂そのものだったはずの琴を、壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。 彼にとって、自分の存在だけでなく、この旋律さえも「不快」なのだと、美玲は深く絶望していた。




