1-4. 夜の旋律
自室のソファに深く体を沈め、龍一は独り、グラスに注いだ琥珀色の酒を煽っていた。 アルコールが喉を焼いても、胸の奥のざわめきは消えない。 邸に戻ってきたあの少女――美玲を一目見た瞬間から、世界が歪んでしまったかのようだ。
「……不愉快だ」
そう言い捨てて彼女の前から逃げ出し、夕食の席も欠席した。 あんな小娘にペースを乱される自分に、激しい苛立ちを覚えていたからだ。 だが、暗い部屋にいても意識は勝手に階下へ向かう。 自分が不在の食卓で、弟たちが彼女を冷遇しているだろうことは容易に想像がついた。
(あんな頼りない女、瑞たちの毒気に当てられれば一たまりもないだろう)
放っておけばいい。そう思う反面、なぜか彼女が傷つく姿を想像するだけで、心臓を素手で握りつぶされるような不快な感覚に襲われる。 深夜、静まり返った屋敷の中で、龍一は衝動を抑えきれず自室を出た。 彼女が泣き言を言って、母と共に屋敷を出て行くと言い出さないか。それを見張る必要がある。 そう自分に言い聞かせて、廊下へ出た。
その時だった。 屋敷の静寂を震わせて、あの音が聞こえてきた。
「……っ」
龍一は立ち竦んだ。 わずかに開いた中庭への窓から漏れ聞こえるのは、自分の「夢」の中にだけ現れる、あの旋律。 悪夢の中で、霧の向こうから聞こえてくる、自分の魂を唯一安らげ、同時に最も苦しめるあの調べだ。
(なぜだ……。なぜこの女が、俺しか知らないはずの音を奏でている……!?)
導かれるように足を向けた先。月明かりの下、一心不乱に琴を弾く美玲の姿があった。 その頬を伝う一筋の涙を見た瞬間、龍一の理性を繋ぎ止めていた細い糸が、音を立てて千切れた。
「……その曲を、どこで知った」
自分の声ではないような、地を這う響きだった。 美玲がビクリと肩を震わせ、演奏が止まる。
「龍一さん、うるさくしてしまって申し訳ございません」
反射的に謝罪し、小動物のように怯える彼女。 その姿に、自分でも理由の分からない怒りと、喉が焼けるような渇望が突き上げる。
(こいつは、何者だ。なぜ、土足で俺の夢を侵食する……!)
龍一は影のような速さで近づくと、美玲の細い肩を力任せに掴んだ。 華奢な骨の感触。折ってしまいそうなほど脆い存在が、なぜこれほど自分を揺さぶるのか。
「答えろ。その曲を、誰に教わった!」 「わ、わからないんです……。ただ、昔から、指が覚えていて……」
怯える声。震える体。 彼女は何も知らないと言う。だが、この音は、この瞳は、自分の人生を空虚に支配してきた「あの幻」そのものではないか。 独占欲。 正体不明のどす黒い感情が、彼の思考を塗りつぶしていく。
(俺以外の誰も、この音に触れさせるな。この音の正体を突き止めるまで、こいつを誰にも渡さない)
「二度と……。二度と、私の許可なくその曲を弾くな」
(この音の真実を知るのは、俺だけでいい。俺の前以外で、その指を動かすな)
そう伝えたかったはずの言葉は、あまりにも暴力的な命令となって放たれた。 美玲の瞳に絶望の色が広がるのを見て、龍一は胸に鋭い痛みを覚える。 だが、それをどうフォローすればいいのか、「氷の皇帝」として生きてきた彼には分からなかった。
龍一は逃げるように手を離し、美玲に背を向けた。 これ以上ここにいれば、彼女を抱きすくめ、その涙を拭ってしまいそうになる自分への恐怖を振り切るように、彼は闇の中へ消えていった。




