4-1. 束の間の安息(美玲視点)
パーティーから一夜明けた朝。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光が、私の瞼をくすぐった。
「……ん……」
重い瞼を開けると、視界に入ったのは見慣れた天井と――身体を包む、深い蒼色のシルクだった。
シワが寄ってしまったミッドナイトブルーのドレスを見て、私は昨夜の記憶を一気に呼び覚まされた。
「……私、着替えるのも忘れて寝ちゃったんだ……」
そうだ。車の中で眠気に勝てなくて、そのまま龍一さんに運ばれて……。
足元を見ると、ヒールは丁寧に脱がされ、ベッドサイドに揃えられている。
昨夜の出来事は、夢ではなかったのだ。
龍一さんに「心臓」と呼ばれたこと。額に落ちた熱い口づけ。そして、私を気遣ってくれた優しい手つき。
思い出が波のように押し寄せ、私は枕に顔を埋めて足をバタつかせた。
「……あんなの、もう直視できない……!」
顔から火が出そうになっていると、サイドテーブルのスマートフォンが軽快な通知音を奏でた。
画面には『お母さん』の文字。
私は慌てて呼吸を整え、通話ボタンをタップした。
『あら、美玲? おはよう。こっちはもう夕方よ』
画面の向こうには、地中海の美しい夕日をバックに、満面の笑みを浮かべる母の姿があった。
蒼家の邸宅に越してきてすぐ母たちはハネムーンクルーズに出発していた。
母の隣には、少し日焼けした義父(蒼家会長)が優しげに微笑んでいる。
「お母さん、お義父さん。お久しぶりです。旅行は楽しんでる?」
『ええ、最高よ! ……それより美玲、見たわよ! 瑞くんが昨夜の写真をたくさん送ってくれたの』
母は興奮気味に画面に顔を近づけた。
『あのドレス、本当に素敵だったわ。それに、あの龍一くんが……まさかあんなに優しい顔であなたを見つめるなんてねぇ。出発前は「視界に入るな」なんて言ってたのが嘘みたい』
「そ、それは……いろいろあって……」
『ふふ。あの子たち、美玲のこと溺愛してるじゃない。お母さん、あなたが男ばかりの家に馴染めるか心配だったけれど……これなら安心ね』
母の声は、心からの安堵に満ちていた。
「……うん。私、今すごく幸せだよ。龍一さんも、瑞さんも麒さんも、みんな本当に大切にしてくれるの」
私が素直な気持ちを伝えると、母は涙ぐむように目を細めた。
母は私の幸せを信じ、喜んでくれている。母は側にいないけど、今の私には、全力で守ってくれる「新しい家族」がいる。安心して残りのハネムーン期間も楽しんできてほしいと思う。
その時、部屋のドアが控えめにノックされた。
「美玲。起きているか?」
低く、落ち着いた声。
ドアを開けて入ってきたのは、ラフな部屋着姿の龍一さんだった。
少し乱れた前髪が、普段の完璧な姿とは違う、無防備な色気を醸し出している。
彼はベッドの上に座る私が、まだドレス姿であることに気づくと、一瞬だけ眩しそうに目を細め、それから小さくため息をついた。
「……やはり、着替える気力もなかったか」
彼は私が通話中だと気づくと、画面を覗き込み、自然な動作で私の肩に手を置いた。
「……父さん、母さん。朝早くから騒がしいですよ」
『あら、龍一くん! おはよう。……ふふ、朝から仲良しねぇ』
母が冷やかすと、龍一さんは少しだけバツが悪そうに視線を逸らしたが、私の肩を抱く手は離さなかった。
その指先に、わずかに力がこもる。
「……彼女のことは、私が責任を持って守ります。お二人は安心して、引き続き旅を楽しんでください」
『ええ、頼もしいわぁ。よろしくね、龍一さん』
母の言葉に、龍一さんは「はい」と短く頷いただけだったけれど、その瞳は真っすぐとした誠実な視線だった。
通話を終えた後、部屋には穏やかな静寂が戻った。
「……おはよう、美玲。よく眠れたか?」
「は、はい! おかげさまで……。あの、靴を脱がせていただいて……すみません」
「気にするな。……それより、早く着替えて楽になるといい。シャワーを浴びてきなさい。食堂に朝食を用意させて待っている」
龍一さんは私の頭を一度だけ撫でると、名残惜しそうに部屋を出て行った。
(……龍一さん?)
窓の外は雲ひとつない快晴。
こんな穏やかで、愛に満ちた日々がずっと続けばいい。
心の底からそう願ってしまうほど、今の私は幸せだった。
――そう。
この時の私はまだ、知らなかったのだ。
この安息が、嵐が来る前の、ほんの束の間の静けさに過ぎないということを。




