3-8. 月下の余韻
パーティー会場を後にし、迎えのリムジンが滑らかに走り出すと、車内には心地よい静寂が満ちた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、遮音性の高い空間には微かなエンジンの振動だけが響いている。
「……ふあぁ。マジで疲れた。あの古狸ども、隙あらば美玲に話しかけてきやがって」
向かいの席で、麒が乱暴にネクタイを緩め、シートに深く背中を預けた。
パーティー会場では鋭い眼光で周囲を威圧していた「蒼家の番犬」も、家族だけの空間では年相応の少年の顔に戻っている。
「言葉を慎みなさい、麒。ですが……まあ、あなたのフィジカルな威圧は役に立ちましたよ。おかげで私が直接手を下す手間が省けましたからね」
隣でタブレットを操作しながら、瑞が涼しい顔で応じる。画面には今日声をかけてきた相手とその内容が記録されている。
「だろ? ……それにしても美玲。最後のダンス、すげーよかったぜ。あの玉婷とかいう女の悔しそうな顔、傑作だったな! なあ、美玲?」
麒が同意を求めて隣を見るが、返事はない。
美玲は龍一の隣で、ことりと船を漕いでいた。
緊張の糸が切れ、限界を迎えたのだろう。長い睫毛が震え、小さな寝息が聞こえ始めている。
「……ありゃ。寝ちまったか」
「麒。静かにしろ」
龍一が人差し指を唇に当て、低く弟を制した。
その声には、いつもの氷のような冷徹さは微塵もなく、ただひたすらに甘い色が滲んでいる。
龍一は、グラグラと揺れる美玲の頭をそっと引き寄せ、自らの逞しい肩に預けさせた。
「……よく頑張った」
誰に聞かせるでもなく呟き、龍一は自分のジャケットを掛け直してやる。
その手つきは、世界で最も壊れやすい宝石を扱うかのように慎重だった。
◇
屋敷に到着し、車が停まる。
ドアが開けられると、麒が先に降りて手を差し出した。
「龍一兄。俺が運ぼうか? 挨拶回りで疲れてるだろ」
「不要だ」
龍一は即答し、美玲の膝裏と背中に腕を回した。
ふわり、とミッドナイトブルーのドレスが宙に舞う。
龍一は軽々と彼女を抱き上げると、弟たちを一瞥した。
「疲れていない。美玲は俺が運ぶ。」
「うわ、独占欲つよ……」
麒が呆れたように肩をすくめ、瑞がやれやれと眼鏡を押し上げる。
そんな弟たちを置き去りに、龍一は美玲を抱いたまま、大理石の階段を静かに上っていった。
美玲の部屋に入ると、龍一は彼女をキングサイズのベッドへ丁寧に横たえた。
窓からは満月の光が差し込み、眠れる森の美女のような美玲の顔を白く照らしている。
「……ん……」
小さく身じろぎした彼女の足元に、龍一は片膝をついた。
細い足首を大きな手で包み込み、一日中彼女を支え、締め付けていたヒールのストラップを外す。
あの百貨店でそうしたように、彼はうやうやしく、愛おしげにその靴を脱がせた。
解放された白い足先を、龍一の親指が一度だけ、名残惜しそうに撫でる。
ふわりと布団を肩まで掛け直すと、龍一はベッドの脇に腰を下ろした。
規則正しい寝息を立てる美玲の顔を、飽くことなく見つめ続ける。
(……この温もりが、ここにある)
龍一は長い指を伸ばし、美玲の頬にかかった後れ毛を耳にかけた。
そしてそのまま、指の背で滑らかな頬の輪郭をなぞる。
温かい。柔らかい。生きている。
夢の中で霧に包まれ決して触れることの叶わなかった実体が、今、自分の保護下にある。
「……お前が私の心臓だと言ったのは、比喩ではない」
龍一は、夢の中の彼女に語りかけるように、低く囁いた。
「お前がいなければ、私の世界は再び凍りつくだけだ」
龍一はゆっくりと身を屈めた。
吐息がかかるほどの距離で止まり、最後にそっと、彼女の額に唇を押し当てる。
それは情欲というよりも、誓約に近い、長く深い口づけだった。
「……愛している。誰にも渡さない」
部屋の静寂に、不器用な愛の言葉が溶けていく。
美玲は安心しきったように、ふう、と小さく息を吐いて微笑んだように見えた。
月明かりの下、氷の皇帝は、ただ一人の男として、愛する女性の寝顔をいつまでも見守り続けていた。




