3-6. 招かれざる旋律
三人の兄たちが作り出した「蒼の結界」は、完璧に見えた。
群がる有象無象を退け、私はほんの少しだけ息をつくことができた――そう思った矢先のことだった。
「……ハッ。相変わらず、蒼家はガードが堅いな」
その声は、優雅なワルツの調べを切り裂くように、無遠慮に割り込んできた。
人垣がざりと割れ、一人の男がポケットに手を突っ込んだまま近づいてくる。
鋭い目つきに、獣のような獰猛な笑み。仕立ての良いスーツを着ていても隠しきれない野心が、全身から滲み出ている。
「陸 凱……」
龍一さんの声が、氷点下まで下がった。
彼が、陸グループの若き総裁。蒼龍グループと業界の覇権を争うライバルだ。
陸凱は龍一さんの殺気など意に介さず、獲物を品定めするような目で私を舐め回した。
「へえ。これが噂の『新しい妹』か。……小娘じゃないか。お前が血眼になって隠すほどの女か? 氷の皇帝さんよ」
陸凱は一瞬の隙をついて距離を詰めると、強引に私の手首を掴み上げた。
「っ……!」
「初めまして、お嬢さん。俺は陸凱。堅苦しい蒼龍なんかより、俺のところに来ないか? 俺ならもっと楽しませてやれるぜ」
ニヤリと笑い、私の手の甲に口づけようと顔を近づける。
その瞬間、視界が黒いタキシードに覆われた。
「……その口を、美玲に近づけるな」
衝撃音などなかった。
けれど、陸凱の動きはピタリと空中で静止していた。
龍一さんが音もなく私の前に滑り込み、陸凱の手首を力任せに鷲掴みにしていたのだ。
「……っ、ぐ……」
陸凱の顔から、余裕の笑みが消え、龍一を睨みつける。
ギリ、と骨が軋む音が聞こえてきそうなほどの握力。
龍一さんは表情一つ変えず、ただ氷点下の瞳で相手を見下ろしている。
周囲からは、龍一さんが優雅に割って入ったようにしか見えないだろう。けれど、その指先には殺す気すら感じるほどの力が込められていた。
「……痛ってぇな。離せよ、怪物」
「失せろ」
龍一さんは陸凱の手首を、まるで汚れたものを捨てるかのように冷たく払いのけた。
よろめいた陸凱の左右を、すかさず瑞兄さんと麒兄さんが連携して塞ぐ。
「陸総裁。我が家の令嬢への不躾な接触はやめていただきたい。我がグループに対する『宣戦布告』と捉えますよ」
「お前は俺たちには勝てねぇんだよ。さっさと消えろ」
三方向からの圧力。しかし陸凱は悪びれもせず、肩をすくめて笑った。
「怖い怖い。……だが龍一。お前、随分と『弱く』なったな」
「……何?」
「これまでのお前なら、俺ごときが近づく隙さえ見せなかったはずだ。だが今は、その女を守ることに必死で、全体が見えていない。……女一匹抱え込んで、それがお前の命取りにならなきゃいいがな」
陸凱は私に流し目を送ると、不敵な笑みを残して群衆の中へ消えていった。
ざわり、と私の心に不安のさざ波が立つ。
(私が、龍一さんの……弱点……?)
私は言いようのない悪寒に襲われ、目の前に立つ龍一さんのジャケットの袖を、無意識にぎゅっと握りしめていた。
その不安を肯定するかのように、今度は甘く、けれど毒を含んだ香水の香りが漂ってきた。
「ごきげんよう、龍一様。……陸凱のような野蛮人は放っておくに限りますわ」
絹を裂くような美しい声。
現れたのは、深紅のドレスを纏った絶世の美女――宋 玉婷だった。
彼女の姿が見えた瞬間、周囲の空気がピンと張り詰める。
彼女こそが、社交界の華であり、龍一さんの婚約者候補として最も有力視されている女性。
「玉婷か」
龍一さんの表情は崩れない。しかし彼女が近づいてくることを許していることを見るに2人は何か交流があるように見受けられた。
彼女が龍一さんに向ける熱い視線とは裏腹に、私に向けた視線には、隠しきれない敵意と嫉妬の炎が渦巻いていた。
「初めまして、美玲さん。噂は伺っておりますわ。……ふふ、素敵なドレスね。龍一様が選ばれたのかしら? とても高価な生地だけれど……少し、大きいようね」
彼女は扇子で口元を隠し、鈴を転がすように笑った。
「身の丈に合わない」と、遠回しに言われたのだとすぐに分かり一気に顔が熱くなった。
「玉婷。美玲への無礼は許さん」
龍一さんが低く牽制するが、彼女は涼しい顔で龍一さんに歩み寄ると、その腕に自然な仕草で触れようとした。
「あら、ごめんなさい。ただ、彼女はこの世界に不慣れでしょう? 私、心配なのです。……ねえ龍一様。久しぶりに、あちらで昔話をしませんこと? 私たちの『将来』の話も、お父様方が待っていらっしゃいますわ」
彼女は私を完全に無視し、龍一さんと自分だけの世界を作ろうとしていた。
「将来」という言葉。そして、二人の間に流れる、私には踏み込めない「同格の人間」だけが持つ空気感。
「……」
私は思わず、龍一さんの袖を掴んでいた指を静かに外した。
私と龍一さんの間には、確かに昨夜、家族としての温かな絆が生まれたはずだ。
けれど、この華やかな戦場において、彼の隣にふさわしいのは、私のような何も持たない「妹分」ではなく、彼女のような完璧な女性なのではないか。
陸凱の言葉が蘇る。
『それがお前の命取りになる』
私が龍一さんの側にいることは、彼の足を引っ張るだけなのかもしれない。
招かれざる旋律が、私の心の中で不協和音となって響き始めた。




