3-5. 蒼の結界(美玲視点)
巨大な扉が左右に開かれた瞬間、喧騒に満ちていた会場は、まるですべての音が真空に吸い込まれたかのように静まり返った。
シャンデリアの光を反射する大理石の床。その上を、「蒼」の一団が静然と進んでいく。
先頭を行くのは、漆黒のタキシードに蒼いチーフを挿した龍一だ。その腕に手を添える私と、背後に控える瑞、そして麒。
蒼家の三兄弟が揃って夜会に姿を現すこと自体が異例だが、その中心に「ミッドナイトブルーを纏った見知らぬ美女」を伴っているという事実は、招待客たちの理性を一瞬で奪い去った。
「……あの方は、どなただ?」
「信じられない。あの冷徹な龍一様が、あんなにも愛おしげにエスコートを……」
さざ波のような囁きが会場を埋め尽くす。
瑞兄さんの厳しい特訓を思い出し、私は顎を少し引き、真っ直ぐに前を見つめた。視線の海に溺れそうになるのを、龍一さんの逞しい腕が支えてくれる。
だが、すべての視線が好意的なわけではない。
会場の隅、豪華なドレスに身を包んだ名門令嬢たちの集団から、冷ややかな視線が突き刺さった。
「あら。龍一様のお隣がどなたかと思えば……どこから連れてこられたのかしら。品位も家柄も感じられない、ただの飾り物ですこと」
一人の令嬢が、扇子で口元を隠しながら、周囲に聞こえるような声で嘲笑を浮かべた。
私の耳にもその言葉は届いた。一瞬、指先が強張る。
だが、私が動くより先に、三人の兄たちが動いた。
まず反応したのは、麒兄さんであった。
彼は野獣のような鋭い視線で令嬢たちを射抜くと、彼女たちの目の前まで一歩踏み出し、低い声で言い放った。
「おい。さっきからギャーギャーうるせえんだよ。……うちの美玲にケチつけるってことは、この俺に喧嘩売ってるってことでいいんだな?」
麒兄さんの隠しきれない殺気と、粗野な物言いに、令嬢たちは悲鳴を飲み込んで顔を青ざめさせた。
続いて、瑞兄さんが冷徹な微笑みを浮かべて歩み寄る。
「家柄、ですか。彼女は今や蒼家が正式に認めた唯一の令嬢です。彼女の品位を疑うということは、彼女を教育した私と、彼女を選んだ当主の鑑識眼を疑うということ。……明日の朝には、貴女方の実家との取引をすべて精査し直す必要がありますね」
瑞兄さんの理知的かつ、逃げ場のない経済的な脅し。令嬢たちの親である当主たちが、顔色を変えて慌てて娘たちを物陰へ引きずり込んでいった。
そして、騒然とする会場の中、龍一さんは立ち止まった。
彼は私の肩に手を置き、会場全体を支配するような、重厚で圧倒的な声で宣言した。
「諸君。紹介しよう。彼女は美玲。私の……そして蒼家の、何にも代えがたい大切な家族だ。彼女に対する無礼は、私への反逆と見なす。ゆめゆめ、忘れないことだ」
龍一さんのその言葉は、もはや紹介ではなく、世界に対する「宣戦布告」であった。
誰もが息を呑み、平伏するかのように沈黙する。
私の手を取る龍一さんの瞳には、会場の誰一人として映っていない。ただ私だけを見つめ、彼は静かに微笑んだ。
「怖がることはない、美玲。ここは今日から、お前の庭だ」
かつて私を拒んでいたはずの「蒼」の世界が、今、私の足元に跪いているのを感じた。
龍一さんの宣言は、会場にいたすべての人間の意識を塗り替えた。
さっきまで「出所不明の娘」を蔑んでいた視線は、瞬く間に「最も影響力を持つ女性」への羨望と計算高い下心へと変わった。
「美玲様、お近づきの印に……」
「我が家の嫡男もぜひご紹介したく……」
龍一さんの横に立つ私の元へ、次から次へと政財界の重鎮やその夫人たちが押し寄せてくる。その勢いは、まるで堰を切った濁流のようだ。
不本意ながらも「蒼家の王子」たちを背後に侍らせた私の存在は、この場における最大の権力装置となってしまったのだ。
(どうしよう……こんなにたくさんの人、覚えきれない……!)
パニックになりかけた私の背中に、瑞兄さんがそっと冷たい指先を添えた。
「背筋を。……昨日、私の講義で教えたはずです。相手が誰であれ、あなたは蒼家の名に恥じぬ振る舞いをするだけでいい」
その冷徹な声が、不思議と私の頭を冷やした。
瑞兄さんから叩き込まれた膨大な知識が、反射的に脳裏に浮かび上がる。
目の前にいる、恰幅の良い男性の顔――リストの3ページ目だ。
「……お初にお目にかかります、王社長。先日の新エネルギー事業への出資、素晴らしい英断だったと兄から伺っております」
「おや、これは……! お嬢様まで私共の事業を心に留めてくださっていたとは光栄だ!」
相手の家紋、昨今の動向、ふさわしい敬称。
瑞兄さんの講義は、単なるマナーではなく身を守るための「武器」だったのだ。
私が一言返すたびに、詰めかけた人々は驚きと称賛の表情を浮かべ、一歩身を引いて敬意を払う。
「へえ、瑞兄のクソ真面目な授業も役に立つんだな」
隣で退屈そうにシャンパングラスを転がしていた麒兄さんが、少し感心したように呟いた。
「でも、疲れたらすぐ言えよ。あいつらまとめて外に放り出してやるから」
「……麒、あなたも少しは勉強しなさい。美玲、完璧です。私の生徒として、合格点を与えましょう」
瑞兄さんが満足げに眼鏡を光らせる。
そして龍一さんは私の腰を引き寄せると、周囲を威圧するような低い声で囁いた。
「皆、彼女を疲れさせないでもらいたい。挨拶はここまでだ」
当主の一言で、群がっていた人々は蜘蛛の子を散らすように道を開けた。
圧倒的な権力を持つ龍一さん、知略で場を支配する瑞兄さん、そして野生的な圧力で外敵を退ける麒兄さん。
混乱の極みにあるはずの夜会で、私は三人の兄たちが作り出す完璧な「蒼の結界」の中にいた。
不本意ながらも手に入れたこの強大な「影響力」が、瑞兄さんの教えによって、確かな「蒼家の令嬢」としての重みに変わっていくのを、私は肌で感じていた。




