3-1. 旋風の朝食会(美玲視点)
第3章 皇帝の休日と過ぎた愛
翌朝。
ダイニングルームに足を踏み入れた瞬間、私は妙な空気の重さを感じて足を止めた。
……いえ、重いというよりは、あまりに「眩しすぎる」のだ。
「おはよう、美玲。昨夜はよく眠れたか?」
食卓の主賓席に座る龍一さんが、私を見るなり、ふっと春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。
あの、常に背後に吹雪を背負っているような冷徹な当主様はどこへ行ったのか。
昨夜、演奏室で涙を流した彼は、これまでの頑なな心をどこかに置いてきてしまったらしい。
「あ、はい……おはようございます、龍一さん」
私が席に着こうとすると、龍一さんは音もなく立ち上がり、自ら私の椅子を引いた。
「……っ!?」
ガチャン、と食器が鳴る音。
その場にいた全員の動きが止まった。
給仕のメイドさんがトングを落としそうになり、パンを口に運ぼうとしていた麒兄さんは、口をあんぐりと開けたまま固まっている。
「さあ、座るといい。美玲、ベリーのジャムが好きだっただろう? 今朝、現地の農園から最高級のものを取り寄せさせた。……少し痩せたのではないか? 遠慮せずしっかり食べるんだぞ」
「あ、ありがとうございます……?」
至れり尽くせりの世話を焼かれ、私は戸惑いながら席に着く。
すると、向かい側に座る麒兄さんが、引き攣った笑顔のまま、隣の瑞兄さんへ必死に目配せを送っているのが見えた。
「(……おい、瑞兄。龍一兄、どうしちゃったんだよ。悪いもんでも食べたのか?)」
麒兄さんが声を殺して囁く。
「(……分かりません。ですが、あれは単なる『機嫌がいい』というレベルを超えています。……脳の中枢回路がショートして、ネジが一気に数本吹き飛んだとしか思えませんね)」
瑞兄さんは、いつになく真剣な表情で眼鏡の縁を押し上げ、目の前の未確認生物(兄)を分析している。
そんな弟たちの戦慄を余所に、龍一さんは優雅にナプキンで口元を拭うと、とんでもないことを口にした。
「……そうだ、美玲。今日は仕事を休むことにした」
「えっ……?」
「はああぁぁ!?」
私の驚きを、麒兄さんの絶叫がかき消した。
無理もない。龍一さんが体調不良以外で仕事を休むなんて、この家にやってきてから一度も聞いたことがなかったからだ。
「兄さん、正気ですか!?」
瑞兄さんがガタリと椅子を鳴らして立ち上がる。
「今日は午後に、英国のスチュワート卿との重要な会談が入っているはずです。数ヶ月前から調整していた、代わりのきかない案件ですよ!」
「スチュワートならビジネスを超えた友人だ。融通はきく。来週に回せと秘書に伝えた。……それより、遥かに重要な案件ができた」
龍一さんは、まるでお天気の話でもするかのような平然とした態度で、私を真っ直ぐに見つめた。
「美玲、今日は瑞の講義も休みにしよう。……私と一緒に、出かけないか」
「えっ?」
「君に似合いそうな新しい服や、好きなハーブの店をゆっくり回りたいんだ。君がこの家に来てから、まだ一度も外へ連れて歩いていなかったからな」
「え、ええっ……!? 講義を休むなんて、いいんでしょうか……」
私が恐る恐る隣の瑞兄さんを盗み見ると、彼はこめかみに青筋を浮かべて震えていた。
「いいわけがないでしょう。私のカリキュラムは秒刻みで組んであるんです。それを『服を買いに行く』などという低俗な理由で……!」
「――低俗だと?」
空気が凍りついた。
龍一さんの声から、一瞬にして温度が消える。
「彼女が蒼家の令嬢として、そして私の……大切な家族として相応しい装いを整えることが、この家の当主として何より優先されるべき『公務』だ。違うか、瑞」
龍一さんの瞳には、何物にも揺るがない、鋼のような「過保護な決意」が宿っていた。
反論すれば氷漬けにされそうな気迫に、瑞兄さんは言葉を詰まらせる。
「……っ、承知いたしました。スケジュールは私が再調整します」
「よろしい。……埋め合わせに、明日の講義は一時間だけ延長していいぞ。美玲、大丈夫だな?」
「え、あ、はい……」
(……一時間延長は嫌だけど、断れる雰囲気じゃない……!)
「龍一兄、ずるい! 俺も行く! 俺も美玲に服選んであげたい!」
「麒、お前っ! 自殺行為だぞ!」
麒兄さんが子供のように身を乗り出して叫んだが、瑞兄さんが慌てて袖を引いて止める。
すると、龍一さんの瞳に、一瞬だけ完全な冷徹な眼差しが戻った。
「麒。お前は今日、大学の講義があったはずだ。留年危機だと聞いているぞ。……私を失望させたいのか?」
「うっ……! そ、それは……」
「瑞。君は秘書とスケジュールの調整だ。……行くぞ、美玲。君のために、車を用意させた」
龍一さんは私の手を取り、エスコートするようにダイニングを後にした。
背後からは、「マジで一体何を食べたんだ……」という麒兄さんの呟きと、瑞兄さんが眼鏡を外して深くため息をつく気配が伝わってきた。
(……龍一さん、本当にどうしちゃったの……!?)
昨夜のナイーブな龍一さんから一転。
私をエスコートする龍一さんの横顔は、これまでにないほど晴れやかで――そして、とんでもなく「独占欲」に満ち溢れていた。




