2-11. 霧の向こうの微笑み(龍一視点)
深夜の演奏室は、月明かりが床を銀色に染め、静謐な空気が満ちていた。
美玲が静かに古琴の前に座る。
彼女が爪を立て、弦に指を触れた瞬間、空気が震えた。
――あの曲だ。
私の夢を何百年も彷徨い続け、私を苛み、焦がれさせてきた調べ。
美玲の細い指先から紡ぎ出される音色は、先ほどの琥珀色のハーブティーの湯気のように、私の脳裏に立ち込めていた深い霧を、優しく、しかし確実に払い除けていく。
(……ああ、そうだ。この音だった)
目を閉じると、今までぼやけていた夢の光景が、驚くほど鮮明な色彩を帯びて迫ってきた。
一面に咲き誇る名もなき花々。頬を撫でる、春の陽だまりのような温かな風。
そして、その中心に座り、琴を奏でる一人の女性。
霧が晴れた向こう側で、彼女がゆっくりとこちらを振り向いた。
それは、今、目の前で琴を弾いている美玲そのものだった。
今の彼女よりも、もっと幼く、あるいはもっと古風な装いだったかもしれない。
けれど、私を見つめるその慈愛に満ちた瞳、そして花が綻ぶような無垢な笑顔――。
(……君、だったのか)
私がずっと捜し続けていたのは。
名前も、自分が何者だったのかも、私たちがどのような最期を迎えたのかも、依然として深い闇の中だ。
私たちが貴族だったのか、あるいは禁じられた恋だったのかさえ分からない。
けれど、この「感情」だけは本物だった。
彼女を愛し、彼女を失い、それでもなお、来世で再び出会うことを血を吐くような思いで誓った、魂からの慟哭。
気づけば、私の頬を熱いものが伝い落ちていた。
当主としての矜持も、冷徹な仮面も、今の私の前では何の役にも立たない。
ただ一人の男として、愛する人との再会に、魂を震わせていた。
演奏が終わると、静寂が戻った。
美玲が不安そうに、けれど優しく私を見つめている。
「龍一さん……? 大丈夫、ですか?」
私は立ち上がり、彼女のもとへと歩み寄った。
そして、壊れ物を扱うように、彼女の小さな手を両手で包み込む。
「……思い出せた。お前が、誰だったのかを」
「え……?」
「お前だった。夢の中で、ずっと私に微笑みかけていたのは……間違いなく、お前だった」
自分の声は震え、瞳にはまだ涙の跡が残っているだろう。
身分も、過去の悲劇も、今はまだ分からなくていい。
ただ、目の前にいる彼女が、自分が命を懸けて追い求めてきた「その人」であると確信できた。
それだけで、龍一の凍てついた世界には、確かな春が訪れていた。
「……ありがとう、美玲。お前が奏でるこの音色が、私の魂を救ってくれた」
私は溢れる感情を抑えることができず、膝をついたまま、彼女の細い体をその腕の中に強く引き寄せた。
「っ、龍一さん……?」
驚きに美玲の体が小さく強張る。けれど、私は彼女を離すことができなかった。
腕の中に感じる確かな体温、柔らかな髪の香り、そしてトクトクと刻まれる鼓動。
夢の中で何度手を伸ばしても掴めなかった実体が、今、ここにある。
「もう……どこへも行くな。私のそばに、ずっといてくれ」
絞り出すような私の声に、美玲は戸惑うように呼吸を整えていた。
だが、やがて彼女の小さな手が、おずおずと私の背中に回された。
そして、ぽんぽんと、まるで傷ついた子どもをあやすように優しく撫でた。
「……はい。私、どこにも行きません。龍一さんのそばにいます」
背中に触れる彼女の手の平は、驚くほど温かかった。
美玲は、この抱擁に込められた私の「狂おしいほどの愛執」にまだ気づいていないのだろう。
彼女の抱きしめ返し方は、疲れた兄を労る、どこまでも清らかで優しい「家族愛」のそれだった。
それでもいい。今はまだ。
たとえ彼女が自分自身の感情の正体に気づいていなくても、この温もりがあれば、私はこの先の闇さえも歩いていける。
月の光に照らされた演奏室で、私たちは重なり合う影のまま、止まっていた時間を静かに動かし始めていた。




