2-10. 夢の調べ、琥珀の余韻(美玲視点)
カップが空になり、龍一さんの表情にはこれまでにない穏やかさが宿っていた。
一息ついた私を見て、彼は何かを言い淀むように視線を落とした後、決心したように口を開いた。
「……美玲。もう一つ、お前にお願いがある」
「はい、何でしょうか?」
彼の口から出たのは、全く予想していなかった言葉だった。
「……琴を、弾いてくれないか」
私は驚きのあまり、手に持っていたトレイを落としそうになった。
「えっ……? でも、あの。最初に来た夜、私が弾いていたら龍一さん、あんなに厳しい顔をして『二度と弾くな』って……」
私の指摘に、龍一さんはひどく気まずそうに額を押さえた。
「すまない。……あれは、お前の演奏を拒絶したわけではなかったのだ。ただ、あの日お前の奏でる音を聞いた瞬間、酷く動揺してしまった。……私は、その曲を『知っていた』からだ」
「知っていた……? でも、あれは楽譜もなくて、私が自分で……」
「夢だ」
龍一さんは窓の外の月を見つめ、独り言のように呟いた。
「幼い頃から、何度も繰り返し見る夢がある。深い霧の中、誰かが琴を弾いている。顔も名前も分からないが、その調べだけが、心に深く刻み込まれて離れない。……あの日、お前が弾いていたのは、私が夢の中で何度も聞き続けてきた曲、そのものだった」
龍一さんの声が、微かに震えている。
「あまりの衝撃に、私はどう反応していいか分からなくなった。……お前にその曲の正体を問うのが怖かったのかもしれない。……混乱して、あのような醜態を晒してしまった。許してくれ」
龍一さんの話を聞きながら、私の背中に不思議な鳥肌が立った。
私が誰に教わるでもなく、指が勝手に紡ぎ出したあの調べが、龍一さんの夢と繋がっていたなんて。
まるで、ずっと遠い昔から、私たちがこうして出会うことが決められていたかのような、不思議な感覚。
(……龍一さんを苦しめていたのが、私の音楽だったなんて)
けれど今は違う。彼はその音を「聴きたい」と言ってくれている。
「そんな、謝らないでください。……むしろ、龍一さんの大切な思い出に触れられたみたいで、嬉しいです」
私は立ち上がり、彼に向かって手を差し出した。
「喜んで演奏します。今度は混乱させるためじゃなく、龍一さんの心を癒やすために。……演奏室へ行きませんか?」
龍一さんは、差し出された私の手を一瞬見つめた後、優しくその大きな手で包み込んだ。
先ほどのお茶のカップよりも熱い、彼の体温。
節くれ立った指が、壊れ物を扱うように私の指に絡まる。
「……ああ。頼む」
月明かりが照らす深夜の廊下を、二人で歩く。
繋いだ手から伝わる温もりが、私の胸の奥まで満たしていく。
その足取りは、数日前とは比べものにならないほど軽く、穏やかだった。
今夜、あの演奏室で奏でられる音色は、龍一さんを苦しめてきた孤独な夢を、琥珀色の温かな現実へと書き換えていく。
二人の魂が共鳴する音が、静かに夜へ溶け出していこうとしていた。




