2-9. 夜の静寂を満たす湯気(美玲視点)
夕食を終え、私はパントリーで慎重にハーブを選び出した。
今の龍一さんに必要なのは、張り詰めた神経をほどき、重い責任感を一瞬でも忘れさせてくれるもの。
(カモミールと、少しのリンデン……それに、甘い香りのオレンジピールも入れようかな)
トレイに乗せたティーポットとカップが、廊下にカチャリと小さな音を立てる。
数日前までは、この部屋のドアの前に立つだけで息が詰まるような緊張感があった。
けれど今は、手に伝わるポットの温かさが私を勇気づけてくれる。
コンコン、と控えめにノックをした。
「龍一さん。美玲です。お約束のハーブティーをお持ちしました」
「……入れ」
低い声。でも、そこには拒絶の響きはなかった。
重厚なドアを開けると、龍一さんはいつものデスクではなく、窓際のアンティークソファに深く腰掛けていた。
ネクタイを外し、シャツのボタンを寛げたラフな姿。
照明を落とした室内で、月明かりだけが彼の彫りの深い横顔を白く照らしている。
「失礼します」
私はサイドテーブルにトレイを置き、手際よくお茶の準備を始めた。
カップに注ぐと、カモミールのリンゴに似た甘い香りと、オレンジの爽やかな湯気が、夜の冷たい執務室をふんわりと包み込んでいく。
「……瑞が言っていたのは、本当だったようだな。香りを嗅いだだけで、胸のつかえが少し軽くなる」
龍一さんは、私が差し出したカップを両手で受け取った。
大きな、節くれ立った手。その手が、熱を確かめるように大事そうにカップを包み込んでいる。
「カモミールには『逆境に耐える』という花言葉もあります。でも今は、その逆境から自分を解放してあげてください。龍一さんは、いつも頑張りすぎですから」
私の言葉に、龍一さんは一口茶を啜ったまま、動きを止めた。
長い沈黙が流れる。でも、それは以前のような凍りつく気まずさではなかった。
「……美玲。お前に、謝らなければならないことがある」
「えっ……?」
龍一さんはカップをテーブルに置くと、少しだけ顔を伏せた。
「私はお前をこの家に迎えた時……お前を一個人としてではなく、守るべき、あるいは私の支配下に置くべき『所有物』のように扱っていた。お前が自由であることを恐れ、不器用に縛り付けることしかできなかった」
自嘲気味に呟く彼の声は、ひどく掠れていた。
「瑞に指摘されるまで……私は自分の傲慢さに気づけなかった。お前を困惑させ、この家を窮屈な場所にしていたのは、他ならぬ私だ」
あんなに誇り高い「氷の皇帝」が、私に弱さを見せてくれている。
私はそっと、彼のそばに歩み寄った。
「龍一さん。……私は、困惑はしていましたけど、嫌だったわけじゃありません。あなたが不器用なりに、私を守ろうとしてくれていたのは分かっていましたから」
私は屈み込んで、彼の顔を覗き込んだ。
「でも、これからは一方的な『支配』じゃなくて、ハーブティーの感想を言い合えるような『家族』になりたいです。瑞兄さんも、麒兄さんも……そして龍一さんも。私にとって、大切なお兄さんなんですから」
「……お兄さん、か」
龍一さんはその言葉を噛み締めるように繰り返し、一瞬だけ複雑そうに瞳を揺らした。
けれどすぐに、憑き物が落ちたように小さく笑った。
その笑みは、これまで見たどの表情よりも柔らかく、月明かりの下で琥珀色の輝きを放っていた。
「ああ、そうだな。……お前が淹れてくれたこの茶が、私の醜い心を少しだけ浄化してくれたようだ」
龍一さんはもう一度、ゆっくりとお茶を飲み干した。
部屋を満たす温かな湯気。
琥珀色の茶が、私たちの間にあった高い壁を、静かに溶かしていく夜だった。




