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2-8. 温かな約束(美玲視点)

ズイ兄さんの書斎へ通い始めて、数日が経った。

「蒼家の人間としての基礎」を叩き込まれる時間は想像以上にハードだけれど、ただ顔色を伺って怯えていただけの頃に比べれば、今の私はずっと前を向けている気がする。

「……瑞兄さん、本日もありがとうございました。失礼します」

「ええ。昨日の復習、完璧でしたよ。明日も期待しています」

瑞さんの冷静な、けれど少しだけ温度の上がった声を背に受けて廊下に出ると、窓の外はもう濃い夕闇に包まれていた。

借りた分厚い教本を胸に抱え、自室へ戻ろうとした時――。

「……美玲」

廊下の突き当たり、影の落ちる場所に龍一さんが立っていた。

あの日、彼に「麒と仲良くするのが不快だ」と告げられて以来、私たちは必要最低限の言葉しか交わしていなかった。

龍一さんの執務室での勉強も、瑞兄さんが何か(おそらく効率が悪いとでも)言ったのだろう、あれ以来行われていない。

私は足を止め、居住まいを正した。

数日前なら、この威圧感にただ圧倒されて言葉を失っていただろう。

けれど今は、瑞兄さんの「兄さんを無駄に恐れるな」という顔を思い浮かべて、努めて穏やかに微笑んでみる。

「龍一さん。お疲れ様です。お仕事、一段落されたんですか?」

龍一さんは無言のまま、ゆっくりと私との距離を詰めてきた。

夜の廊下で、鋭い瞳が私を射抜く。

けれど、その奥に潜むのはいつもの怒りではなく、どこか自分自身を制御しようと抗うような、苦しげな迷いだった。

「ああ。……瑞の講義は、どうだ。まだ続いているのか」

「はい。すごく勉強になります。私、早く蒼家の一員として認めてもらえるようになりたくて。瑞兄さんも、根気強く教えてくださっているんです」

一生懸命に答える私を見つめながら、龍一さんの拳が微かに握り込まれた。

瑞兄さんから聞いたことがある。「兄さんは本当は情が深い人だけど、それを言葉にして伝えるのが致命的に下手なのだ」と。

龍一さんは一度視線を逸らし、何かを振り切るようにして、ひどく不器用な声で言った。

「……瑞から聞いた。お前は、ハーブティーを淹れるのが上手いそうだな」

不意の言葉に、私は驚いて瞬きをした。

「瑞兄さんが、そんなことを……?」

「ああ。……お前が母上から教わった、大切な特技だと。あの瑞が、あんなに誰かの淹れた茶を褒めるのは珍しい」

そこまで言って、龍一さんは迷うように視線を泳がせた後、意を決したように私を真っ直ぐに見つめた。

その表情は、商談の時よりもずっと緊張しているように見えた。

「……もし、お前が良ければ。私にも、その……茶を淹れてくれないか」

瑞兄さんの言う通りだ。

この人は怖いんじゃない。口下手なだけだ。

彼は、彼なりに私との「家族」としての繋がり方を必死に探して、歩み寄ろうとしてくれている。

「……はい! もちろんです、龍一さん」

「……そうか。なら、今すぐで構わない。私の部屋へ……」

「あ、待ってください!」

踵を返そうとした彼を、私は弾んだ声で、けれどきっぱりと制した。

「今はまだお仕事の直後ですよね。ハーブには、すごくリラックスして眠気を誘うものもあるんです。せっかくなら、一日の終わりを一番いい気持ちで締めくくっていただきたいですから」

私は指を一本立てて、少しだけ自信を持って提案した。

「……よく眠れるような特別なブレンドを考えておきます。夕食が終わって、お休みになる前に……お部屋にお伺いしてもいいですか?」

私の提案を聞いた龍一さんは、虚を突かれたように目を見開いた。

ただ命令に従うだけの存在だった私が、自らの意志で彼を気遣い、時間を指定したことに驚いているようだった。

「……夕食後、か」

「はい。その方が、より効果的だと思いますから」

そう言って私が笑うと、龍一さんは毒気を抜かれたように、小さく「……分かった」とだけ答えた。

その横顔には、数日前のあの刺々しさはなく、どこか肩の力が抜けたような穏やかさが漂っていた。

「では、約束ですよ。心を込めて準備しておきますね」

私は教本を抱き直し、軽やかな足取りでキッチンへと向かった。

あんなに重苦しく、近づくことさえ怖かった「龍一さんの部屋」。

そこが今は、一人の大切な家族を癒やすための、琥珀色の温かな約束の場所に変わり始めていた。

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