2-7. 皇帝と策士
「……瑞。お前、彼女を自分の書斎に呼び入れたそうだな」
執務室のドアが開くと同時に、龍一の声が低い地鳴りのように響いた。
デスクに向かう龍一の瞳は、書類ではなく、入ってきた弟を鋭い殺気で射抜いている。
「ええ。彼女には蒼家の人間としての基礎が欠けている。私がマナーと教養を叩き込むことにしました」
瑞は兄の刺すような視線を眼鏡の奥で冷静に受け止め、淡々と事務的な報告を述べる。
「不要だ。彼女の教育は私が、私の目の届く場所で行うと言ったはずだ。……お前に指図される筋合いはない」
「兄さん」
瑞は一歩踏み出し、冷徹な響きの中に、弟としての強い忠告を込めた。
「今のあなたは異常です。彼女を自分の腕の中に閉じ込め、呼吸さえ管理しようとしている。今の彼女を見てください。あなたの真意が分からず、ただ困惑して、常にあなたの顔色を伺っている。……妹として迎えたはずの彼女を、そんな風に精神的に追い詰めるのがあなたの本意ですか?」
龍一の指が、デスクの上でピクリと跳ねた。
「追い詰めてなど……。私はただ、彼女を正しく守るために……」
「『守る』という言葉を免罪符に、彼女を孤立させないでください。今のあなたは、彼女を家族として見ているようには思えない。……兄としての理性が、その歪な執着に食い潰されているのではないですか?」
瑞の言葉は、鋭い刃のように龍一の図星を突いた。
龍一は深く椅子にもたれ、天を仰いだ。瑞が、ただの気まぐれや嫌がらせで美玲を連れ去ったのではないことは分かっている。
誰よりもこの家の安寧と繁栄を願い、長兄である龍一が、制御不能な「情」に呑まれて崩れることを恐れているのが瑞だ。
「……分かっている。お前の言うことが正しいのは、百も承知だ」
龍一は顔を覆い、吐き捨てるように呟いた。
その声には、先ほどまでの「皇帝」としての威圧感はなく、ただ一人の男としての、泥沼のような苦悩が滲んでいた。
「だが、瑞……私には、どうしても抗えないのだ。彼女を妹として扱おうとすればするほど、胸の奥で煮えたぎるような衝動が走る。彼女のすべてを塗りつぶし、私の所有物として繋ぎ止めておきたいという、この醜い飢えをどうすればいい。私は……私自身が、得体の知れない化物になったようで、自分が一番許せないのだ」
瑞は沈黙した。
常に完璧であり続けた兄が、これほどまでに自分を曝け出し、家族愛と独占欲の間で引き裂かれ、己自身に怯えている姿を見るのは初めてだった。
「……彼女に執着しているのは、私だ。彼女なしでは、私は自分を保つことさえ危ういのかもしれない」
龍一の吐露。それは、愛というにはあまりに重く、呪いに近い執念だった。
瑞は眼鏡の縁を押し上げ、深くため息をつくと、少しだけ声を和らげて言った。
「……兄さんのその『どうしようもなさ』は、私が一時的に預かります。彼女を私の書斎に置く間だけは、あなたは『完璧な当主』に戻ってください。あなたが自身を律することが、彼女をこの家に留まらせる唯一の方法です」
龍一は目を開け、弟をじっと見つめた。
瑞の瞳には、兄への憐れみではなく、共にこの重荷を背負おうとする覚悟が宿っていた。
「……瑞。すまない、助かる」
龍一の絞り出すような謝辞に、瑞は眼鏡のブリッジを押し上げ、わずかに表情を和らげた。
「謝罪は不要です。……その代わり、彼女が学習中は、みだりに立ち入らないでください。集中力の欠如した生徒を教えるのは、非常に効率が悪い」
瑞は一度言葉を切ると、ふと思い出したように自分の持ってきたファイルの上に視線を落とした。そこには、空になったティーカップが乗せられている。
「ああ、そうだ。兄さん。……一度、彼女に茶を淹れさせてみてはどうですか」
「……茶を?」
唐突な提案に、龍一は訝しげに眉を寄せた。瑞は穏やかな口調で続ける。
「ええ。彼女、ハーブの扱いにはなかなかの知識があるようです。私の体調や仕事の内容を一目で見抜き、最適なブレンドを淹れてくれました。……驚くほど、私の好みに合致した一杯でしたよ」
龍一の瞳から険しさが消え、わずかに驚きが混じる。
「彼女が……自ら進んでそんなことを?」
「はい。母に教わったのだと嬉しそうに話していました。……今のあなたのその硬い表情も、彼女の淹れる茶を一口飲めば、少しは解けるかもしれません。……そんなに眉間に皺を寄せていては、彼女もあなたにどう接していいか分からず、顔色を伺うばかりでしょう?」
瑞はわざとらしくため息をつき、扉へ向かって歩き出した。
「私にできたのですから、兄さんにもできるはずです。彼女を『管理』するのではなく、彼女の淹れた茶でも飲んで、一息つくくらいの余裕を持ってください。……でないと、教える側の私の身が持ちません」
瑞は扉に手をかけ、振り返って小さく笑った。
「では、私は教育に戻ります。美玲さんの淹れた特製ティーのおかげで、今はとても気分がいい。……兄さんにも、そのうち彼女に頼んでみることをお勧めしますよ」
吐き捨てるような「黙れ」という声も、今はどこか力がない。
瑞が去った後、残された龍一は、誰もいなくなった部屋で自らの手のひらを見つめた。
(……彼女の淹れる、茶か)
自分の完全な支配下にあると思っていた彼女が、自分の知らない特技で、弟の心を穏やかにさせていた。
嫉妬がないと言えば嘘になる。
だが、それ以上に、彼女がこの家で「自分の意志」で誰かのために動こうとしている事実に、龍一の胸の奥の強張りが、ほんのわずかだけ緩んだような気がした。




