2-6. 観測者の警告と、新たな「兄」(美玲視点)
昨夜の龍一さんの、あの痛々しいほど硬い背中が目に焼き付いて離れない。
ほとんど眠れないまま朝を迎え、朝食を終えて自室に戻ろうとした時だった。
「……昨夜は、ずいぶん遅くまで兄さんの部屋にいたようですね」
背後からかけられた、氷のように冷ややかな声。
心臓が跳ね上がり、振り返ると、そこには眼鏡の奥で怜悧な光を宿した次男の瑞さんが立っていた。
手にはタブレットを持ち、私をデータの一つとして分析するような目で見下ろしている。
「あ、瑞さん……」
「不用意ですよ。あなたが兄さんの部屋から出てくるのを、私はこの目で見ました。龍一兄さんは今、社運を賭けたプロジェクトの最中だ。あなたに割く時間はないのです。兄さんの集中を削ぐことは、この家にとっての損失でしかない。……少し、私の部屋に来なさい」
拒否権などないような鋭い視線。
私は促されるまま、三階にある瑞さんの書斎へと連行された。
そこは、壁一面の本棚に専門書が天井まで整然と並ぶ、図書館のように静謐な空間だった。
「座りなさい」
瑞さんは革張りのデスクに深く腰掛け、組んだ指の上に顎を乗せて私を凝視した。
「兄さんは、あなたという『不確定要素』を抱え込んでから、明らかに計算が狂っている。昨夜、彼はあなたに何を言ったのですか?」
「それは……。その、私が麒兄さんと仲良くなったのが、不快だって……」
正直に話すと、瑞さんはフッと鼻で笑った。けれどその笑みは、どこか呆れたような、自嘲気味なものだった。
「……やはり。兄さんは昔から、自分が守ると決めたものに対して、異常なまでの固執を見せる癖がある。……だが、美玲さん。あなたは兄さんに怯え、麒に甘やかされるだけで、この家での『自分の役割』を理解しているのですか?」
「私の、役割……?」
「ええ。あなたは蒼家の一員になろうとしている。ならば、ただ守られるだけの存在であってはならない。兄さんの理不尽な独占欲をいなし、麒の暴走を止められるだけの『知性』と『品位』を身につけなさい」
瑞さんはデスクから一冊の分厚い本を取り出し、ドサリと私の前に置いた。
『国内主要財界人名録』――まるで辞書のように分厚い、黒革の装丁の本だ。
「今日からは、兄さんの仕事が終わるまで、私の部屋でこれを読みなさい。私が一から、この家の、そして社交界の基礎を叩き込んであげます」
「えっ……こ、こんなに分厚いリストを覚えるんですか?」
「当然です。社交界とは笑顔の仮面を被った戦場だ。誰が敵で誰が味方か、誰が兄さんにとって有益か。顔と名前、背景にある企業グループまで全て頭に叩き込みなさい」
瑞さんは淡々と、事務的な口調でそう告げた。
冷酷な排除勧告かと思いきや、彼が提示したのは、厳しくも徹底的な「参謀としての教育」だった。
「勘違いしないでください。兄さんがあなたにかかりきりになって、仕事に穴を開けるのが嫌なだけです。……あなたが賢くなれば、あんな風に兄さんを無駄に逆撫ですることもなくなる」
「……瑞さんは、てっきり私を追い出したいのだと思っていました」
「追い出す方が非効率的です。……それに、昨夜のあなたを見て思いましたが……あなたには、側にいて厳しく正してくれる『理性的な兄』が必要だ」
瑞さんはそう言って、眼鏡のブリッジを中指でスッと押し上げた。
「龍一兄さんは何故かあなたに執着しているようだし、麒は自分が兄の立場になって浮かれているだけだ。私が教えなければ、あなたはいつまで経ってもこの家の波風に翻弄されるだけですからね」
冷たい言葉。でも、その瞳は「どうしようもない妹」を見るような、不思議と温かい呆れを含んでいた。
少し話してみると、瑞さんは父と母のあの新婚オーラに随分と呆れているらしく、最近ようやく追い出すことを諦め、「戦力として組み込む」ことにシフトしたらしい。
「……わかりました。瑞さんの言う通り、私、もっとしっかりします。よろしくお願いします、瑞兄さん」
ふざけて麒兄さんの真似をして呼んでみると、瑞さんは「っ!?」と一瞬顔を赤くし、激しく咳き込んだ。
「……誰がそんな呼び方を許可しましたか! 麒の真似はやめなさい」
そう言いつつも、それほど嫌がっているようには見えない。瑞さんは慌てて視線を書類に戻したけれど、ページをめくる手が少しだけ泳いでいる。
この人も、やり方は全然違うけれど、私をこの家の欠かせないパーツとして認めようとしてくれているんだ。
「……ハーブティーを淹れなさい。それから勉強にしましょう」
背を向けたまま、瑞さんは事務的に付け加えた。
けれど、私はふと思い立って提案してみた。
「あの、瑞兄さん。ハーブティーなら……私のブレンドで淹れてみてもいいですか?」
「……あなたが?」
瑞さんは意外そうに、眼鏡の奥の瞳をわずかに見開いた。
「はい。実は母がハーブに詳しくて、私も小さい頃から教わっていたんです。今の瑞兄さんのように、根を詰めてお仕事をされる方にぴったりの組み合わせを知っています」
「……ふん、素人の生兵法で私の集中を乱さないでいただきたいものですが」
瑞さんはぶっきらぼうに言い捨てて、再び手元の書類に目を落とした。
「ですが……そこまで言うなら、データとして試してみましょう。脳の活性化に良いブレンドを要求します」
「はい! お任せください」
私はパントリーへ向かった。そこには蒼家にふさわしい高級な茶葉やハーブの瓶が整然と並んでいる。
私はその中から、頭をすっきりさせるローズマリーと、高ぶった神経を鎮めるレモンバームを選び出し、丁寧にお湯を注いだ。
(喜んでくれるといいな……)
蒸らし終えたカップを瑞さんのデスクに置くと、若草色の爽やかな香りが書斎に広がった。
瑞さんは無言のままカップを手に取り、香りを確かめるように一口、ゆっくりと含んだ。
「……」
「どう、ですか……?」
「……悪くはありませんね。香りの立ち方が非常に論理的だ。ローズマリーの刺激をレモンバームが中和し、作業効率を上げる構成になっています」
難しい感想だけれど、瑞さんの瞳がふっと柔らかくなったのを私は見逃さなかった。
「よかったです! 瑞兄さんにそう言ってもらえると、自信になります」
「……っ! ですから、その呼び方は……!」
瑞さんはまた激しく咳き込んで、顔を耳まで真っ赤にした。
「……んんんっ、お茶を淹れる暇があるなら、早くこのページを覚えなさい。時間は有限です」
照れ隠しのように突き出された分厚い名簿。
でも、その隣に置かれたハーブティーの湯気は、瑞さんの張り詰めた空気を、ほんの少しだけ優しく溶かしているようだった。




