2-4. 懐に飛び込む勇気(美玲視点)
社長室での勉強の日々が始まって一週間。
龍一さんの隣に座る生活にも、少しずつ慣れてきた。
相変わらず仕事中の彼は「氷の皇帝」そのものだ。けれど、私が少しでも寒そうに肩をすくめれば無言で空調の温度を上げ、お腹が鳴りそうになれば、絶妙なタイミングで秘書に軽食を持ってこさせる。
(……龍一さん、やっぱり実はお節介なのかな)
そんな風に少しずつ余裕が出てきたけれど、まだ二人の弟――瑞さんと麒さんとは馴染めないでいた。
特に三男の麒さんは、私を避けるどころか、邸の廊下で会うたびにわざわざ立ち止まって突っかかってくる。
「おい、居候。お前、今日も龍一兄のところで媚を売ってきたのか?」
「……勉強を教えてもらっていただけです」
「ふん。龍一兄もよくやるよな、こんなドン臭そうなのの相手。足手まといにならないようにしろよ」
意地悪な言葉を投げられはするけれど、その表情はどこか子供の喧嘩のようで。
麒さん自身、新しい家族という環境に馴染めない苛立ちを、私というサンドバッグにぶつけているだけ……そんな風にも見えた。
そんなある日の夕方。
邸の裏にある広いコンクリートのスペースから、硬い車輪が地面を削る激しい音が聞こえてきた。
ガァッ、ガガッ!
「……くそっ、またかよ!」
生垣の隙間から覗いてみると、麒さんが一人でスケートボードの練習をしていた。
縁石のような高い段差に飛び乗る技に挑戦しているようだけど、何度も失敗してはボードが激しく弾け飛んでいる。
汗だくになって、何度も、何度も。
(……あ、あそこ。昨日の雨で少し苔が生えてる。滑りやすいんじゃ……)
「麒さん、そこ危ないです!」
思わず声を上げると、麒さんが驚いて振り返った。
「……っ!? またお前かよ。居候は引っ込んでろ!」
麒さんが顔を真っ赤にして叫んだ瞬間、着地のバランスが崩れた。
タイヤが苔に足を取られる。
「あ、危ない!」
私が駆け寄るのと、彼が派手に転倒するのは同時だった。
ドサッ! という鈍い音。
「っ……つぅ……ダッセェ」
麒さんは膝と手のひらを地面に打ちつけ、痛みに顔を歪めている。
「大丈夫ですか!? ほら、やっぱり擦りむいてる……」
「触んなよ! こんなの、かすり傷だ」
強がる麒さん。でも、コンクリートで擦った手のひらからはじわじわと血が滲み、傷口には砂利が入り込んでいる。
「怒る前に自分を大事にしてください! 砂が入ると化膿しますよ」
私が真剣な顔で詰め寄ると、麒さんは毒気を抜かれたように黙り込んだ。
龍一さんに手当てしてもらった時の、あのどうしようもない切なさを思い出しながら、私は彼の手を取った。
「今、水と消毒薬を持ってきますから。……逃げないで待っててくださいね!」
屋敷から救急セットを持って戻ると、麒さんは逃げずに、膝を抱えて同じ場所に座り込んでいた。
私は彼の隣に膝をつき、ペットボトルの水で汚れを洗い流してから、丁寧に消毒を始めた。
「……お前、バカだろ」
麒さんが、きまり悪そうにそっぽを向いて呟く。
「俺、いつもお前に嫌なことばっかり言ってるのに。なんで助けるんだよ」
「……麒さん、スケボーしてるとき、すごく一生懸命だったから」
「は?」
「誰が見ていなくても、何度も転んで、何度も挑戦して。……そういう一生懸命な人を放っておくなんて、私にはできません」
私が素直な気持ちを伝えると、麒さんは数秒間、固まった。
優秀すぎる二人の兄を持つ彼にとって、その「過程」を見てくれる人は少なかったのかもしれない。
彼の耳が、みるみる赤く染まっていく。
そして、空いている方の手で、私の頭を乱暴にごしごしと撫で回した。
「……たく、お前みたいな甘い奴、俺が見てないとすぐ誰かに騙されるぞ」
「えっ? き、麒さん、髪が……」
「兄貴は厳しいし、瑞兄は理屈っぽいだろ。……いいか、困ったことがあったら俺に言え。俺が、お前の『アニキ』になってやる」
「……アニキ、ですか?」
きょとんとして聞き返すと、彼はふんと鼻を鳴らして胸を張った。
「そうだ! 俺の舎弟……じゃなくて、妹分にしてやるって言ってんだ。俺の許可なく他の奴に虐められるんじゃねーぞ。分かったか! 分かったら、『麒兄さん』と呼べ」
「……! はい、麒兄さん!」
満面の笑みで答えると、麒さんは「やっぱりやめだ、恥ずかしいだろ!」と怒鳴りながらも、嬉しさを隠せない様子で口元を緩めていた。
◇
その日の夕食。
食卓には、いつになく不穏な空気が流れることになった。
「ほら、食え。お前、ガリガリなんだよ。もっと体力つけろ」
麒さんが、龍一さんの目の前で堂々と私の皿に大きな肉を放り込んだのだ。
「……麒」
隣に座る龍一さんの声が、地を這うように低く響く。
室温が一気に下がった気がした。
「お前、彼女といつの間にそんなに親しくなったんだ」
「龍一兄には関係ねーだろ。今日からこいつは、俺が守ってやることにしたんだ!」
「……お前が、守る?」
龍一さんの瞳から、すうっと光が消えた。
カチャン、と銀食器が皿に当たる音が、やけに大きく響き渡る。
「私の管理下にある人間に、勝手な干渉をするなと言っている」
「なんだよそれ。美玲はモノじゃねーぞ! 兄貴、ちょっと力入りすぎだって。そんな顔してたら、美玲が怯えるだけだろ」
麒さんも負けじと言い返す。そこには嫌悪感はなく、むしろ空回りする兄をたしなめるような響きがあった。
しかし、余裕のない龍一さんには、それが自分への非難として届いてしまったようだった。
瑞さんが呆れたように「食事中に騒がしいですね……頭痛薬はありますか」と呟くが、龍一さんの耳には届いていないようだった。
「……不愉快だ」
吐き捨てるようにそう言うと、龍一さんはまだ料理が残っているにも関わらず、荒々しくナプキンをテーブルに置いた。
「龍一? まだ食事中だぞ」
「食欲が失せました。……先に失礼します」
父の言葉も無視し、龍一さんは私に冷たい一瞥――けれど、どこか傷ついたような、縋るような視線を一瞬だけ残して、足早にダイニングを出て行ってしまった。
バタン、と重い扉が閉まる音が響く。
残された食卓には、凍りついたような沈黙だけが漂っていた。
「……気にすんなよ、美玲。龍一兄、虫の居所が悪かったんだろ」
麒さんが明るく振る舞ってくれたけれど、私は喉の奥が詰まったようで、もう料理の味など分からなくなっていた。
(……あんな目。あんな寂しそうな背中、初めて見た)
私の胸の奥に、さっきの一瞬の視線が棘のように刺さって抜けなくなっていた。




