第三十五話:父親の迷宮航法と、地下の住人
ひんやりとした、黴と澱んだ水の匂い。
豪華な館の大理石でできた浴室。その床に開いた黒い口から、俺たちの本当の戦いは始まった。
ボルクさんがまず音もなく闇の中へと降り立つ。次に、エリアナが軽い身のこなしで続く。
そして、最後に俺が、れいかを特製の革の抱っこ紐で胸にしっかりと固定し、その暗闇へと身を滑り込ませた。
「パパ、ほんとにかくれんぼ?」
「ああ、そうだ。だから、絶対に静かにしてるんだぞ」
俺の耳元で囁く、れいかの声。そのわずかな震えが、彼女の恐怖と、俺への信頼を同時に伝えていた。
俺が鉄格子の蓋を内側から静かに閉じる。
光が、完全に途絶えた。
だが、その闇はすぐに破られた。
「―――【グロウ・スフィア】」
エリアナの囁き声と共に、彼女の杖先に蛍のような淡い光の球が生まれた。
その光が、俺たちの周囲をぼんやりと照らし出す。
そこは、俺が予測した通り、古びた石造りの地下水路だった。天井からは絶えず冷たい雫が滴り落ち、足元にはくるぶしほどの深さでよどんだ水が流れている。
「……ひでえ場所だな。三十年前、王都の防衛戦でここを使ったことがあるが、あの頃よりさらにボロくなってる」
ボルクさんが吐き捨てるように言う。
彼の言う通り、この地下水路は迷路のように複雑に入り組んでいた。いくつもの水路が合流し、分岐していく。
「こっちです」
俺は一切の迷いなく、右手の、一際狭い水路を指さした。
「なぜ、そっちだと分かる?」
「三十年前、俺たちが進軍したのは、あっちの広い道だった」ボルクさんが、俺の指さす方とは逆の、広い水路を顎でしゃくる。「そして、待ち伏せに遭って、全滅した…。貴弘、お前の選んだ道が、本当に正しいという保証はどこにある?」
過去のトラウマが、彼の言葉を重くする。俺は、振り返らずに、静かに答えた。
「保証はありません。ですが、俺の『目』が、こっちへ行けと告げている。それだけです。俺を信じてください」
俺の脳内では、スキル【構造解析】が、この地下迷宮の全てを、一つの巨大な三次元地図として再構築していた。俺はもはや、ただの父親ではなかった。この闇の迷宮を完璧に航海する、ただ一人の水先案内人だった。
俺たちは、俺の指示に従い、闇の中を慎重に進んでいった。
時折、水の音に混じって、カサカサと何か無数の生き物が壁を這う音が聞こえる。その度に、れいかが俺の胸にぎゅっと顔をうずめた。
「大丈夫だ。パパがついてる」
俺は娘を安心させるように、その背中を優しく叩く。この腕の中に、この世界の全ての希望がある。
一時間ほど進んだだろうか。
俺は、ふと、足を止めた。そしてエリアナに合図を送り、杖先の光を消させる。
再び、完全な闇が俺たちを包み込む。
「師匠…?」
「静かに。何かが、来ます」
闇の奥から、シャリ、シャリ、という硬いものを削るような音が、無数に近づいてくる。
「……ボルクさん。絶対に剣を抜かないでください。エリアナも、魔法の準備はまだ早い」
俺は二人の逸る気持ちを手で制した。そして、リュックから金属製の音叉を取り出すと、指で軽く弾いた。
キーン、という澄んだ音が闇に吸い込まれる。
次の瞬間。俺たちが進む先の壁が、まるで星空のように、無数の青白い光で明滅を始めた。光苔だ。
そして、その光に照らし出されたのは、壁や天井をびっしりと覆い尽くす、巨大なモグラのような魔物の群れだった。光苔モグラ。光や大きな音に反応し、凶暴化する。
「……なるほどな。光の魔法を使っていたら、今頃こいつらの餌食だったわけか」
ボルクさんが冷や汗を拭う。
その時、俺の胸に抱かれたれいかが、目の前の不気味な光景に、ひっ、と息を呑んだ。
その、ほんの僅かな音に、一番近くにいたモグラの一匹が、ピクリと反応し、ゆっくりと、こちらを振り向いた。
まずい。
俺は、咄嗟にれいかの口を、そっと手で覆う。そして、もう片方の手で、音叉を、先程よりも、ほんの少しだけ、強く弾いた。
キィン、という、わずかに周波数の違う音が響く。
こちらを向いていたモグラは、その音に気を取られ、興味を失ったかのように、再び壁を削り始めた。
俺は、闇の中、仲間たちにだけ聞こえるように囁いた。
「俺についてきてください。音を立てず、呼吸も最小限に。俺が、この闇の中の安全な『構造』を見つけ出します」
俺は目を閉じ、視覚を捨てた。聴覚、触覚、そして【構造解析】を極限まで研ぎ澄ませる。
水の音。空気の振動。モグラたちの呼吸のリズム。その全てが、俺の頭の中に、完璧な「安全なルート」を描き出していく。
俺は、その見えない道を、一歩、また一歩と、慎重に進んでいった。この闇と沈黙の迷宮こそが、俺が最も得意とする「現場」だったからだ。
永遠のようにも思える数分後。
俺たちは、誰一人傷を負うことなく、モグラたちの縄張りを完全に突破していた。
俺が合図をすると、エリアナが再び最小限の光を杖先に灯す。
「……ここまで来れば、もう大丈夫でしょう」
俺の目の前には、一つの古びた鉄のはしごが、天井に向かってまっすぐに伸びていた。天井には、円形の鉄格子の蓋が見える。マンホールだ。
「ここです」
俺は、そのマンホールを指さした。俺の脳内地図が、正確に告げている。
この真上にあるのが、俺たちの最初の目的地。捕虜のライレンと、俺たちの荷物が運び込まれた、王城の騎士団の兵舎の、地下倉庫だ、と。
「さて、と」
俺は、仲間たちの顔を見回した。その目には、疲労の色はあったが、それ以上に、リーダーである俺への絶対的な信頼の光が宿っていた。
「作戦の、第二段階を開始します。静かに、そして迅速に、俺たちの『忘れ物』を、取り返しに行きますよ」
俺たちの静かなる反撃が、今、確かに敵の心臓部のすぐ足元まで迫っていた。
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