第三話:父親の覚悟と、最初の食事
ボルクさんの後を、俺は必死についていった。
れいかの小さな手を引きながら、慣れない岩場や木の根に何度も足を取られそうになる。その度に、れいかが「パパ、大丈夫?」と不安そうな声を出す。俺は「大丈夫だ」と力なく笑い返しながら、自分の情けなさに奥歯を噛み締めた。残業続きの体は、とっくに悲鳴を上げていたが、それ以上に、父親としての無力感が心を苛んでいた。
洞窟の外は、森だった。
だが、それは俺が知っている「森」という言葉の範疇を、遥かに超えていた。
天を突くほど巨大な、ねじくれた木々。その幹には、見たこともない鮮やかな色の苔が、まるで血管のように張り付いている。地面には、淡い光を放つキノコや、人の背丈ほどもある巨大なシダ植物が生い茂り、一歩踏み出すごとに、熟れた果実が腐ったような、甘く、むせ返るような匂いがした。空気は濃く、湿っていて、肺がじっとりと重くなるのを感じる。時折、遠くから聞こえる甲高い鳥の鳴き声のようなものは、俺が知っているどの鳥のものとも違っていた。
ここは、俺たちが知っている日本じゃない。完全に、別の世界だ。その事実が、じわじわと、しかし確実に、俺の心を蝕んでいく。
先を歩くボルクさんは、時折、獣のように鋭い視線で周囲を警戒しながらも、一度も振り返らなかった。彼の歩き方には、一切の無駄がなかった。まるで、森そのものと一体化しているかのように、音もなく、滑るように進んでいく。だが、その歩く速度は、明らかに俺たち親子に合わせてくれているのが分かった。無愛想だが、根は優しい人なのかもしれない。そう思いたいが、ゴブリンを一刀両断したあの剣技を思い出すと、まだ彼を信用しきれない自分もいた。彼は、この世界の理そのもの。そして俺たちは、その理の外から来た、あまりにも無力な異物だった。
「パパ、おなかすいた…」
れいかが、ぽつりと呟いた。
その声は、森の不気味な静寂の中で、やけに大きく響いた。
ハッとした。考えてみれば、俺たちがこの世界に来てから、何も口にしていない。俺は残業帰りで、れいかは寝ていただけだ。空腹なのは当たり前だった。それなのに、俺は自分の混乱と恐怖で、娘の空腹にすら気づいてやれなかった。
(父親、失格だな…)
自嘲が、胸を刺す。
「もうちょっとだけ、我慢できるか? な? 街に着いたら、温かいスープと、ふわふわのパンを食べような」
「……うん」
健気に頷く娘の姿が、余計に胸を締め付けた。
そう言ってれいかの頭を撫でていると、先を歩いていたボルクさんが、ぴたりと足を止めた。
「……うるせえな。腹が減っては戦はできねえ、か」
彼は、近くの倒木にどかりと腰を下ろすと、腰の革袋から、黒くて硬そうな塊を二つ取り出し、無造作にこちらへ放り投げた。
「ほらよ。ありがたく食え。街までは、まだ半日はかかる」
それは、干し肉と、石みたいに硬いパンだった。
お世辞にも美味そうとは言えない。だが、今の俺たちにとっては、どんなご馳走よりもありがたい、命を繋ぐための食事だった。
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、ボルクさんは「フン」と鼻を鳴らしただけだった。
俺は、まず硬いパンを自分の唾で少しずつふやかし、小さく、小さくちぎって、れいかの口元へ運んでやる。れいかは、最初は警戒するように俺とボルクさんの顔を見比べていたが、やがて、小さな口でこくこくとパンを飲み込み始めた。その姿を見て、涙が出そうになるのを、必死でこらえた。前の世界なら、今頃は温かい食卓で、れいかの好きなハンバーグでも作ってやれたのに。そんな、ありふれた日常が、今は果てしなく遠い。
俺も、干し肉を口に入れる。革を噛んでいるような食感と、やけに塩辛い味。だが、空っぽの胃に、確かな熱が灯っていくのを感じた。生きている。生き延びなければ。その単純な事実が、体中に染み渡っていく。
食事を終え、再び歩き始めた時、俺は意を決して、ボルクさんに話しかけた。このまま、何も知らないままではいけない。
「あの…ボルクさん。この世界のこと、少し、教えてもらえませんか?」
「……何が知りたい」
「全部、です。ここがどこで、ゴブリンみたいな化け物が当たり前にいて、あなたのような人が、どうやって生きているのか。俺は…俺たちは、どうすれば、ここで生きていけるんでしょうか」
俺の問いに、ボルクさんはしばらく黙っていたが、やがて、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
この世界には、いくつかの国があり、王がいること。俺たちが今いるのは、ソルミナ王国という、比較的平和な国であること。だが、一歩街の外に出れば、ゴブリンやオーク、巨大な狼といった「魔物」が、そこら中にいること。そして、ボルクさんのような「冒険者」が、「冒険者ギルド」という組織から依頼を受けて、魔物退治や用心棒、素材の採集などをして生計を立てていること。
その話は、俺が漫画やゲームで知っている「ファンタジー世界」そのものだった。
だが、これはゲームじゃない。死ねば、それで終わりだ。リセットボタンなんて、どこにもない。
「あんたみたいな、武器も持たねえ素人が、娘を連れてうろついてりゃ、一日もたずに死ぬ。それが、この世界の現実だ」
ボルクさんの言葉が、重く胸に突き刺さる。
分かっている。俺は、無力だ。あの光の壁がなければ、俺たちは最初のゴブリンに殺されていただろう。あの力は、また使えるのか? どうすれば使えるんだ? 何も分からない。分からないことだらけだ。
(強く、ならなきゃ)
もう、何度目になるか分からない誓いを、心の中で繰り返す。
ヒーローになりたいわけじゃない。ただ、この子の手を引いて、この子の隣を歩き続けられるだけの力が欲しい。
父親として、当たり前のことを、当たり前にできるだけの力が。
そんなことを考えているうちに、森の木々が、少しずつ開けてきた。
そして、目の前に、それが見えた。
高く、そびえ立つ、石造りの壁。
その向こうに広がる、無数の家々の屋根。
街だ。文明の光だ。
「……着いたぞ」
ボルクさんが、吐き捨てるように言う。
「あれが、俺たちが拠点にしてる商業都市、ランドールだ。あそこに入れば、とりあえず、化け物にいきなり食われる心配はねえ」
俺は、その光景を、ただ呆然と見つめていた。
絶望の淵で見た、あまりにも大きな、希望の光。
俺は、れいかの手を、もう一度強く握りしめた。
「れいか、見てみろ。街だぞ」
俺の声は、自分でも驚くほど、震えていた。
俺たちの、この世界での、本当の第一歩が、今、始まろうとしていた。
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