【幕間・貴弘編】妻との約束と、宝物の誕生
俺の人生は、ずっと、図面の上にあるようなものだった。
名古屋の工業大学で建築構造力学を学び、卒業後は、中堅のビル管理会社に就職した。与えられた仕事は、古くなったビルのメンテナンス計画の策定と、現場の監督。壁のひび割れ、床の傾き、配管の腐食。そういった、建物の悲鳴に耳を澄まし、それが崩壊する前に、適切な「処方箋」を出すのが、俺の仕事だった。
俺は、この仕事が好きだった。
複雑な構造の中から、たった一つの弱点を見つけ出し、最小限のコストで、最大限の効果を発揮する修繕計画を立てる。それは、まるで、難解なパズルを解くような、知的な興奮があった。俺の世界は、コンクリートの圧縮強度や、鉄骨の許容応力度といった、明確な数字と法則で成り立っていた。そこに、曖昧な感情が入り込む余地はなかった。
だから、彼女と出会った時、俺は、人生で初めて、計算不能な「構造物」に遭遇したのだと思った。
彼女の名前は、梨花。
俺が担当していた、築五十年の古い雑居ビルの、一階で、小さな花屋を営んでいた。
その日の俺は、外壁のクラック(ひび割れ)の進行度を調査するために、ビルの周りを歩き回っていた。頭の中は、コンクリートの中性化速度と、鉄筋の腐食に関するデータでいっぱいだった。
「あのう」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、エプロン姿の彼女が、不思議そうな顔で、俺が見上げていた壁の一点を指さしていた。
「そこの壁、夕方になると、ちょうど西日が当たって、すごく綺麗なんですよ。苔の緑と、ひび割れの影が、一枚の絵みたいになるんです。何か、問題でもあるんですか?」
俺は、呆気に取られた。
俺が、建物の「欠陥」としてしか見ていなかったものを、彼女は「美しさ」として捉えていた。その視点が俺には衝撃だった。
「…いえ、これは構造上の欠陥です。放置すれば、雨水が浸入し、内部の鉄筋を錆びさせ、いずれは建物の寿命を縮めることになります」
「へえ…そうなんですね」
彼女は、俺の教科書のように無味乾燥な説明に、感心したように頷いた。
「詳しいんですね。なんだか、お医者さんみたい。建物の声を、聞いてあげてるんですね」
その言葉に、俺は心臓のあたりが、奇妙な熱を帯びるのを感じた。
俺の仕事を、そんな風に言ってくれた人は、今まで誰もいなかった。
それが、俺と梨花の最初の出会いだった。
それから、俺は、何かと理由をつけては、彼女の店に足を運ぶようになった。
「五階の配水管の点検です」とか、「屋上の防水シートの劣化具合の確認です」とか。そのほとんどは、口実だった。
俺は、彼女と話がしたかったのだ。
彼女は、俺が語る建物の構造の話を、いつも楽しそうに聞いてくれた。
「この梁は、テコの原理を応用して、最小限の部材で、最大限の強度を保っているんです」なんて説明をすれば、彼女は「すごい! この建物、頑張って立ってるんですね!」と、まるで自分のことのように喜んだ。
彼女の目を通すと、俺がずっと見てきた無機質なコンクリートの塊が、まるで意思を持って呼吸している、生き物のように思えてくるから不思議だった。
俺たちは、自然と恋に落ち結婚した。
俺たちの生活は派手さはないが、穏やかで満ち足りていた。
彼女は、俺の少し理屈っぽくて、不器用なところが好きだと言った。俺は、そんな俺の人生に彩りと、計算不能な暖かさを与えてくれる、彼女の笑顔が何よりも好きだった。
そして、結婚して三年目の春。
俺たちの間に、新しい命が宿った。
「ねえ、貴弘さん」
ある日の休日。俺たちは、俺が管理している一番高いビルの屋上にいた。
少しだけお腹が大きくなった梨花が、幸せそうに眼下に広がる名古屋の街並みを見つめている。
「こうして見ると、貴弘さんのお仕事って、本当にすごいよね」
「そうか? 地味な仕事だよ。誰も俺がこのビルの寿命を、あと二十年延ばしたなんて気づきもしないさ」
「それが、いいんじゃない」
彼女は、俺の腕にそっと寄り添った。
「貴弘さんは、ヒーローみたいに、みんなの前で活躍するわけじゃない。でも、誰も気づかないところで、たくさんの人の『当たり前の日常』を静かに守ってる。この街の、縁の下の力持ち。ううん…守り人みたい」
守り人。
その言葉が、すとんと、俺の胸に落ちた。
そうだ、俺は守っているのかもしれない。この無骨で無口なコンクリートの塊たちを。
「……ありがとう」
俺がそう言うと、彼女はいたずらっぽく笑って、自分のお腹を優しく撫でた。
「だからね、この子が生まれたら、きっと、世界一のパパになるよ。だって、こんなに大きくて、頑丈な建物を守れる人なんだもん。この、小さな命を守れないわけ、ないじゃない」
それが、俺と彼女の、言葉にはしない「約束」になった。
俺は、この愛する妻と、まだ見ぬ我が子を、この人生の全てを懸けて守り抜こう、と。
そう、心に誓った。
十月十日とつきとおか。
その日は、突然やってきた。
陣痛の連絡を受け、俺は、仕事も放り出して、病院へと駆けつけた。
分娩室の前で、俺は、人生で最も長い時間を過ごした。俺の、どんな知識も、どんな計算も、ここでは何の役にも立たない。ただ、祈ることしかできない、自らの無力さに、歯噛みするしかなかった。
そして。
「オギャアアアッ!」
世界が、その産声で、震えた。
看護師さんに導かれ、恐る恐る病室に入ると、汗でぐっしょりになった梨花が疲れ切った、しかし、最高の笑顔で俺に手招きをした。
その腕の中には、赤い顔をして、一生懸命に泣いている、小さな、小さな命があった。
「女の子、だって。貴弘さん」
「……ああ」
俺は、その小さな宝物を、震える手で、そっと抱き上げた。
温かい。軽い。
だが、その重みは、俺がこれまで支えてきた、どんな建物の、どんな梁よりも、重く、そして尊いものに感じられた。
俺の指を、小さな、小さな手が、きゅっと握り返す。
その瞬間、俺の世界の全ての法則が書き換わった。
俺は、この子のために生きるのだ、と。
この、かけがえのない宝物を守るためだけに、この命を使うのだ、と。
俺たちは、その子を、「れいか」と名付けた。
梨花の「花」という字に、令和生まれから一文字。梨花が、つけてくれた名前だ。
幸せは永遠に続くと信じていた。
信じて、いたかった。
だが、出産という大仕事は、梨花が思っていた以上に彼女の体を蝕んでいた。
退院して、数週間後。彼女は、些細な風邪をこじらせ、そのまま帰らぬ人となった。
あまりにも突然の静かな別れだった。
俺の計算と法則に満ちた世界は、音もなく崩れ落ちた。
葬儀からの数日間、俺がどうやって過ごしたのか、よく覚えていない。
ただ、腕の中で泣き続ける、小さなれいかの温もりだけが、俺をこの世界に繋ぎとめていた。
これから、どうすればいいのか。
俺一人で、この子を育てていけるのか。
絶望が、俺の心をコンクリートのように固めていく。
その夜、俺はれいかが眠るベビーベッドの横で、一人途方に暮れていた。
その、小さな寝顔。
穏やかに、すー、すー、と上下する小さな胸。
その顔は、俺が愛した梨花の面影を、色濃く宿していた。
その寝顔を見た瞬間、俺の脳裏にあの日のビルの屋上での、梨花の言葉が鮮やかに蘇った。
『この子が生まれたら、きっと、世界一のパパになるよ』
『この、小さな命を守れないわけ、ないじゃない』
そうだ。俺は約束したじゃないか。
守り人になる、と。
この子の、たった一人の守り人に。
涙が、溢れてきた。
だがそれは、絶望の涙ではなかった。
固まっていた心が、ゆっくりと溶けていく。
俺の人生の、新しい設計図が見えた気がした。
俺の仕事は、もうビルを管理することだけじゃない。
この小さなかけがえのない宝物が、健やかに笑顔でいられる、その「日常」という名の、頑丈な建物を築き上げ守り抜くこと。
それが俺の新しい仕事だ。
俺は、そっとれいかの小さな手を握った。
「大丈夫だれいか。パパがついてる。ずっと一緒だからな」
それは、今は亡き妻との、そしてまだ何も知らない、俺の宝物との永遠の約束。
俺の、この世界での、本当の戦いが始まった瞬間だった。
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