第十七話:父親の覚悟と、一瞬の勝機
心臓が、喉から飛び出しそうだった。
背後には、仲間たちの激しい戦闘音。目の前には、一体の、死を擬人化したかのような巨大なホブゴブリン。そして、俺の手の中にあるのは、護身用にしかならない、錆びついた短剣。
絶望的な状況。あまりにも、戦力差がありすぎる。
「グルオオオ…」
ホブゴブリンは、俺を値踏みするように、ゆっくりと距離を詰めてくる。その目に宿る、残忍な光。こいつは、俺がただの獲物ではないこと、この砦の運命を左右する鍵であることを、正確に理解している。
脳が、警鐘を乱れ打つ。
逃げろ。ボルクさんを呼べ。エリアナに助けを求めろ。
だが、足は、鉛のように重く、動かない。
(ここで、俺が死んだら…)
脳裏に、れいかの笑顔が浮かぶ。
ギルドで、俺の帰りを待っている、たった一人の娘。
もし俺がここで死んだら、あの子は、この過酷な世界で、本当に一人ぼっちになってしまう。
その想像が、恐怖で凍りついていた俺の心に、一本の、熱い鉄の杭を打ち込んだ。
(冗談じゃない…!)
死んでたまるか。こんな、薄汚い化け物に、俺の未来も、娘の未来も、奪われてたまるか。
その瞬間、俺の恐怖は、別の感情へと昇華した。
それは、怒りですらなかった。ただ、冷徹な、目的遂行のための、氷のような「覚悟」。
俺は、震える手で、腰の短剣を抜いた。
「ギギ…」
ホブゴブリンが、俺のちっぽけな抵抗を嘲笑うかのように、喉を鳴らす。
そうだ、笑え。お前が俺を、ただの無力な獲物だと思っている、その一瞬こそが、俺にとって唯一の勝機だ。
俺は、剣を構えるふりをしながら、その実、ユニークスキル【構造解析】を、最大出力で発動させていた。
だが、解析の対象は、目の前のホブゴブリンではない。
この空間、そのものだ。
ホブゴブリンの背後にある、石壁の亀裂。
俺が立っている、少しだけ傾いた石畳。
そして、俺たちの間にある、巨大な木の門と、それを支える、粗末な「つっかえ棒」。
頭の中に、無数のデータが流れ込んでくる。
重量、材質、重心、そして、応力集中点。
そして、その解析結果が、たった一つの、あまりにも無謀な「解」を、俺に示していた。
「ガアアアアッ!」
ホブゴブリンが、ついに痺れを切らし、巨大な戦斧を振り上げ、こちらへ突進してくる。
死が、数メートル先まで迫る。
(――今だ!)
俺は、ホブゴブリンに背を向け、奴が俺に斬りかかる、その直前に、地面を蹴った。
目標は、敵じゃない。門を塞ぐ、巨大な丸太のつっかえ棒だ。
「な、何をしやがる!?」
背後から、見ていたボルクさんの、驚愕の声が聞こえる。
だが、俺に迷いはなかった。
俺は、リュックから、鉄のてこ(バール)を取り出すと、スキル【構造解析】が示した、つっかえ棒を固定している、ただ一点の、致命的な弱点に、その先端を突き刺した。
ゴブリンの知性では、まともな留め具など作れなかったのだろう。そこは、ただ、いびつな形の石を、楔のように打ち込んであるだけだった。
「うおおおおおおっ!」
俺は、自分の41年間の人生の、全ての体重と、理不尽への怒りと、そして、娘への愛を、その一本のてこに込めた。
ギシリ、と、木と石がこすれる、嫌な音が響く。
戦斧が、俺の背中を薙ぎ払う、その寸前。
ゴッ!
鈍い音と共に、楔の役割をしていた石が、弾け飛んだ。
支えを失った、何百キロもあるであろう巨大な丸太のつっかえ棒が、まるで巨大な振り子のように、凄まじい勢いで、内側へと振り下ろされた。
「グ…ェ…?」
ホブゴブリンが、目の前で起きた現象を理解できずに、間抜けな声を上げる。
だが、もう遅い。
振り下ろされた丸太は、突進してきたホブゴブリンの胴体を、真正面から、完璧に捉えていた。
骨が砕ける、鈍く、湿った音。
ホブゴブリンの巨体は、「く」の字に折れ曲がり、一言の悲鳴すら上げる間もなく、門の内側へと吹き飛ばされていった。
後には、静寂と、大きく開かれた門と、そして、てこを握りしめたまま、ぜえぜえと肩で息をする、俺だけが残されていた。
「……はぁ…はぁ…」
勝った。
生きている。
その事実を、俺の脳がようやく理解する。途端に、腰が抜け、俺はその場にへたり込んだ。
「……おい、貴弘! 無事か!」
残りのゴブリンを片付けたのだろう、血と泥にまみれたボルクさんと、エリアナが、開かれた門から駆け込んでくる。
二人は、門の内側で、巨大な丸太の下敷きになって、原型を留めないほどに潰れたホブゴブリンの残骸と、その隣で、武器でもない鉄の棒を握りしめて座り込む俺を、信じられないものを見るように、交互に見つめていた。
「……ったく。心臓に悪い奴だ、お前は…」
ボルクさんは、そう言うと、俺の隣にどかりと座り込み、その大きな手で、俺の頭を、わしわしと乱暴に撫でた。
「だが、よくやった。最高の、仕事だったぜ。リーダー」
その言葉が、なぜか、胸に沁みた。
俺は、この世界に来てから、ずっと張り詰めていた何かが、ぷつりと切れるのを感じながら、ただ、仲間たちの顔を見つめていた。
砦は、陥落した。
俺たちの、長くて、そして奇妙な一日が、ようやく、終わろうとしていた。
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