第十六話:父親の号令と、崩壊の連鎖
時が、止まったように感じた。
小高い丘の上、俺の隣で、エリアナが深く、静かに息を吸い込む。その小さな体に、周囲のマナが、まるで渦を巻くように収束していくのが、素人の俺にも分かった。
彼女は、もう、あの頃の彼女じゃない。自分の力を恐れ、暴走させていた、落ちこぼれの少女ではない。
師匠である俺の「診断」を信じ、自らの才能を完全に制御下に置いた、一人の、恐るべき魔法使いだ。
彼女の杖先に、極小の一点、星のような光が生まれる。
それは、以前のような、荒れ狂う炎の塊ではなかった。全ての力を、ただ一点に、針の先のように、恐ろしいほどに凝縮させた、純粋な魔力の塊。
(押し出すな。ただ、道を作ってやるんだ)
俺が教えた、配管工事の極意。
エリアナは、その言葉を、完璧に実行していた。
彼女の視線は、遥か先の、砦の見張り台、その一本の支柱の、俺が【構造解析】で見抜いた、致命的な一点に、完全に固定されている。
そして。
「――いっけぇえええええ!」
気合の叫びと共に、その光が放たれた。
音は、なかった。
ただ、一本の白い光の筋が、空気を切り裂いて、砦へと突き進む。それは、まるで、設計図の上に引かれた、完璧な直線のように、一切のブレもなく、目標へと吸い込まれていった。
一瞬の静寂。
見張り台の上のゴブリンたちが、何が起きたのか分からずに、きょとんと首を傾げている。
だが、次の瞬間。
メキィッ!
エリアナの魔力が着弾した支柱が、内部から破裂するように、甲高い音を立てて砕け散った。
そして、連鎖が始まる。
一本の支えを失ったやぐらは、自らの重みに耐えきれず、まるでスローモーションのように、ゆっくりと内側へと傾いていく。
「ギッ!? ギャアアアアアッ!」
ゴブリンたちの悲鳴が、ようやく辺りに響き渡る。
だが、もう遅い。
轟音と共に、砦の司令塔は、バランスを失った積み木のように、内側へ、内側へと崩れ落ちていった。舞い上がる土煙が、砦の上半分を覆い隠す。
作戦の、第二段階。開始の合図だ。
「ボルクさんッ!」
俺の叫びと同時に、砦の正面に潜んでいたボルクさんが、雄叫びを上げて飛び出した。
彼の目標は、俺たちの「土木工事」によって、基礎が水を含んで脆くなっている、壁の一角。
「うおおおおおおっ!」
渾身の力が込められたボルクさんの剣が、巨大な戦斧のように、壁に叩きつけられる。
ドゴォッ!
湿った、鈍い音が響き渡り、壁の一部が、泥のように崩れ落ちた。
一度の攻撃では、まだ穴は小さい。だが、それで十分だった。
「ギギギ…!」
やぐらの崩壊で混乱していたゴブリンたちが、新たな脅威に気づき、壁の崩れた箇所へと殺到する。
だが、それが、俺たちの狙いだった。
「今だ、ボルクさん! もう一撃!」
「言われなくとも!」
ボルクさんが、再び渾身の一撃を叩き込む。
敵が内側に集まったことで、壁への圧力がさらに増していたのだろう。
二撃目の一撃は、壁全体を揺るがし、巨大な突破口を穿つことに成功した。
「っしゃあ!」
ボルクさんが、その穴から、猛牛のように内部へと突入する。
彼の姿に、ゴブリンたちが一斉に殺到した。狙い通り、敵の注意は、完全にボルクさん一人に引きつけられている。
「師匠! ボルクさんが!」
「大丈夫だ! あの人は、ただの盾じゃない!」
ボルクさんは、ただやみくもに剣を振るっているのではなかった。俺が事前に指示した通り、崩れた壁の瓦礫を巧みに使い、自分の周りに即席のバリケードを築きながら、敵の数を減らしていく。彼の戦い方は、力任せに見えて、その実、長年の経験に裏打ちされた、極めて合理的なものだった。
だが、敵の数が多い。
壁の上のゴブリンが、ボルクさんめがけて、弓を放った。
「ボルクさん! 上!」
俺の叫びとほぼ同時に、俺は自分の前に、光の壁【絶対防御】を展開させていた。
ヒュン、と風を切って飛んできた矢は、俺の眼前に現れた光の壁に弾かれ、あらぬ方向へと飛んでいく。
「…チッ、助かったぜ、貴弘!」
ボルクさんからの、声だけの感謝。
俺は、丘の上から、戦場全体を見渡し、司令塔としての役割に徹する。
「ボルクさん、右後方! 樽の陰に二匹!」
「エリアナ、正面の壁の上、弓兵を頼む! 一人ずつでいい、確実に潰せ!」
俺の指示に、二人が完璧に応える。
ボルクさんの剣が唸り、エリアナの放つ光の矢が、次々と壁の上の弓兵を沈黙させていく。
戦局は、完全に俺たちのものだった。
よし、今だ。
「二人とも、そのまま敵を引きつけてください! 俺は、最後の仕上げにかかります!」
俺は、そう叫ぶと、丘を駆け下り、ボルクさんが作った壁の突破口へと向かった。
ここからは、俺一人の戦いだ。
俺は、息を殺し、壁の瓦礫に身を隠しながら、砦の内部を慎重に進んでいく。ボルクさんが派手に暴れてくれているおかげで、こちらに気づくゴブリンはいない。
そして、ついに、俺はたどり着いた。
砦の正面、巨大な木の門の、内側へと。
そこには、俺が予測した通り、巨大な丸太が、つっかえ棒として門を塞いでいた。
(よし…!)
俺は、背中のリュックから、鉄のてこと、滑車、そして丈夫な麻縄を取り出した。
作戦の最終段階、フェイズ・スリー。この門を開け、ゴブリンたちの逃げ道を塞ぎ、完全に孤立させる。
俺が、てこを丸太の隙間に差し込もうとした、その時だった。
「グルルルル…」
背後から、地の底から響くような、低い唸り声が聞こえた。
俺は、凍りついたように、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、他のゴブリンたちとは、明らかに違う、一匹の魔物だった。
身長は、俺と同じくらい。その体は、醜い傷跡に覆われ、分厚い筋肉で膨れ上がっている。手には、人間の兵士から奪ったのであろう、錆びついた戦斧。そして、その目には、他のゴブリンにはない、狡猾で、残忍な光が宿っていた。
ホブゴブリン。あるいは、この部隊の隊長クラスか。
まずい。ボルクさんが引きつけきれなかった、大物が、一匹、残っていた。
そいつは、俺と、俺がやろうとしていることを、正確に理解しているようだった。
俺は、腰の錆びついた短剣に、そっと手をかける。
だが、震えは止まらない。
エリアナは、遠い。ボルクさんは、敵の真っ只中。
俺は、一人だった。
父親としての、本当の意味での「戦場」に、ただ一人、立たされていた。
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