第十五話:父親の土木工事と、静かなる開戦
王都へと続く街道を外れ、険しい獣道を進むこと二日。
俺たちの間には、ほとんど会話はなかった。だが、その沈黙は、気まずいものではない。むしろ、一つの目的に向かって神経を研ぎ澄ませている、心地よい緊張感に満ちていた。
時折、ボルクさんが、先行する斥候ゴブリンの首を、音もなく刎ねる。その度に、俺たちは歩みを止め、息を殺して周囲を警戒した。敵の警戒網は、俺たちが想像していた以上に、広く、そして緻密に張り巡らされていた。
二日目の夜。俺たちは、小さな焚き火を囲んでいた。
パチパチと薪がはぜる音だけが、静かな森に響いている。
「……師匠」
膝の上で、借り物のナイフを手入れしていたエリアナが、ぽつりと呟いた。
「明日、私の魔法…本当に、成功するでしょうか。もし、私が失敗したら、師匠とボルクさんが…」
「失敗しないさ」
俺は、彼女の言葉を遮るように、きっぱりと言った。
「これは、君一人の魔法じゃない。俺の『診断』と、ボルクさんの『盾』、そして、君の『精密射撃』。三つの歯車が噛み合って、初めて動く仕掛けだ。君は、自分の役割にだけ集中すればいい。後のことは、俺たちがなんとかする」
「……はい」
エリアナは、小さく頷いた。その瞳に浮かんでいた不安の色が、少しだけ和らいだように見えた。
焚き火の向こうで、腕を組んで目を閉じていたボルクさんが、静かに口を開いた。
「ガキの頃、親父によく言われたもんだ。『戦場で信じられるのは、自分の腕と、隣にいるダチの腕だけだ』ってな。エリアナ、お前は、こいつのふざけた頭脳と、俺の腕を信じろ。それだけでいい」
そのぶっきらぼうな言葉には、不思議な説得力があった。エリアナは、もう何も言わずに、ただ、こくりと頷いた。
俺は、空を見上げた。月明かりが、異世界の木々の隙間から、静かに降り注いでいる。今頃、れいかは、ギルドのベッドで、どんな夢を見ているだろうか。俺が渡した画用紙に、どんな絵を描いているだろうか。
必ず、帰る。
心の中で、もう一度、強く誓った。
◇
三日目の昼過ぎ。俺たちは、ついに目的の場所にたどり着いた。
木々の切れ間から、その全貌が見える。粗末な丸太と石で組まれた壁、そして、その中央にそびえ立つ、不格好な見張り台。ゴブリンの砦だ。
双眼鏡代わりの、ギルドから借りた単眼鏡で観察する。見張り台の上には、弓を持ったゴブリンが数匹。壁の上を、槍を持ったゴブリンが、規則正しく巡回している。その動きには、一切の無駄がない。まるで、人間の兵士のように。
「……ひどいもんだな。こいつは、もうただの魔物の巣じゃねえ。軍隊の駐屯地だ」
ボルクさんが、苦々しげに吐き捨てる。
俺は、その砦の全体像を、この目に、そして【構造解析】のスキルに焼き付けた。頭の中で、スケッチから作り上げた三次元モデルが、現実の情報によって、より精密なものへとアップデートされていく。
やはり、間違いない。この砦は、三つの致命的な「欠陥」を抱えている。
「よし、始めましょうか」
俺は、二人に合図を送ると、音を殺して、砦の側面を流れる川へと向かった。
作戦の第一段階。フェイズ・ワンの開始だ。
「ここです」
俺が指し示したのは、川が大きく蛇行し、その外側の岸が、長年の水流で深くえぐられている場所だった。砦の壁の、ちょうど真横にあたる。
「この部分の土手は、見た目よりずっと脆い。ここを崩し、新しい水の通り道を作ってやれば、水は、地形の一番低い場所…つまり、砦の壁の基礎部分へと、自然に流れ込んでいくはずです」
「だが、どうやって崩す? シャベルもクワもねえんだぞ」
「だから、これを使うんです」
俺は、リュックから、鉄のてこと、丈夫な麻縄を取り出した。
これが、俺の「土木工事」の全てだ。
「ボルクさん。対岸の、あの一番大きな木の根元に、この縄を巻き付けてください。あとは、俺がやります」
ボルクさんは、俺の意図を察すると、軽々と川を飛び越え、指示通りに縄をセットする。
俺は、その縄のもう片方を、岸辺の一番大きな岩に固く結びつけた。
そして、その縄がピンと張った、ちょうど中間点の土手に、鉄のてこを、深く、深く突き刺していく。
「てこの原理と、水の力。そして、この土地の『歪み』。それを利用するんです」
俺は、自分の全体重を、てこにかけた。
ミシミシ、と、地面が悲鳴を上げる。
ボルクさんも、対岸で、縄が緩まないように、その巨体で必死に踏ん張っている。
数分間、ただひたすらに、てこに力を加え続ける。額から、玉のような汗が流れ落ちた。
そして、ついに、その瞬間が訪れた。
メキメキメキッ!
嫌な音と共に、俺が立っていた足元の地面が、大きく、そして静かに、川の中へと崩れ落ちていった。
濁流が、新しくできた通り道へと、勢いよく流れ込んでいく。その流れは、俺が【構造解析】で予測した通り、まっすぐに、ゴブリンの砦の壁へと向かっていた。
作戦の第一段階は、完了した。
俺たちは、誰にも気づかれることなく、音もなく、敵の砦の土台を、内側から腐らせ始めたのだ。
俺たちは、静かにその場を離れ、砦を見渡せる、小高い丘の上へと移動した。
ここが、作戦の第二段階、フェイズ・ツーの舞台だ。
「エリアナ」
俺が声をかけると、彼女は静かに頷き、古びた杖を構えた。その横顔は、真剣そのものだ。
彼女の視線の先には、砦の中央にそびえる、敵の司令塔である、見張り台。
「ボルクさんは、壁の正面へ。壁が崩れたら、真っ先に突入し、敵の注意を引きつけてください」
「ああ、任せとけ。大暴れしてやるさ」
ボルクさんが、剣の柄を握りしめる。
「俺は、ボルクさんの援護と、最後の仕上げをします」
俺は、三人の顔を、ゆっくりと見回した。
不器用な父親と、岩のように頑固なベテラン戦士と、そして、制御不能な才能を秘めた、落ちこぼれの魔法使い。
こんな寄せ集めのパーティが、今、この国の運命を左右するかもしれない、無謀な戦いに挑もうとしている。
だが、不思議と、不安はなかった。
俺は、静かに、だが、確かな声で、最後の指示を出した。
「作戦開始は、エリアナ、君の魔法が着弾し、あの見張り台が崩れる音だ。……頼んだぞ、二人とも」
その言葉を合図に、ボルクさんは音もなく駆け出し、エリアナは、深く、深く息を吸い始めた。
俺は、ただ、静かに、その時を待った。
俺たちの、本当の初陣が、今、始まろうとしていた。
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